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第50話 すべての始まり

*


「俺は昔――政府の研究機関に身を置いていた」


ジンの静かな声が、作戦室に響く。


カイも。


レンも。


ラックも。


誰一人として口を挟まない。


ジンはゆっくりと目を閉じた。


そして――


遠い過去を語り始めた。


*


白い研究室。


壁一面に並ぶモニター。


無数の数値とグラフが、空中に浮かぶホログラム上を流れていく。


その中央。


白衣を纏った若き日のジンが、端末を操作していた。


ここは――政府直属の研究機関。


そこで研究されていたのは、人間の脳。


そして。


《ブレンアーツ》


脳へ与える負荷。


セントラルとの関係。


ありとあらゆる研究が、この場所で行われていた。


その中でも――


ジンが室長を務めていた研究室には、一つの大きな研究テーマが与えられていた。


《セントラル同期率の人為的向上》


人間の脳とセントラルとの同期率を強制的に引き上げる。


それによって――


スペックそのものを、人為的に上昇させる。


LEVEL2をLEVEL3へ。


LEVEL3をLEVEL4へ。


そして、いつかは――


人間そのものを、より高次の存在へ。


政府が掲げていたのは、そんな研究だった。


「室長」


背後から声がした。


「ん?」


ジンが振り返る。


そこにいたのは、一人の女性。


長い栗色の髪。


白衣。


柔らかな笑みを浮かべながら、資料を抱えている。


――ナギサ。


この研究所でジンと共に働く研究員。


そして――


相葉ジンの妻だった。


ジンは困ったように眉を下げる。


「もう室長はよしてくれ、ナギサ」


「どうしてです?」


「俺たち、もう結婚してるんだぞ」


「だからですよ」


ナギサはクスクスと笑った。


「ここで『ジンさん』って呼ぶのも照れくさいじゃないですか」


「……そういうもんか?」


「そういうものです」


ナギサは胸を張る。


「だから、室長でいいんです」


「なんだそれ」


ジンが吹き出す。


「ははっ」


「ふふっ」


白く無機質な研究室に。


二人の笑い声が響いた。


――あの頃。


俺は幸せだった。


研究者として。


一人の男として。


愛する女が隣にいて。


それだけで――


十分だった。


だが。


同時に俺は、この研究を続ける中で――


一つの疑念を抱き始めていた。


「…………」


ジンは研究室の奥へ向かう。


厳重にロックされた棚。


認証を済ませる。


――ピピッ。


ガシュッ。


扉が開いた。


内部には無数の培養器が並んでいる。


その一つを、ジンはじっと見つめた。


透明な液体。


その中に浮かんでいる、小さな組織片。


「…………」


これは――


死亡したLEVEL1から採取された脳細胞の一部。


ジンが指を動かす。


ヴンッ――


目の前に巨大なホログラムが展開された。


そこに表示されたのは――二つのデータ。


一つはLEVEL1。


もう一つは、それ以外の人間。


「……おかしい」


ジンが呟く。


同じ人間。


同じ種。


脳の基本構造にも、決定的な違いなどない。


それなのに――


なぜ。


LEVEL1だけが、これほどセントラルとの同期率が低い?


なぜ、スペックを上昇させる処置がほとんど機能しない?


「…………」


ジンが遺伝情報を表示する。


無数の文字列がホログラム上を流れていく。


比較。


解析。


照合。


やがて――


赤い文字が浮かんだ。


《SEQUENCE MISMATCH》


「……やっぱりだ」


一致しない。


同じ人間であるはずなのに。


LEVEL1の遺伝情報には――


明らかに異なる箇所が存在している。


「どういうことだ……?」


ジンが培養器を見る。


「やはり……LEVEL1は俺たちとは違う、何かがあるのか……?」


「まーた難しい顔してる」


「――ん?」


突然。


両頬を挟まれた。


むにっ。


「…………」


ジンの顔が強制的に潰される。


目の前には――ナギサ。


「おい……」


「室長、最近ずっとその顔ですよ?」


ナギサがジンの頬を両手で挟んだまま笑う。


「せっかく格好いい顔してるのに、台無しです」


「仕事中だぞ」


「私も仕事中です」


「じゃあ手を離せ」


「嫌です」


「なんでだよ」


「ふふっ」


「……ははっ」


結局。


ジンも笑った。


この時の俺は――


まだ知らなかった。


自分が見つけたその小さな違和感が。


この世界そのものへ繋がっていることを。


そして。


LEVEL1という存在が――


何を意味しているのかを。


*


それから――


しばらくして。


俺たちの間に、新しい家族が生まれた。


「おぎゃあっ! おぎゃあっ!」


小さな泣き声。


ナギサの腕の中。


小さな、小さな赤ん坊が泣いている。


「…………」


ナギサが、その小さな手に指を近づける。


赤ん坊の手が――


きゅっ。


ナギサの指を握った。


「……ジンさん」


ナギサの目から涙が溢れる。


「ほら……」


「…………」


ジンも。


何も言えなかった。


ただ。


涙が滲んだ。


「ルイ……」


震える指で、小さな頬に触れる。


温かい。


生きている。


俺たちの――娘。


「ナギサ……」


ジンが妻の肩を抱く。


「ルイ……」


声が震える。


「よく頑張った……」


ナギサの頭を抱き寄せた。


「頑張ったなぁ……」


「……はい」


ナギサも泣きながら笑った。


三人で抱き合った。


この瞬間。


俺は本気で思った。


この二人を――


何があっても守る。


どんなことがあっても。


絶対に。


だが。


そんな幸せは――


長くは続かなかった。


*


五年後。


――ピンポーン。


自宅の端末に、一件の通知が届いた。


政府からだった。


「…………」


何気なく開いた。


本当に。


ただ、それだけだった。


だが――


その一枚の通知が。


俺たち家族のすべてを壊した。


《スペック適性検査結果通知》


《対象者:相葉ルイ》


そして――


《判定:LEVEL1》


「…………え?」


ジンの表情が凍りつく。


その下。


さらに文章が続いていた。


《対象者・相葉ルイの身柄を、直ちに政府指定機関へ引き渡してください》


「……なんだよ、これ」


後ろにいたナギサが、画面を見る。


「…………」


手にしていたカップが震えた。


「ルイが……LEVEL1……?」


二人が同時に振り返る。


そこには。


何も知らない五歳のルイがいた。


床に座り。


玩具を抱えながら――


無邪気に笑っていた。


「パパ?」


「…………」


その瞬間。


ジンは決めた。


「ナギサ」


「……はい」


「逃げるぞ」


ナギサは何も聞かなかった。


ただ。


強く頷いた。


*


その日のうちに、三人は逃げた。


政府の手が届かない場所へ。


遠く。


もっと遠くへ。


ルイを守れる場所へ。


だが――


甘かった。


この世界で。


セントラルから逃げられる場所など――


存在しなかった。


「止まれ!!」


「対象を確保しろ!!」


無数の政府兵。


逃走経路は完全に読まれていた。


「ルイ!!」


「ママぁっ!!」


「その子に触るなぁぁっ!!」


ジンが兵士へ殴りかかる。


だが。


数が違いすぎた。


ドゴッ!!


「ぐっ!」


腹部に一撃。


膝をついたところを、数人の兵士に押さえ込まれる。


「ジンさん!!」


ナギサも拘束された。


「やだぁぁっ!! パパ! ママぁぁっ!!」


ルイが泣き叫ぶ。


「ルイ!!」


ジンが必死に手を伸ばす。


だが。


届かない。


娘の小さな身体が――


兵士に抱き上げられる。


「パパぁぁぁぁ!!」


「ルイぃぃぃぃっ!!」


そのまま。


ルイは連れ去られた。


*


ジンとナギサが連行された場所。


それは――


セントラルヒルズ。


政府中枢。


そして。


その――最上階。


巨大な扉が開かれる。


「…………」


ジンは息を呑んだ。


異様な空間だった。


天井は高く。


白い床が遥か先まで続いている。


その左右。


並ぶ――十三人。


ナンバーズ。


政府最高戦力。


十三人全員が、こちらを見ていた。


そして。


その中央。


巨大な玉座に――


一人の女が座っていた。


挿絵(By みてみん)


「初めまして」


女が微笑む。


「相葉ジン」


そして。


「相葉ナギサ」


「…………」


ジンが女を睨みつける。


「誰だ……お前は」


女は静かに立ち上がった。


「私は――」


両腕を広げる。


「セントラル」


「……!」


「この世界の――神にも近い存在です」


ジンの瞳が揺れる。


セントラル。


それはシステムの名称であるはずだった。


人々のスペックを管理し。


社会を管理し。


すべてを統括する存在。


それが――


人の姿で、目の前にいる。


女は微笑んだ。


「あなたたちは幸運です」


「……何?」


「あなたたちの娘――ルイ」


その名前を聞いた瞬間、ジンの顔が変わる。


「ルイをどこへやった!!」


「落ち着きなさい」


女はまったく動じない。


「あの子は――神の子です」


「……神の子?」


ジンが低く呟く。


「ええ」


女は微笑む。


「そうです」


女の目が細められる。


「あの子には、この世界を変える力がある」


「…………」


「私はずっと――彼女を探していました」


「ふざけないで!!」


ナギサが叫んだ。


「ルイはあなたたちの道具じゃない!!」


女を見る。


「私たちの娘です!」


「その通り」


女は淡々と答えた。


「ですが――」


微笑みは消えない。


「あの子には、大いなる勤めがあるのです」


「そんなもの知るか!!」


ジンが拘束を振り解こうと暴れる。


「ルイを返せ!!」


兵士たちが押さえ込む。


「返してくださいっ!!」


ナギサも叫ぶ。


「それは出来ません」


「だったら……」


ジンが歯を食いしばる。


「せめて……」


声が震える。


「ルイに会わせてくれ……!」


「…………」


女はしばらくジンを見つめた。


そして。


「いいでしょう」


指を軽く振る。


ヴンッ――


巨大なホログラムが展開された。


「――――」


ジンの呼吸が止まる。


そこに映し出されたのは――


無数の配線。


無機質な金属製の箱。


幾重にも並ぶ巨大な機械。


そして。


その中央。


小さな身体。


「…………」


頭部。


背中。


腕。


複数のケーブルが接続されている。


力なく項垂れた――


五歳の少女。


「…………ルイ?」


ジンの声が震える。


少女が僅かに顔を上げる。


「…………」


「ルイ……」


「……パ……パ……?」


その瞬間。


「ルイぃぃぃぃぃっ!!!!」


ジンが叫んだ。


「離せ!!」


拘束を振り解こうとする。


「離せぇぇぇぇっ!!」


政府兵がジンを床へ押さえつける。


ドンッ!!


頬が床に叩きつけられる。


それでも。


ジンはホログラムから目を離さない。


「ルイ!!」


娘へ手を伸ばす。


「パパが助ける!! 絶対に助けるからな!!」


届くはずもない。


ただの映像。


それでも――


必死に手を伸ばす。


「無駄な抵抗はやめなさい。相葉ジン」


女の声。


「これは、この子の宿命なのです」


その時だった。


「…………」


ナギサの身体が震えていた。


俯いたまま。


唇を噛み締め。


その手が――


ゆっくりと懐へ伸びる。


「……返して」


誰にも聞こえないほどの声。


「私の……」


取り出したのは――


小さなナイフ。


「娘を返してぇぇぇぇっ!!!」


ナギサが走った。


女へ向かって。


「ナギサ――!!」


ジンが叫ぶ。


そして。


――パンッ。


乾いた音がした。


「…………え?」


ナギサの身体が止まる。


額から。


一筋の赤い線が流れた。


次の瞬間。


血飛沫が舞う。


そして――


ドシャァッ。


ナギサが倒れた。


ジンの目の前に。


「…………」


時間が止まった。


「ナ……ギサ……?」


返事はない。


「…………」


ジンの瞳が見開かれる。


「あ……」


喉の奥から。


声にならない声が漏れる。


そして――


「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」


拘束していた兵士を振り払う。


「ナギサァァァァァァァァァァッ!!!!」


床を這うように駆け寄る。


「ナギサ!!」


抱き起こす。


「おい!!」


血が止まらない。


「ナギサ!! 聞こえるか!?」


頬に触れる。


「俺だ!! ジンだ!!」


反応はない。


「目を開けろ!!」


揺さぶる。


「頼む……」


声が崩れる。


「頼むから……」


ナギサの瞳には――


もう。


光はなかった。


力の抜けた腕が。


するりとジンの腕から落ちる。


べちゃっ。


血溜まりの中へ。


「…………」


ジンは。


妻を抱いたまま動かなかった。


女――セントラルは。


そんなジンを見下ろしていた。


「可哀想な相葉ジン」


「…………」


「ですが――」


静かな声。


「これもまた、運命なのです」


「…………」


ジンの腕に力が入る。


ナギサを抱き締める。


そして――


ゆっくりと顔を上げた。


「……許さない」


「…………」


「お前だけは……」


涙に濡れた瞳。


その奥に。


燃えるような憎悪が宿っていた。


「絶対に……」


歯を食いしばる。


「許さない……っ!」


そして。


ジンは叫んだ。


「――――セントラルッ!!!!」


女は表情一つ変えない。


「全ての権限を剥奪」


「……!」


「この男を――スラムへ連行しなさい」


「はっ」


兵士がジンへ近づく。


「触るな!!」


暴れる。


だが。


首筋に冷たい感触。


プシュッ――


「……っ」


薬品が注入された。


急速に身体から力が抜けていく。


視界が霞む。


音が遠ざかる。


「セント……ラル……」


それでも。


ジンは女を睨み続けた。


「必ず……」


身体が崩れる。


「ルイを……」


視界が黒く染まっていく。


最後に見えたのは――


血溜まりに横たわるナギサ。


そして。


ホログラムの中で、無数のケーブルに繋がれた――


娘の姿だった。


*


――ザーッ。


雨の音。


「…………」


ジンが目を開ける。


暗い。


冷たい。


鼻を突く異臭。


「…………ここは……」


身体を起こす。


そこは――


スラムの端。


巨大なゴミ溜めだった。


廃棄された機械。


腐った食料。


壊れた家具。


その中に。


まるでゴミの一つであるかのように――


ジンは捨てられていた。


雨が降っている。


冷たい雨が。


身体を濡らしていく。


「…………」


ジンは動かなかった。


頭の中には。


ナギサ。


ルイ。


二人の顔だけが。


何度も。


何度も。


浮かんでは消える。


「…………」


拳を握った。


泥を掴む。


「……ルイ」


まだ生きている。


娘は――


まだ。


生きている。


なら。


「…………」


ジンは立ち上がった。


ふらつく。


転びそうになる。


それでも。


立った。


あの日。


俺は――


全てを失った。


地位も。


研究者としての権限も。


家も。


妻も。


娘さえも。


だが、俺の目は――


まだ死んじゃいなかった。


「……待ってろ」


雨の中。


ジンは歩き始める。


「必ず……助けに行く」


一歩。


また一歩。


泥の中を進む。


「ルイ……」


胸に残ったのは。


娘を取り戻すという決意。


そして――


セントラルへの憎しみ。


それから俺は、この世界を歩いた。


スラムを。


地下を。


政府から見捨てられた場所を。


そこで――


たくさんの人間を見た。


セントラルを憎む者。


大切なものを奪われた者。


この世界のすべてに絶望した者。


行く場所を失った者。


帰る場所を失った者。


明日を諦めた者。


そんな奴らを――俺は片っ端から集めた。


一人。


また一人。


最初は。


ただの寄せ集めだった。


だが。


いつしか。


そいつらは互いを助けるようになった。


飯を分け合い。


傷を治し。


笑い合い。


そして――


政府に抗うようになった。


俺は。


その集団に――


一つの名前をつけた。


終わった世界から。


もう一度。


新しいものを始めるために。


《Genesis》


それが――


俺たちの始まりだ。


*


「…………」


ジンが話し終える。


作戦室には。


誰の声もなかった。


カイは――


ただ、ジンを見つめていた。


今まで、カイが知っていた相葉ジンはGenesisを率いる男だった。


強く、冷静で、何が起きても前に立つ。


そんな男だった。


だが――


その男にも、守れなかった人がいた。


奪われた家族がいた。


そして、Genesisは――


たった一人の男が、奪われた娘を取り戻すために。


もう二度と、自分と同じような人間を生み出さないために。


歩き始めたことから――生まれた場所だった。


「これが……」


ジンが静かに言う。


「俺とナギサ」


そして。


「……ルイの話だ」


カイは何も言えなかった。


ただ――


一つだけ。


頭から離れない言葉があった。


――LEVEL1。


あのルイも、自分と同じ――LEVEL1だった。


そして。


研究者だったジンが見つけた。


LEVEL1と、それ以外の人間の――


遺伝情報の違い。


カイは自分の胸元を握った。


なぜか。


胸の奥が――


ざわついていた。

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