第49話 家族
*
薄れゆく意識の中。
カイは――声だけを聞いていた。
遠い。
水の底から聞こえてくるように、途切れ途切れに響いてくる。
「でも、アンナがっ!!」
ゴウの声。
「命令だっ!!」
ジンの怒声。
「ジン!!」
そして――
「――生きてる奴まで死なせるわけにはいかないんだ!!」
…………。
……アンナ。
霞む視界の先。
白い床に、一人の女性が横たわっている。
身体にはGenesisの団服が掛けられていた。
目を閉じたまま。
動かない。
ア……ンナ……。
ぼやけていく意識の中で――
別の光景が浮かんだ。
カフェのカウンター。
コーヒーを淹れるアンナ。
慣れた手つきでカップを並べながら、こちらを見て微笑んでいる。
次に浮かんだのは――
ラックたちとくだらない冗談を言い合っている姿。
「もう、馬鹿なこと言ってないで仕事しなさいよ!」
そう言いながら。
本人も堪えきれずに、満面の笑みを浮かべていた。
いつも明るくて。
面倒見が良くて。
俺がGenesisに入って――
最初に優しくしてくれた人。
なのに。
なんで……。
なんで――
アンナなんだ……っ!
「アンナぁぁぁぁっ!!!」
「――っ!?」
カイは叫びながら身体を起こした。
荒い呼吸。
全身に汗が滲んでいる。
「はぁっ……はぁっ……!」
ここは――。
見慣れた天井。
Genesisの医務室だった。
そして目の前には――
目を大きく見開いたレンがいた。
「……カイ?」
その手には、水を張ったボールとタオルが載ったトレイ。
レンの指から、トレイが滑り落ちる。
ガシャーン!!
金属音が医務室に響き渡った。
水が床へ広がる。
「カイっ!!」
「うわっ!?」
レンが勢いよく飛びついた。
「レ、レンっ!?」
突然のことに、カイは両手を宙に浮かせたまま固まる。
だが――
レンは離れない。
カイの胸に顔を押しつけ、ぎゅっと服を掴んでいる。
「…………」
その肩が、小さく震えていた。
カイは困ったように目を泳がせる。
やがて――
ゆっくりと右手を下ろした。
レンの頭に、そっと手を乗せる。
「……ただいま」
その一言に。
レンの肩がさらに震えた。
「……っ」
顔を上げる。
大粒の涙が、次から次へと頬を伝っていた。
「おかえり……なさい……」
「……ああ」
カイが小さく笑った。
その時。
――コンコン。
「……?」
扉を叩く音。
二人が同時に目を向ける。
開いた扉のところに、一人の男が立っていた。
ゴウだ。
腕を組み、扉の縁に身体を預けながら、ニヤリと笑っている。
「そろそろいいかしら?」
「…………」
レンの動きが止まる。
数秒。
自分がカイに抱きついていることに気づく。
カイを見る。
そして。
ゴウを見る。
もう一度、自分の腕を見る。
「…………」
一気に顔が赤くなった。
「わ、わぁっ……!」
バッ!!
レンが飛び退く。
「ご、ごめん!」
「いや……別に……」
カイも若干気まずそうに頬を掻く。
ゴウはそんな二人を見て、楽しそうに笑った。
「ふふっ。お邪魔だったかしら?」
「ち、違います!」
レンが即座に否定する。
「はいはい」
ゴウは軽く受け流すと、表情を少しだけ真剣なものへ変えた。
「カイ。起きたばかりで悪いんだけれど……ちょっといいかしら」
「……はい?」
*
Genesis――作戦室。
いつもとは違う空気が、その場所を満たしていた。
長机を囲むように、Genesisの幹部たちが集められている。
キリカ。
セイジ。
ゴウ。
クナト。
ヒナタ。
そして、各隊の副隊長たち。
その中にはアキラの姿もあった。
さらに――
「カイっ!!」
聞き慣れた声。
「……ラック」
カイの顔を見た瞬間、ラックが椅子から勢いよく立ち上がった。
「お前……!」
駆け寄ってくる。
その顔には、隠しきれない安堵が浮かんでいた。
「心配かけたな……ラック」
「ったく……」
ラックは鼻の下を擦る。
「信じてたよ。お前は必ず帰ってくるってな」
「……ああ」
二人が拳を突き出す。
コツン。
互いの拳がぶつかった。
ほんの一瞬だけ、カイの表情が緩む。
だが――
「カイ」
低い声。
カイが振り返る。
長机の奥。
そこにはジンが座っていた。
いつもの威圧感はない。
どこか疲れ切ったような顔をしている。
「よかった。目が覚めたんだな」
「……ジン」
「ちょうどこれから、大事な話をするところだったんだ」
ジンの視線が、カイからラックへ移る。
そして――
「……アンナのことだ」
「――!」
ラックの表情が変わった。
カイも無意識に拳を握る。
部屋から音が消えた。
ジンはしばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「これから話すことを……最後まで聞いてくれ」
誰も答えない。
ジンはゆっくりと言葉を続けた。
「アンナは――セントラルのスパイだった」
「…………は?」
ラックの口から、掠れた声が漏れる。
カイも目を見開いた。
「何……言って……」
「事実だ」
ジンは淡々と告げる。
「アンナは俺たちの情報を、セントラルへ流していた」
「待ってくれよ……!」
ラックが机に手をついた。
「アンナが!? そんなわけ――」
「ラック」
ジンの声が遮る。
「最後まで聞いてくれ」
「…………」
ラックが唇を噛む。
ジンは続けた。
アンナには弟がいたこと。
その弟がLEVEL1だったこと。
セントラルに捕らえられ――
その脳細胞が、第一収容所に保管されていたこと。
そして。
弟を盾に取られ、Genesisへの潜入と情報提供を強要されていたこと。
誰にも言えず。
逃げることもできず。
アンナはずっと、セントラルの命令に従い続けていた。
今回。
ファーストから第一収容所へ来るよう命じられたこと。
そこで――
アンナが自らの意思でGenesisを選んだこと。
そして。
その代償として――
命を奪われたこと。
ジンは何一つ隠さなかった。
アンナがしたことも。
アンナが苦しんでいたことも。
そして――
最後に選んだものも。
すべて。
「…………」
長い沈黙が流れた。
「嘘だろ……」
ラックが呟く。
その膝から、力が抜ける。
ドサッ。
ラックがその場に膝をついた。
声が震える。
「アンナが……死んだ……?」
誰も答えなかった。
それが答えだった。
「…………」
ラックが俯く。
床に、ぽたりと雫が落ちた。
カイも動けない。
脳裏に浮かぶ。
白い床に横たわるアンナ。
その身体に掛けられたGenesisの団服。
そして――
ファースト。
自分の拳。
生暖かい血。
「…………」
カイは自分の右手を見た。
今はもう、血などついていない。
それなのに――
まだ。
あの感触が残っている気がした。
ジンが静かに口を開いた。
「二人には……ちゃんと話しておくべきだと思った」
カイとラックを見る。
「お前たちは、アンナと仲が良かったからな」
そして。
ジンが僅かに俯いた。
「でもな……」
拳を握る。
「アンナのことを、憎まないでやってくれ」
「…………」
「俺たちを裏切ったのは事実だ。アンナの流した情報で危険に晒された仲間もいる」
ジンの声が僅かに震える。
「それでも……」
顔を上げた。
「頼む」
その瞬間。
「そんなのっ……」
カイが口を開いた。
「当たり前じゃないですか」
ジンが目を見開く。
カイはまっすぐジンを見る。
「アンナがスパイだったとか……そんなの関係ない」
「カイ……」
「俺が知ってるアンナは……」
一瞬、言葉に詰まる。
カフェで笑う彼女が、また浮かんだ。
「……優しい人でした」
静かな声だった。
けれど。
迷いはなかった。
その隣で――
ラックが腕で涙を拭った。
「……ああ」
立ち上がる。
目は真っ赤だった。
それでもラックは、力強く言った。
「アンナは……俺たちの家族だ」
「…………」
ジンは二人を見つめる。
そして――
深々と頭を下げた。
「……ありがとう」
誰も言葉を発さなかった。
静かな時間が流れる。
やがて。
ジンがゆっくりと頭を上げた。
「そして――」
その表情が変わる。
「今日、集まってもらった理由は……もう一つある」
全員の視線がジンへ集まる。
「大事な話だ」
「……?」
カイがジンを見る。
ジンは一度だけ目を閉じた。
何かを決意するように。
そして――
「俺の話だ」
ジンは集まった全員を見渡す。
「あの場にいた者は……全員が見ただろう」
カイの脳裏に、一人の少女が浮かんだ。
真っ白な少女。
自分たちを守るように両手を広げ――
最後には、光となって消えた少女。
「……ルイ」
カイが呟く。
ジンの眉が、僅かに動いた。
「あの子を……知ってるのか?」
「…………」
カイは答えられなかった。
知っている。
確かに知っている。
だが――
なぜ知っている?
どこで会った?
何も思い出せない。
それでも。
あの名前だけは――
ずっと前から知っていたような気がした。
「……分かりません」
カイは頭を押さえる。
「でも……あの子の名前が、ルイだってことだけは……」
ジンはカイをじっと見つめた。
「そうか……」
それ以上は追及しなかった。
今は――
話すべきことがある。
ジンは静かに息を吐く。
「あの子は――」
一瞬。
声が詰まる。
それでも、はっきりと言った。
「俺の娘だ」
「――――え?」
レンが目を見開く。
ラックも。
アキラも。
その場にいた全員が、驚いた表情でジンを見る。
「娘……?」
誰かが呟いた。
ジンは小さく頷く。
「聞いてくれ」
長机の上で、ジンの拳が静かに握られる。
「俺と――」
遠い記憶を辿るように。
「妻のナギサ」
そして。
消えていった少女の姿を思い浮かべながら――
「娘のルイの話を」
「…………」
誰も口を挟まない。
作戦室に、静寂が訪れる。
ジンはゆっくりと目を閉じた。
それは――
まだGenesisという組織が存在するよりも前。
一人の男が。
一人の女と出会い。
恋をして。
そして――
家族を手に入れた頃の話。
ジンは静かに語り始めた。
――すべての始まりを。




