第4話 訓練
ザー――――。
シャワーから流れ落ちる水の音だけが、白い浴室に響いていた。
西条レンは、鏡の前に立っていた。
濡れた黒髪が頬に張りついている。
シャワーはとっくに止めてもよかった。
それでもレンは、ただそこに立ち尽くしていた。
鏡に映る自分を見つめながら。
「…………」
三ヶ月前。
何度思い出そうとしても、あの日の記憶だけが曖昧だった。
炎に包まれたスラム。
逃げ惑う人々。
政府兵。
そして――。
カイ。
「……どうして」
レンは鏡に手をついた。
「どうして私……カイを……」
殺そうとしたの?
思い出そうとする。
自分は確かに剣を握っていた。
そして。
カイへ向けて――。
『カイ。死んで』
「っ……!」
ズキンッ!!
突然、頭の奥を鋭い痛みが貫いた。
「うっ……!」
レンが頭を押さえる。
痛い。
脳の内側を直接掻き回されているような痛み。
それでも、レンは記憶を辿ろうとした。
あの時。
私は何を考えていた?
カイを見つけて。
私は――。
『LEVEL 1』
「……っ」
声。
違う。
声ではない。
情報そのものが頭の中へ流れ込んでくる。
『排除対象』
「やめて……」
『LEVEL 1を排除せよ』
「違う……」
『殺せ』
「違う……!」
レンは頭を振った。
カイは敵じゃない。
ずっと一緒だった。
孤児院にいた頃から。
泣いていたカイ。
いじめられていたカイ。
何をやってもうまくいかなくて、それでも諦めなかったカイ。
いつも。
見ていた。
「私は……」
胸元を握りしめる。
「カイが好き……」
その言葉だけは。
迷わず言えた。
「好きなの……」
涙が溢れる。
「愛してる……」
なのに。
『LEVEL 1を殺せ』
「っ……!」
『排除せよ』
「やめて……!」
『殺せ』
「うるさい……」
『LEVEL 1を――』
「うるさいっ!!」
ガシャァン!!
拳を鏡へ叩きつけた。
鏡が砕ける。
破片が洗面台へ降り注いだ。
レンの拳から血が流れ落ちる。
ぽた。
ぽた。
赤い血が水と混ざり、浴室の床を流れていった。
「はぁ……はぁ……」
割れた鏡。
そこに映っている自分の顔も、いくつにも分裂している。
その瞳が。
一瞬だけ。
赤く光った。
「…………」
レンは震える自分の身体を抱きしめた。
「私は……」
声が震える。
「どうしたらいいんだ……」
答えてくれる者はいない。
レンはその場に崩れ落ちた。
シャワーの水だけが。
いつまでも彼女の身体を濡らしていた。
◇
カァン――。
カァン――。
地下街に、規則正しい金属音が響いていた。
Genesisの鍛冶工房。
カイはいつもの椅子に座り、ラックの作業を眺めていた。
「…………」
カァン。
火花が散る。
ラックは熱した鉄を何度も叩いている。
「…………」
カァン。
「…………」
カァン。
「……なあ」
ラックが言った。
「ん?」
「お前、今日で何時間そこにいる?」
カイは壁の時計を見る。
「……二時間くらい?」
「そんなに俺の仕事面白いか?」
「いや……」
「いや、なのかよ」
「ごめん」
「謝るなよ」
ラックは苦笑した。
三ヶ月一緒にいても、カイは相変わらずだった。
自分から積極的に話すわけでもない。
ただ工房へ来て。
椅子に座って。
作業を眺めている。
ラックも最近は、それがカイなりの過ごし方なのだと分かってきていた。
「……少しは手伝ってみるか?」
「え?」
カイが顔を上げた。
「やってみる?」
ラックがハンマーを持ち上げる。
カイは少し迷った。
「……いいのか?」
「壊したら親方に怒られるだけだ」
「それ俺も怒られるやつだろ」
「当然」
「…………」
「冗談だよ」
ラックからハンマーを渡される。
重い。
「まずこれを叩く」
赤く熱せられた鉄。
「真ん中じゃなくて、少し手前」
「……こう?」
「違う。もうちょい右」
「ここ?」
「そこ」
カイはハンマーを振り上げた。
そして。
カンッ!
「…………」
妙に軽い音が鳴った。
ラックが黙る。
「……違う?」
「違うな」
「やっぱり」
「力入れすぎ」
「力入れた方がいいんじゃないの?」
「ただぶっ叩きゃいいってもんじゃない」
ラックがカイの手を直す。
「鉄の形を見ろ。どこを伸ばしたいのか考えて叩く」
「……難しいな」
「だから仕事なんだよ」
「なるほど……」
もう一度。
カァン!
さっきより少しだけいい音。
「お」
ラックが言う。
カイも少し嬉しくなる。
もう一度。
カァン!
「…………」
楽しい。
ほんの少しだけ。
そんな感覚があった。
「お前、そこで何やってんだ」
奥から低い声がした。
カイの身体が固まる。
「……ラック」
「ん?」
「あの人……」
「親方」
「怒ってる?」
「いつもあの顔」
「そうなの?」
奥から大柄な男が現れた。
鍛冶工房の親方。
ヤク。
太い腕を組み、カイが叩いていた鉄を覗き込む。
「…………」
カイは緊張する。
ヤクが鉄を持ち上げる。
見る。
裏返す。
また見る。
「……ヘッタクソだな」
「…………すみません」
思わず謝った。
「謝るくらいなら次はマシに打て」
「……はい」
ヤクは鉄を作業台へ戻した。
そして。
「でも」
カイを見る。
「いい音を鳴らしやがる」
「……え?」
それだけ言って、ヤクは工房の奥へ戻っていった。
「…………」
カイは呆然とする。
ラックが笑う。
「褒められたな」
「今の褒めてたの?」
「あの親父にしちゃ最大級」
「……そうなんだ」
カイは手の中のハンマーを見る。
それから。
少しだけ照れたように笑った。
「……もう一回やっていい?」
「ああ」
再び。
カァン――。
地下街に。
少し不格好な金属音が響いた。
◇
同じ頃。
Genesis本部。
作戦会議室には、ジンを中心に数名の幹部が集まっていた。
壁面に巨大な立体地図が表示されている。
ジンは椅子へ深く腰掛け、煙草をくわえていた。
その横に立っているのは、一人の男。
短く整えた髪。
細身の身体。
眼鏡の奥にある冷静な瞳。
ジンのもう一人の側近。
セイジ。
「次の目標を説明する」
セイジが操作すると、立体地図が切り替わった。
巨大な塔状の施設が表示される。
「政府第三通信基地局」
キリカが眉をひそめる。
「通信基地?」
「ああ」
セイジが続ける。
「政府軍はこの基地局を経由して、スラム東部一帯の通信を管理している」
複数の通信経路が表示される。
「監視カメラ。警備ロボ。政府軍の部隊間通信。そして住民のブレインアーツ通信。その大部分がここを経由する」
「ここを潰せば?」
「東部地区の監視網に大きな穴ができる」
ジンが煙を吐いた。
「今後、俺たちが地上で動くための道を作る」
一人の幹部が尋ねる。
「警備は?」
セイジが別の資料を表示する。
沈黙。
キリカの表情が険しくなった。
「……多いね」
「食糧工場とは比較にならない」
政府兵。
自律警備ロボット。
防衛ドローン。
複数の防衛設備。
セイジが淡々と言う。
「正面から入れば、まず戦闘になる」
「正面から入らなくても?」
「なる可能性が高い」
キリカが腕を組む。
「つまり今回は――」
「ああ」
ジンが言った。
「戦闘は避けられねぇ」
部屋の空気が変わった。
食料工場のような物資強奪とは違う。
今度は。
最初から政府の重要施設を破壊する。
「一ヶ月後に決行する」
ジンが言った。
キリカは少し考えてから尋ねた。
「今回」
視線をジンへ向ける。
「カイは連れていくの?」
「ああ」
即答だった。
「連れていく」
「……本気?」
「本気だ」
「この前、潜入して五分で警報鳴らした新人を?」
「そこはまあ……」
ジンが煙草をくわえ直す。
「伸びしろってことで」
「便利な言葉だね」
「だろ?」
キリカはため息をついた。
ジンの表情が変わる。
「だからキリカ」
「何?」
「この後、お前から坊主に伝えてやれ」
「分かった」
「それと」
ジンが続ける。
「今回の作戦は戦闘を避けられねぇ」
「……」
「今のあいつじゃ、能力が使えなきゃ何もできねぇ」
キリカも否定しなかった。
「能力が出るのを待ってるだけじゃ、いつか死ぬ」
ジンは煙草の火を灰皿へ押しつける。
「作戦開始まで一ヶ月」
そして。
ニヤリと笑った。
「あいつを鍛えてやれ」
「……私が?」
「ああ」
キリカは少し考える。
そして。
「分かった」
その答えを聞いたセイジが、ほんの少しだけカイに同情した。
◇
「……ここ?」
「ここ」
カイはキリカに連れられ、地下街の外れへ来ていた。
巨大な鉄扉。
キリカが開く。
その向こうには広い空間があった。
床には無数の傷。
壁には射撃用の標的。
木剣。
模擬銃。
戦闘訓練用の設備が並んでいる。
「訓練所」
「……訓練所」
嫌な予感がする。
キリカが中へ入る。
「一ヶ月後、作戦がある」
「作戦?」
「政府の通信基地局を潰す」
「通信基地……」
「あんたも参加する」
「俺も?」
カイの顔に緊張が走った。
「でも俺、この前の作戦でも……」
「知ってる」
「音立てたし……」
「知ってる」
「戦ったこともほとんど……」
「だから」
キリカが振り返る。
「ジンから言われた」
壁に立てかけてあった木剣へ手を伸ばす。
「作戦までの一ヶ月で、あんたを鍛えろって」
カイは並んだ武器を見る。
「……訓練って」
嫌な予感がさらに強くなる。
「何をするんですか?」
キリカは答えなかった。
代わりに。
スッ――。
木剣を抜いた。
「……え?」
構える。
「ちょっと待っ――」
床を蹴った。
「そんなの――」
一瞬で。
目の前。
「実戦に決まってる!」
「えぇ!?」
ブンッ!!
「うわっ!」
カイが辛うじて避ける。
木剣が鼻先を通過した。
「危なっ!」
「敵は待ってくれない!」
二撃目。
「ちょっ――」
バシッ!!
「いったぁ!!」
脇腹。
「まだ!」
「待って!」
バシッ!
「痛っ!」
「構えて!」
「何を!?」
「そこに木剣あるでしょ!」
「先に説明してよ!」
「戦場で説明書読むつもり!?」
「戦場じゃないですよね!?」
「口動かす余裕あるじゃん!」
「そういう意味じゃ――」
ゴンッ!
「――っ!?」
視界が揺れた。
「……え」
天井が見える。
どうして。
俺。
寝てるんだ?
キリカが逆さまに見える。
「……弱っ」
最後に聞こえたのは。
そんな言葉だった。
◇
「…………」
目を開ける。
白い天井。
「……ここ……」
見覚えがある。
「おはよぉ♡」
視界に。
ゴウの顔が入ってきた。
「…………」
カイはもう一度目を閉じた。
「あら? なんで閉じるのよ」
「……夢かなって」
「失礼ねぇ」
頬をつままれる。
「痛い痛い痛い!」
「あら。起きた」
「最初から起きてます!」
身体を起こそうとする。
「いってて……」
全身が痛い。
頭。
肩。
腕。
脇腹。
脚。
ほぼ全部。
ゴウが呆れた顔をする。
「手痛くやられたわねぇ」
「……俺、どうなったんだっけ」
「覚えてないの?」
「訓練所に行って……」
思い出す。
木剣。
キリカ。
『そんなの、実戦に決まってる!』
「…………」
さらに思い出す。
殴打。
殴打。
殴打。
そして。
最後。
頭。
カイの顔が青ざめる。
「……思い出した」
「顔色悪いわよ?」
「……殺される」
「大丈夫よぉ」
ゴウが微笑む。
「死んだらアタシが治してあげる♡」
「死んだら治せないですよね!?」
「細かい男は嫌われるわよ」
「細かくない!」
その時。
ガチャ。
診療所の扉が開いた。
カイの身体が固まった。
赤髪。
キリカ。
「…………」
「…………」
目が合う。
キリカが言った。
「起きたか」
カイは布団を握る。
「……はい」
「十分に休んだだろ」
「え?」
時計を見る。
「まだ三十分しか――」
「次やるぞ」
「…………はい?」
キリカがカイの腕を掴む。
「ちょっ、待って!」
「行くよ」
「いやいやいや!」
引きずられる。
「俺いま患者ですよ!?」
「打撲」
「いっぱいあります!」
「骨折は?」
ゴウを見る。
「あら、一本もないわよ♡」
「ゴウさん!?」
「健康体ね♡」
「裏切った!!」
キリカが引っ張る。
「立て」
「痛い!」
「戦場じゃもっと痛い」
「そういう問題!?」
「ほら歩く!」
「ゴウさん助けて!」
ゴウは笑顔で手を振った。
「いってらっしゃ〜い♡」
「ゴウさぁぁぁん!!」
診療所から。
カイの悲鳴が遠ざかっていく。
ゴウは腰に手を当てた。
「青春ねぇ」
そして。
数分後。
訓練所から。
「痛ぁぁぁぁぁぁぁ!!」
地下街中に。
カイの悲鳴が響き渡った。
◇
その頃。
地上の一室。
割れた鏡の前に。
レンはまだ座っていた。
拳には包帯が巻かれている。
膝を抱え。
俯いている。
その脳裏に。
また。
命令が流れ込んだ。
『LEVEL 1――排除』
「…………」
レンは目を閉じる。
その奥に浮かんだのは。
カイの顔。
『排除せよ』
「……嫌だ」
『殺せ』
「嫌だ……」
『殺せ』
レンは震えながら。
それでも。
はっきりと言った。
「カイは……殺させない」
その瞬間。
レンの瞳が。
赤く染まった。
『――命令無視を検出。』
「……え?」
初めて。
命令とは違う何かが。
レンの頭の中で響いた。




