第36話 名切サザメ
Genesis地下。
普段、住民たちが立ち入ることのない区画。
その最奥。
薄汚れた牢獄の中に。
場違いなほど大量の機材が持ち込まれていた。
複数の端末。
床を這うケーブル。
空中に浮かぶホログラム。
その中央。
「…………」
アキラが。
一枚のホログラムを凝視していた。
仮想キーボードを。
凄まじい速度で叩いている。
ナンバーズの少女にワクチンを投与してから。
すでに十日が経っていた。
少女は――生きていた。
その間。
アキラは彼女のブレインアーツの解析を続けていた。
目的は一つ。
中央都市へ潜入するために必要な――認証キー。
それを手に入れるため。
アキラはこの十日間、ほとんど牢から離れることなく、解析作業を続けていた。
そして。
そのアキラのすぐ後ろ。
一脚の椅子。
そこに、金髪の少女が座っている。
両手。
両脚。
胴体。
幾重もの拘束具によって固定されている。
「…………」
閉じられていた瞼が。
ゆっくりと開く。
「…………」
視線だけを動かす。
薄暗い牢。
大量のホログラム。
その光に照らされながら。
一心不乱に作業を続けるアキラ。
「……あなた」
「…………」
「眠らないのね」
アキラの指が止まる。
一瞬だけ。
サザメを見る。
「まだ生きてたか、ナンバーズ」
「…………」
サザメの口元が。
僅かに上がった。
「こんな美少女に……酷いことを言うのね、あなた……」
「悪いな」
アキラが再びホログラムへ向き直る。
「あいにく、人間の見た目にはあまり興味がなくてね」
「そう……」
「…………」
「ねぇ」
「今度はなんだ」
「お手洗いに行きたいんだけど……」
「さっきも行ったじゃないか」
アキラは画面を見たまま答える。
「我慢しろ」
「…………」
サザメが。
僅かに頬を膨らませる。
「女の子にそれは……さすがにデリカシーに欠けるんじゃないかしら」
「…………」
アキラの指が止まった。
頭を掻く。
「はぁ……」
大きなため息。
「分かった」
サザメを見る。
「でも、拘束は解かないからな」
「ええ」
アキラが。
サザメの椅子へ近づく。
――ガチャ。
拘束具そのものではなく。
椅子と拘束具を繋いでいた連結部分だけを解除する。
両手。
両脚。
何重もの錠と拘束具はそのまま。
「立てるか?」
「ええ」
サザメが。
ゆっくりと立ち上がる。
――ジャラ。
鎖が鳴る。
アキラは牢の扉へ向かう。
鍵を解除。
――ガチャ。
「行くぞ」
「ありがとう」
「…………」
アキラは答えず。
薄暗い廊下へ出た。
その後ろを。
サザメが歩いていく。
一歩進むたび。
――ジャラ。
――ジャラ。
鎖の音が。
地下の廊下へ響いた。
やがて。
「着いたぞ」
アキラが足を止める。
錆びたプレートに《Restroom》の文字。
「…………」
「入れ」
扉を開ける。
サザメは何も言わず。
中へ入った。
――バタン。
「…………」
アキラは。
扉の前で腕を組む。
しばらくして。
――ガチャ。
サザメが出てきた。
「ありがとう」
「終わったなら戻るぞ」
アキラは。
すぐに歩き出そうとする。
だが。
――ジャラ。
鎖の音が止まった。
「…………?」
振り返る。
サザメが。
その場に立っていた。
「ねぇ」
「なんだ」
「ちょっとだけ……話さない?」
「は?」
サザメが。
廊下の壁際を指差した。
古びた。
小さなベンチ。
「ダメだ」
即答。
「ケチ」
「戻るぞ」
「別に逃げたりしないよ?」
「ダメだ」
「10分だけでいいの」
「ダメ」
「じゃあ5分」
「ダメだって」
「3分でも……?」
「…………」
アキラの眉が。
ピクリと動いた。
「……」
「…………」
「ねぇ」
「…………っ」
ガシガシと。
頭を掻く。
「3分だけだ!」
「やったぁ」
サザメが。
嬉しそうにベンチへ腰を下ろす。
「はぁ……」
そのまま。
だらりと足を前へ伸ばした。
――ジャラ。
「幸せ……」
「何がだよ」
「あの椅子、硬いし」
「…………」
「背もたれも直角で、ずっと座ってると腰が痛くなっちゃうの」
足を伸ばす。
「こうやって足を伸ばせるのって……幸せ」
「…………」
アキラは。
ベンチには座らなかった。
その横。
壁へ背中を預け。
腕を組む。
薄暗い廊下。
遠くから聞こえる。
機械の駆動音。
二人の間に。
沈黙が流れる。
「…………」
サザメが。
自分の足元を見つめていた。
「ねぇ」
「…………」
「聞いてくれない?」
「…………」
「私の――昔話」
アキラは。
何も答えない。
ただ。
壁に背を預けたまま。
サザメに目も向けない。
「ふっ……」
サザメが。
小さく笑った。
そして。
俯く。
「もう……」
「…………」
「何年前なのかも忘れた」
静かな声。
「物心ついた時」
「私は――スラムにいた」
*
狭い部屋。
壁には染み。
床には。
何日も片付けられていないゴミ。
薄汚れた服を着た。
小さな少女が。
一人。
部屋の隅に座っていた。
「…………」
腕の中には。
ボロボロになったぬいぐるみ。
少女は。
玄関を見つめている。
待っていた。
ずっと。
両親は。
LEVEL1だった。
貧しかった。
母親は物心ついたときには、もういなかった。
少女は毎日。
薄汚れた部屋で。
父親が帰ってくるのを待っていた。
――ガチャ。
「……!」
玄関のノブが回る。
――ギィィ……。
建て付けの悪い扉が。
不快な音を立てながら開いた。
「…………」
男。
父親。
その手には酒の入った瓶。
「おかえりなさい」
少女が立ち上がる。
ぬいぐるみを抱えながら。
父親へ近づく。
「サザメ」
「なに――」
――バチンッ!!
小さな身体が。
床へ倒れた。
「…………っ」
何が起きたのか。
分からなかった。
頬が。
熱い。
「何度言ったら分かる!」
父親が怒鳴る。
「そんな汚い人形、早く捨ててこいって言っただろうが! あぁ!?」
「…………」
サザメの腕から。
ぬいぐるみが落ちている。
「……だめ」
父親が。
それを拾い上げた。
「だめ……」
両手で掴む。
「やめて……」
――ビリッ。
「…………」
真っ二つ。
「…………あ」
床へ。
布。
綿。
破れたぬいぐるみが落ちる。
「ほんとうに……」
父親が。
吐き捨てる。
「このガキは……イライラさせる……」
「…………」
「ごめんなさい……」
サザメが。
殴られた頬へ手を当てる。
震えながら。
立ち上がる。
「ごめんなさい……」
父親は。
もう見ていなかった。
――ドサッ。
テーブルの前へ座り。
酒瓶を口へ運ぶ。
――ゴクッ。
――ゴクッ。
「…………」
その目には。
もう。
娘の姿など。
映っていなかった。
*
大きな袋。
その袋を。
小さな少女が引きずっている。
「はぁ……」
中央都市から。
自動的に排出される大量のゴミ。
それを。
指定された処理場へ運ぶ。
それがサザメの仕事だった。
「よい……しょ……」
袋は。
少女の身体ほどもある。
それでも。
運ぶ。
今日、食べつなぐために。
やがて。
処理場へ到着した。
「お」
作業員の男が。
サザメに気づく。
「今日も来ていたのか」
「……うん」
ゴミ袋を渡す。
男は。
少しだけ困ったように笑った。
「嬢ちゃん、小さいのに偉いねぇ」
ポケットへ手を入れる。
「ほら」
小さな硬貨。
二枚。
「今日の分のお駄賃だ」
サザメの手のひらへ。
二枚のガルドが置かれる。
「…………」
「ありがとう」
硬貨を。
大切そうに握り締める。
これで。
今日のご飯が買える。
「…………」
家へ帰る。
――ギィ。
「ただいま……」
父親が。
床に寝転がっていた。
「おい、サザメ」
「…………」
「いいところに来た」
身体を起こす。
「酒が切れた」
「…………」
「買ってこい」
「……お金は?」
サザメが尋ねる。
父親の眉が。
僅かに動く。
「あるだろ」
「…………」
「お前が今日稼いだ分が」
「…………」
小さな手。
その中。
二枚のガルド。
「それで買ってこい」
「…………」
「早くしろ」
「……はい」
今日の。
食事代だった。
自分の食べるものは。
自分で稼がなければならない。
父親は。
自分を養ってはくれない。
「…………っ」
家を出る。
涙を。
袖で拭う。
そして。
酒を買うため。
マーケットへ向かう。
空腹のまま。
小さな少女は。
歩いていった。
*
「そんな生活が――」
サザメの声。
「続いた」
*
スラムの外。
政府によって設置された施設。
白い検査室。
そこに。
少女が一人。
座っている。
「名切サザメ」
職員が。
ホログラムを見る。
「検査結果――」
一瞬。
目を見開いた。
そして。
「LEVEL5」
「…………」
サザメは。
何も反応しない。
周囲の大人たちが。
ざわつく。
「LEVEL5!?」
「スラムから……?」
「すごいじゃないか!」
そして。
――パチパチパチパチ。
拍手。
大人たちが。
笑っている。
祝っている。
「…………」
サザメは。
ただ。
その光景を見ていた。
光を失った瞳で。
笑顔の作り方など。
もう。
忘れていた。
*
――ギィ。
「ただいま……」
家へ帰る。
「…………」
父親がいた。
珍しく。
酒を飲んでいない。
「お前……」
「…………」
「LEVEL5だったんだってな」
「……うん」
「…………」
父親が。
笑った。
いや。
笑おうとした。
「いいな」
「…………?」
「お前は……」
ゆっくり。
立ち上がる。
「俺はもう……ここから抜け出せない」
「…………」
「でも、お前は――」
父親が。
近づいてくる。
「…………?」
次の瞬間。
首。
「――っ!?」
両手が。
小さな首を掴んだ。
「殺してやる……」
「…………っ!」
「お前も……!」
父親の顔が。
歪んでいる。
涙。
怒り。
憎しみ。
「俺を見捨てるんだろ……!」
「くる……し……」
サザメの足が。
床から離れる。
「お前も――」
父親の指に。
力が入る。
「あいつと同じだっ……!」
「……っ!」
視界が。
暗くなる。
「ぁ……」
その時。
――パンッ!!
「…………」
赤。
サザメの顔へ。
何かが飛んだ。
父親の力が。
抜ける。
「…………?」
――ドサッ。
身体が。
床へ崩れ落ちた。
「…………」
サザメも。
床へ落ちる。
「げほっ……」
「…………」
顔を上げる。
玄関。
そこに。
一人の男が立っていた。
手には。
拳銃。
「…………」
誰……?
そう思った。
その直後。
サザメの意識は。
途絶えた。
*
「…………」
目を開ける。
白。
どこまでも。
真っ白。
「…………?」
身体を起こす。
誰もいない。
「ここ……どこ……?」
その時。
――ブンッ。
「……!」
目の前に巨大な白い顔が浮かび上がった。
「…………」
少女は。
怯えながら。
それを見る。
『こんにちは――サザメ』
「…………」
優しい声だった。
怒鳴らない。
殴らない。
何かを奪おうともしない。
「……あなたは」
小さなサザメが尋ねる。
「だあれ?」
白い顔が。
答える。
『私は――セントラル』
「セントラル……?」
『この世界を統べる者』
「…………」
サザメが。
白い顔を見上げる。
「あなたが……」
声が震える。
「私を守ってくれたの……?」
『そうです』
「…………」
『あなたは――この世界に必要です』
「…………?」
サザメの瞳が。
僅かに開く。
「わたしが……」
「…………」
「必要……?」
『はい』
白い顔は。
静かに答えた。
『私には――あなたが必要です』
「…………」
その言葉をサザメは初めて聞いた。
必要。
自分が誰かにーー必要だと言われた。
「…………っ」
目から一筋の涙が流れる。
「ありがとう……」
震える声。
「セントラル……」
『…………』
「…………」
少女は。
涙を流しながら。
初めて。
笑った。
「ううん……」
白い顔を。
見上げる。
「――ママ」




