第三話 異音
目を覚ました時、時計の針は十一時半を指していた。
カーテンの隙間から差し込む光が妙に眩しい。
頭を掻きながら起き上がる。
昨日は朝方まで走り回っていた。
まだ少し眠い。
「……水」
冷蔵庫を開けるが、相変わらず何も入っていない。
仕方なく蛇口の水を飲んだ。
顔を洗い、適当に服を着る。
そして部屋を出た。
階段を降りる。
一階のロビーへ辿り着く。
デイブがいなかった。
「珍しいな」
いつもなら煙草を吸いながらソファーを占領している時間だ。
ロビーを見回す。
いない。
外を覗く。
車もない。
「先に出たのか?」
少しだけ違和感を覚えた。
だが、すぐに首を振る。
考え過ぎだ。十年以上の付き合いだが、四六時中一緒にいるわけじゃない。
たまたまだろう。
一応、二階へ向かった。
デイブの部屋の前、ドアを二度叩く。
「おい」
返事はない。
「寝てんのか」
もう一度叩く。
反応なし。
俺は肩を竦めた。
「まぁいい」
俺が寝過ぎただけだろう、どうせどこかで酒でも飲んでいる。
そう結論付けた。
マンションを出る。
昼の街は相変わらず汚かった。
落書きだらけの壁。
割れた窓。
路地裏のゴミ袋。
だが俺にとっては見慣れた景色だった。
数分後、通りの角で仲間の一人を見つけた。
ジャック。俺のグループの古株だ。
「キング」
「よう」
「デイブは?」
「知らん」
「喧嘩か?」
「そんな仲良く見えるか?」
ジャックが笑った。
「見えねぇな」
「だろ」
二人で歩き出す。
いつもの仕事だ。
酒屋、質屋、小さな雑貨店。
封筒を受け取る。
金額を確認する。
払う奴は放っておく。
払わない奴には話をする。
もっとも、俺達の話し合いは大抵数分で終わる。
理由は簡単だ、相手が折れるからだ。
「キング、勘弁してくれ」
小さな酒屋の店主が青い顔をしていた。
「今月は売上が」
「俺に言うな」
封筒を受け取る。
「神様にでも相談しろ」
店主は何も言い返せなかった。
俺達が店を出る。
ジャックが笑った。
「相変わらず容赦ねぇな」
「優しくしたら舐められる」
「違いねぇ」
昼が過ぎ、夕方になる。だがその間も、デイブから連絡は来なかった。
電話も鳴らない。
メッセージもない。
少しだけ気になった。
ほんの少しだけ。
それでも俺は深く考えなかった。
この街では、人が突然いなくなることなんて珍しくない。ましてやデイブは子供じゃない、勝手にどこかへ行くことだってある。だから俺は気にしなかった。気にするべきだったのかもしれないが。
その時の俺は、まだ知らなかった。
前の日に姿を消した五階のロジャーという男。
そして今日姿を見せないデイブ。
その二人が、同じ場所へ向かっていたことを。
デイブが消えてから、一週間が経った。
結局、あいつは戻って来なかった。
電話は繋がらない、部屋にもいない、車も見つからない。
俺は気にしないようにしていた。
デイブは大人だ。
借金から逃げたのかもしれないし、女とどこかへ行ったのかもしれない。
そう自分に言い聞かせていた。
だが、本当は違う。胸の奥に小さな棘が刺さったままだった。
嫌な予感。
それだけが消えない。
その日。
俺は珍しく夕方には仕事を切り上げた。
理由はラモンだった。
倉庫街のバー。敵対ギャングのボスであるラモンは、酒も飲まずに煙草を吸っていた。
顔色が悪い。
らしくない。
「どうした」
俺が聞くと、ラモンは少し黙った。
「キング」
「あ?」
「Dr.Deathを知っているか」
聞いたこともない名前だった。
「誰だそいつ」
「噂だ」
「つまらねぇな」
俺は鼻で笑った。だがラモンは笑わなかった。
「復讐に取り憑かれた狂人らしい」
「映画の見過ぎだ」
「ギャングばかり狙う」
「なおさら馬鹿らしい」
ラモンは煙を吐いた。
「ウチの連中も数人消えた」
その言葉で、少しだけ空気が変わった。
「いつからだ」
「ここ数日」
「逃げただけだろ」
「そうならいい」
ラモンはそう言った。だが声には確信がなかった。
「キング」
「なんだ」
「提携しないか」
思わず笑った。
「お前と俺が?」
「一時的にだ」
「冗談だろ」
「俺は本気だ」
ラモンの顔は真剣だった。
「最近、俺らを襲撃してくるマヌケ共もいる」
「いるな。ぶっとばしたが」
「あぁ、他のギャングの仕業なら潰せばいい。俺やお前が負けるわけねぇ」
「当たり前だ」
「だが違った場合が問題だ」
俺は煙草に火を付けた。
「そんな狂人が相手でも、雑魚どもと同じことだ。返り討ちにすりゃいい」
そう答えた。本当は信じていなかった。
Dr.Death。
復讐鬼。
ギャング狩り。
安っぽい都市伝説みたいだった。
だが、デイブの顔が頭をよぎる。
それだけが妙に引っ掛かった。
だからその日は早く帰った。
午後十時。
いつもならクラブかバーにいる時間だ。
だが今日は部屋にいた。酒を飲む気にもならない。ベッドに腰掛けたまま時間が過ぎる。
十一時。
十一時半。
そして、午前零時。
その音は聞こえた。
ギィィィ……。
何かを引きずるような音。
俺は顔を上げた。
「……なんだ?」
音は壁の向こうから聞こえていた。
407号室。
ジニアスの部屋だ。
しばらく静かになる。
気のせいかと思った。
だが、次の瞬間。
ザクッ。
俺は眉をひそめた。
まただ。
ザクッ。
ザクッ。
ザクッ。
何かを切るような音。肉を、あるいは骨を。そんな想像が頭をよぎる。
「……」
気味が悪い。今まで気付かなかった。
俺が帰る時間には終わっていたのか。
それとも今日だけなのか。
分からない。
だが音は続いている。
規則的に、淡々と。
まるで作業のように。
ザクッ。
ザクッ。
ザクッ。
俺は壁を見つめた。その向こうには、一週間前から毎晩灯りをつけ続けている男がいる。
黒縁眼鏡、安物のコート。
奈落のような瞳。
そして、デイブが消えた翌日も、大量の黒い袋を抱えていた男。
部屋の中は静かなはずなのに、なぜか急に寒気がした。壁一枚向こうにいるだけなのに。
初めてだった。人間相手に、ここまで嫌な予感を覚えたのは。




