ままならない時間
頑張るとは思ったものの、一週間身体を動かさなかったということが、これほどまで筋力を落としてしまうものだとは思わなかった。
今までサッカーをしていた時も、サボるとそれだけ身体が動かなくなる。だからシーズンオフでもトレーニングをサボらず続けて維持してきたので、もっと容易く身体の動きを取り戻せると思っていたのに、想定以上に身体がついていかなかった。
今までのトレーニングは、普通に身体が動くことを前提に、その上で筋肉を鍛え、動きを磨くものだった。
今俺がやっているのはマイナスからのスタート。
最初は、水を飲み込めるかというところから始まる。
そして、咽せずに水分を取れると認められたら、水やゼリーといった、食べ物というより飲み物に近い食事をいただけるようになる。
初日はベッドのリクライニングで身体を少し起こすだけでも息が上がった。
そして最初の数日は、ベッドから身体を起こす、ベッドに座るという動作も大変だった。
理学療法士さんから何度も「焦らないで、ゆっくりでいいから」と言われるけど、ここまで動けないと不安も募り、焦ってしまう。
一週間たち、何とか杖や歩行器を使って歩けるようにはなった。
とはいえ、すぐ疲れるので車椅子のお世話になっている。その車椅子も自分では動かせないので、誰かに押してもらわないと移動できない。
サッカーでピッチを九十分走り回っていた自分が、病棟の廊下を数十メートル歩くだけで息を切らす。その現実だけは、なかなか受け入れがたかった。
あの試合で負ってしまった怪我でさえ、今の状況と比べれば軽く思えてしまった。
スケジュールが決められ、リハビリの時間が決められることも不満だった。
一日中とまでは言わないが、もっと長い時間リハビリをやりたい。それなのに「無理は良くない」と消化不良の状態で切り上げられることにも苛立っていた。
理学療法士さんも俺だけを見ているわけではないというのも分かるけど、あらゆることがままならない。
今日もリハビリセンターを後にし、兄に車椅子を押してもらいながら病室へと戻る。
大学生活最後の夏休みだというのに、兄は俺のリハビリに付き合ってくれている。それも申し訳ない。
「兄貴、ゴメンな。夏休みなのに面倒かけて。友達と遊ぶ約束とかあったんじゃないの?」
俺はつい兄に謝ってしまう。
「いやいや、友達は皆、今就活が大変で遊ぶ暇なんてないよ!
もう内定もらった俺だけが暇で参ってたんだ」
明るく笑い、兄はそんな言葉を返す。
ふと前を見ると、俺の病室の前で男の子が看護師に怒られている。
その様子を見て、俺はため息をついてしまう。俺を憂鬱にさせているもう一つの要素。
自転車で俺を轢いた加害者、坂下駆流。
今高校二年生で、どちらかと言うとチャラい雰囲気の男の子。
病室の床に土下座して謝られた時は、俺もどうして良いのか分からなかった。
坂下に対して恨みはあるから、許す気持ちもないし、俺の家族全員も彼への怒りは抱えている。
陰鬱な表情の彼が来ると病室の雰囲気も悪くなるし、できたら顔を合わせたくないのに、彼はしょっちゅうやってくる。
俺の姿に気が付き、坂下は駆け寄ってくる。
「奥野さん!
お疲れ様です!
調子の方はいかがでしょうか?」
俺は顔を顰めてしまう。後ろで兄も大きくため息をついている。
「これが調子よく見える?」
冷たい言葉を返してしまうのは仕方ないと思う。相手は傷ついた表情を浮かべる。
「あの、お菓子持ってきたんです!
良かったらお時間ある時に食べてください」
そう言って、レジ袋に入ったコンビニで売っているようなお菓子を差し出してくる。
「奥野さんは、まだ食事制限があるので、こういう差し入れはやめてください」
看護師さんが後ろから注意してくる。
「あっ、ゴメンなさい。
今度はもう少し役に立つものを持ってきますから!」
「俺、今自分のことでいっぱいいっぱいなんだ。
だから君の相手をしている暇はないから。もう来ないでくれる?」
坂下は俺の言葉に黙り込み、お辞儀だけして廊下を歩いていく。
「ちょっと待って」
俺は坂下を呼び止める。
「お前さ、何で来ないでと言われているのに何度も来るの?」
「俺には、何もできないから、謝ることしか……」
俺は大きくため息をつく。
「俺に『いいよ、もう気にしないで大丈夫だから』って言葉が欲しいだけ?」
坂下は少し戸惑い、考えて頭を横に振る。
「いえ、ただ俺が申し訳ないと思っていることを伝えたくて……」
「君は、謝らないといけない人、俺の他にもいるだろ?」
俺の言葉に、びっくりしたように顔を上げる。
「お前がこっちに何度も来て迷惑をかけていることで、君の両親はさらに俺に謝り続けている」
坂下は俯く。
「それに俺への賠償金、治療費、全部君の親が払っている。
詳しい金額は知らないけど、安くはないと思うよ。
それだけ親にも苦労をかけて、そこにも申し訳ないと思わないの?」
坂下は俯いたまま拳を握る。その腕が震えている。そして顔を上げ、俺をまっすぐ見つめてくる。
口を開く。何か言おうとしたようだが、結局何も言葉は出てこなかった。
俺をまっすぐ見つめ、黙ったまま深くお辞儀をした。
「失礼しました」
その言葉だけを言って、去っていく坂下。俺はまたため息をついてしまう。
恨みがあるのは本音。それに加え、八つ当たりも半分ある。そのことに自己嫌悪を覚えてしまう。
「大人気なかったかな……」
そう声に出してしまう。
「お前は被害者なんだから、アイツの人生まで背負う必要はない」
兄は俺をベッドへ戻すのを手伝いながら、そう言ってくれた。
「言うべきことは言う。それで十分だろ。
おっ、新着がまた来てるな」
そう言って俺にデジタルフォトフレームを渡す。
それはメールで画像や動画を送れるもので、中には俺への呼びかけやエールの動画や写真が順番に流れている。
俺はそれらの画像を見て、少しささくれだった気持ちが癒やされる。
そして、ふとそこにあった一枚の画像に息を飲む。
クレヨンで描かれた、海岸で笑う四人の姿。
兄はその絵を見て首を傾げる。
「マナちゃんの絵かな。明るく元気でいい絵だな」
兄は従兄弟の子供の絵だと思ったようで、目を細めて感想を言っている。
子供が描いたような拙い絵だけど、その人物が俺と百代と松尾と春立さんだと分かる。あの時くれた春立さんの絵だ。
俺は身体を起こしてベッドから出ようとする。しかし身体が思ったほど動かず、兄に支えられる。
「おい、どうした。大丈夫か?」
「本ない? 俺の荷物に」
兄が代わりにベッド横にある棚を探してくれる。
「ん? 『星の王子さま』? これか?」
俺は震える手でそれを受け取る。
「友達から貰ったんだ。良かった……ある……」
繰り返し読んだことでボロボロになっている『星の王子さま』の本が今、手元にある。その事実に心が震える。
「兄貴、一つお願いがあるんだ」
俺は本を握りしめながら、兄の方へ視線を向けた。




