理事長と言うより……
「失礼します〜」
初めて入る理事長室に、ノックしてからおずおずと入る。
「松尾くん、こっちにいるから、おいで!」
秘書の人が対応する前に、奥の扉から落ち着いた大人の声が響く。
秋風理事長は50代くらいだとは思う。
しかし中年太りとは無縁のスラリとした引き締まった身体をしており、役者のようにカッコいいと思う。
ラフに緩めたネクタイと、体に馴染んだジレ。
大人なら余裕すら感じるそのスタイルは、彼の円熟味を引き立てている。
カップを手にコチラを見て微笑んでくる。
松尾はその近くで文庫本を楽しそうに読んでいて、俺に気付き手を振る。
まるで喫茶店で待ち合わせた友達が来たみたいに。
しかし、その席は理事長のデスクの椅子ではないのか?
「そこにでも、座ってくれ」
そんな松尾を気にした様子もなく、理事長は応接セットのソファーを示す。
この部屋には理事長のデスクの椅子、秘書のデスクに着いている椅子、応接セットのソファーしか座るところがないからそこに座るのが自然だろう。
少なくとも松尾が座っている席よりも……。
座り心地がやたら良いソファーに座ると、ソーサに乗ったコーヒーが置かれる。理事長が自らサーブしてくれている。
この状況だと、理事長が、いい感じの喫茶店のマスターに見えてしまう。
その“マスター“な理事長は自分のカップを手に、俺の向かいに腰をおろす。
そうなるといきなり面接配置にシフトして、思わず背筋を伸ばしてしまう。
松尾はというと、コチラを気にした様子もなく、理事長の椅子で読書をそのまま楽しんでいる。
「手土産として、神戸の美味しい喫茶店の豆を持ってきてもらったんだ」
そう言いながら、コーヒーを勧められたので、俺は一口飲むことにする。
カップに顔を近づけた段階から香織高いアロマで察したが、今まで俺が飲んだどんなコーヒーよりも美味しかった。
「美味しい……」
「だろ?」
ため息をつくように感想を言うと、秋風理事長は嬉しそうに微笑んだ。
「俺はなかなか出かけられないから。
出張で来た奴や、行ってきた奴に、美味い豆を貢がせているんだ」
何故か自慢げに理事長はニヤリと笑う。
面談な流れにならなかったことに安堵して、コーヒーを素直に楽しむことにした。
「ここに来て……。どうだい? この街に慣れたが?」
学校についてではなく、街に対して聞いてくることは意外にだった。
「はい!
ただ道が複雑で……未だに慣れなくて戸惑っています」
そう答える俺をまっすぐ見つめてくる理事長。
「そうか、君には、この街はそんな感じなのか」
「だってそうですよね。迷路みたいで」
俺の言葉にクスリと笑う。
「いや、この街自体はいたってシンプルな構造なんだよ。
君自身が、街を複雑にしているんだ」
そう言ってから、少し楽しそうに話を続ける。
「迷路なら、迷路で素敵じゃないか!
いっそ、そこを攻略して、楽しんでしまえばいい」
そんなおおらかな言葉に、俺は笑ってしまった。
「君には、この街での生活を思う存分楽しんで貰いたいんだ!
そういう場所なんだから。
君は今、ある意味いちばん自由な立場にいるから」
学業に励め! と言うのではなく、このように言ってくるのは意外だった。
親元離れて下宿生活。確かに自由を手に入れたとも言える。
しかし相手は教職者。そして俺は学生。
その言葉の表面的な意味だけをとって、答えるのはダメな気がする。
俺はコーヒーの香りを楽しんでから、一口飲んで理事長を見返す。ここは学生として良い返答をするべきだろう。
「はい! そして学びも同じくらい頑張りたいと思います」
理事長は苦笑する。その表情もまたダンディだと思う。
「学びと遊ぶを別のもの。そう考えるのは間違えているよ。
学びはあらゆる部分にある。
また遊びも同様。遊びの中に学びはあるし、逆を然り。
でも自由はそうではない。
そして学ぶも遊ぶも、自由があるからこそ満喫もできるというものだ。
この時間が君にとって、実りのあるものであることを願っているよ」
その言葉は説教としてではなく、年長者の助言として心にスっと入ってきた。
まだ心に溶け込む程は、馴染んではいないけど。俺の心になにか一つのキッカケを作った気がした。




