ステーション
髪の毛の手入れ指導もあって、今日は百代も朝から叩き起こされ、一緒にラウンジのオープンキッチンで朝食をとっていた。
「このシャンプーとリンス使うだけでカラー持ちが全然違うから!
コレだけは守ってね!」
「わかった」
強めに言い聞かせる三里さんに、百代は意外にも素直に頷いている。
俺にはワックスの使い方を、雑誌のページを見せながら解説している。
そんな時、玄関のベルが鳴った。
エントランスの掃除をしていた松尾が対応し、訪問者と一緒にラウンジに入ってくる。
桜色のスーツを着た女性が、まっすぐ俺たちの方に近づいてきて、頭を下げる。
「二木荘の管理人をしております河合と申します。
本日、船上笠緒さんが旅立たれる運びになりましたので、お孫さんである松尾様にご連絡させて頂きました」
……ナニヲイワレタノカ……
俺は間抜けな表情で立ち尽くすしかなかった。
相手が、祖母に会いに行った時に対応してくれた女性だと、今気がつく。
「電車の出発時間は十三時なので、お見送りに来てあげてください」
身体の力が抜ける。
両サイドにいた百代と三里さんが咄嗟に支えてくれたから、倒れずには済んだ。
「奥野くん、なに惚けているの!
皆で笠緒さんを盛大に見送りに行かないと!
さっさと着替えるわよ!
松尾さん! 奥野くんの着替え手伝ってあげて!
私もお洒落してこないと! 百代くんも行くでしょ?」
三里さんが明るい声で矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「駅のロビーでお待ちしています」
河合さんは微笑み、お辞儀して帰っていった。
俺は今日は階段を使えず、四人でエレベーターに乗った。
部屋に松尾と入ったが、俺はまだ呆然としたまま。
何をしていいのかも分からない。
松尾は俺を椅子に座らせ、クローゼットを開ける。
白いシャツにチノパン、ネイビーのジャケットを取り出し、ベッドに並べた。
「ほら、コレでも着替えて」
「え、喪服じゃなくていいの?」
俺の言葉に、松尾は笑う。
「この街に喪服なんてないよ。
天国に旅立つことを祝う会になるから」
俺は納得しきれないまま、言われるがままに着替えた。
松尾が自分の着替えのため三階の自分の部屋に戻り、俺は先にラウンジに降りる。
刺繍の入った襟付きの紺のシャツにチノパンという格好の百代が、すでに待っていた。
彼も喪服のような服を着ていない。
お洒落になった髪にその格好は似合っている。
松尾はグレーのスーツを着て階段を降りてきた。
下に降りてから、ネクタイを鏡のようになっている柱に向かって、赤系のネクタイを慣れた様子で締める。
「お待たせ!」
声が聞こえて振り向くと、三里さんがこちらに歩いてきていた。
グリーンの透明感のある柔らかそうな布のワンピースを纏い、微笑んでいる。
メイクもバッチリしていることで、いつも以上に華やかに見えた。
本当に誰も喪服のような服を着ていない。
四人で向かうのは仮存駅。
そういえば駅はここに来て一度も使ったことがなかった。
町内で事足りるので、意識すらしていなかった施設だった。
駅の入り口を入ると広めのロビーがあった。
あちらこちらに大きめのテーブルと椅子が配置され、それぞれのテーブルに人が集まり、楽しそうに会話を楽しんでいる。
ロビーのテーブルの一つに、祖母は座っていて、陽気に周りの人と会話をしていた。
昨日美容院で綺麗にしてもらった髪に、花柄のワンピース。よそゆきスタイルだ。
目を閉じて横たわり、何も話さない祖母と向き合う覚悟を固めていただけに、その様子に驚いた。
「お婆ちゃん!?」
「マーちゃん来てくれたのね。嬉しいわ!」
祖母は明るい笑顔で、こちらに手を元気に振ってくる。
俺はおずおずと近づく。
どう声をかけるか悩んでいると、緑の影が俺の横を通り過ぎた。
「笠緒さん、お疲れ様でした〜!
わ〜♪ 今日の衣装素敵ですね!」
三里さんが明るく祖母に声をかける。
「ありがとう〜♪
秋江ちゃんのワンピースも素敵♪」
「フフフ、笠緒さんの旅立ちの日なので、思いっきりおめかししてきました」
キャピキャピと会話を始める二人。
それは今日、どう祖母と向き合えばいいのか、手本を見せてくれているようだった。
「お婆ちゃん、お疲れ様」
必死に笑顔を作り、そう言うのが精一杯だった。
「ありがとう。マーちゃん。
やっと、慎太郎さんに会えるわ♪」
祖父の名を嬉しそうに口にする祖母。
そう考えると、死は悲しいことだけではないかもしれない。
「早速デートするから、お洒落したの?」
「フフ、分かる?」
祖母は微笑み、近づいた俺の頬を撫でる。
「マーちゃんが、慎太郎さんにそっくりのイケメンに育ったって、あの人にも伝えないとね」
「お爺ちゃんによろしく言っておいて。
俺は……」
元気にやっている、と言いかけて言葉に詰まる。
「お婆ちゃん! 奥野は大丈夫だから、俺が責任とって――」
百代が声に出さずに『戻すから』と伝えた。
祖母を安心させるように。
確かにお葬式とは違う。
誰もが笑顔で、明るい空気のまま時間は過ぎていく。
十二時を超えた辺りから、少しだけしんみりした空気になってきた。
二木荘の仲間と「またすぐ会えるし」といった会話も見られるようになる。
旅立ちの時間まで残り十分。
周りの人は遠慮してくれたのか、皆は少し離れる。
俺は祖母と二人で向き合う。
「お婆ちゃん、ありがとう。
いつも俺を応援して、見守ってくれて。
大好きだよ! 元気でね」
天国へ旅立つ祖母への言葉がこれで正しいのかは分からない。
今の俺には感謝の気持ちしかなかった。
ここでは旅立ちは泣くべき場面ではないと教えられたのに、涙が溢れてしまう。
「私を愛してくれてありがとう。
最後の方は、話すことすらできなくなっていたから、こういう形でもお話しできたのは嬉しいわ。
私も、まっすぐで何にでも一生懸命な貴方が大好きよ!
貴方だったら、どんなことも乗り越えていける。
私はそう信じているから!」
祖母も涙声で俺を抱きしめて、背中を優しく叩いてくれる。
俺も祖母を抱きしめ返し、ただ泣くことしかできなかった。
「そろそろ出発の時間です。乗車してください」
誰かから、そんな言葉がかけられる。
俺たちは離れ、改めて見つめ合う。
互いの姿を心に刻みつけるように。
そして強く握手を交わす。
祖母はボストンバッグを手に取る。
祖母は俺に柔らかく微笑んでから、覚悟を決めたように歩き出す。
改札に祖母が近づくと、自動でゲートが開き、つい追いかけようと一歩踏み出してしまった俺を拒むように閉じる。
俺と祖母の間に、はっきりとした境界が生まれる。
ホームと停車している電車を見つめることしかできない。
祖母はもう一度だけこちらに手を振り、電車へと乗り込んだ。
ドアが閉まり、電車がゆっくりと動き出す。
遠ざかっていく祖母の姿は、やがて見えなくなった。
それでも、俺は閉ざされた改札の前に立ったまま、しばらく動くことができなかった。




