第2話 魔女の子ベラドンナ
赤子に母乳を与え終えた時、トネリコは姿を隠さなかった。
悪手のように思ったのだ。
そして現れたの、赤紫の髪と紫の目をした女の子だった──
瓦礫を踏む音は、思ったより小さかった。
大人の足音ではない。
私はシオンを胸に抱いたまま、その場に座り込んでいた。
身を隠すという選択肢もあった。
けれど、それは悪手のように感じられ、私は選ばなかった。
今は緑の髪に煤が擦れ、赤子の熱が鎖骨の下で脈打っている。
「にんげんのおとな……じゃない?」
泣きすぎて掠れた声だった。
赤紫の髪と紫の目をした女の子だった。
私は静かに微笑み、声をかけた。
「大人よ。でも、傷つける道具は持っていないわ。──人間かどうかは、私にも分からないけど」
「変なの……」
私はシオンを抱えたまま、手のひらを見せた。
敵意がないことを示すためだ。
「さっき、わたし、あなたが、なまえをいってるの、きいたの」
「なら、改めて自己紹介をするわね。私はトネリコよ」
「めがみさまと、おなじ、なまえ」
「そう、同じ名前。でも、借りているだけよ。女神様は、もう少し光っていたもの」
ある意味嘘ではない。
「とねりこ、さま」
舌の上に置いた名前を、他人の口が先に完成させた。
風がもう一度、その名を繰り返した。
子どもの肩から力が抜け、その場に座り込んだ。
膝が煤で黒くなる。
気にしている様子はない。
というより、そんなことを気にしている場合ではないのだろう。
むしろ、すがるような目をしていた。
「ベラドンナ。わたし、ベラドンナ。としはよっつ。おかあさんが、かみさまのなまえを、おしえてくれたの。つかいのひとがきたら、こわくないって。みどりのかみで、あかいめで、ちゃいろのはだだって」
魔女の子だと、女神の知識が囁いた。
まだ魔術をほとんど使えない年頃で、扱える力も火種ほどしかないらしい。
実際、彼女が震える指で灯そうとした光は、掌の上で一度弾み、やがて煤となって落ちた。
自分の失敗を見て唇を噛む。泣きそうになる顔を、必死に引き締めていた。
「それでいい。今は、灯らなくていい」
「つかいさまは、おこらないの」
「怒らないわ。私だって、ようやくこの子に母乳をあげられたくらいしかできていないもの」
「よかった。いどは、つかえない。みずも、どうしていいか、わからない。たべものも、おなじなの」
これは、やることが山積みだぞ、女神様。
「それに、やすむばしょも、あんまりないの」
「分かったわ、ひとつずつ、やっていきましょう」
私が立ち上がると、ベラドンナが衣の裾を掴んだ。
「ひとりに、しないで」
「一人にしないわ、一緒に、行きましょう?」
そう言うと、ベラドンナはこくりと頷いた。
赤ん坊を抱えたまま、四歳の女の子に衣の袖を掴まれた私は、飲めないと言われた水の入った水瓶を覗き込んだ。
水面には煤が膜のように広がっていた。
私はベラドンナにシオンを少しだけ預けた。そして、割れていない別の水瓶と衣を使って、煤を濾した。
本当なら、これだけでは飲めないはずだ。
火にかけて煮沸する必要がある。
それでも、今はほかに方法がない。
恐る恐る口に含むと、少しだけ煤の苦みがあった。
けれど、水本来の甘みが、その苦みを和らげてくれた。
女神様の衣のお陰だろうか?
「これで、しばらくは水に困らずに済みそうね」
そう言って、私はベラドンナからシオンを受け取り、抱き上げた。
ベラドンナは両手で水をすくい、口に運んだ。
「すこし、にがいけど、のめます」
「なら良かった」
「……つかいさま」
女神の敬称が、四歳の口に乗っている。
受け取るには重く、拒めばこの子の支えが折れる。
「トネリコ、でいい」
「だめ。おかあさんが、なまえはだいじって。めがみさまのなまえ、よんだら、めがみさまはなにもできなくなるかもしれないって」
母親の言葉を、彼女はまだ現在形で言った。
訂正しない。
死んだ、とは、私の口からはまだ出せなかった。
出せば本当になる気がした。
それにしても、女神様、そんな話は聞いていない。
風が吹き、「それはただの民草の伝承だ」と告げた。
「かぜ?」
「ううん、気にしないで。それより、たべもの……どうしようか……」
「わたしはいいの。よっつだから、おおきいから」
「四つは大きくはないわ。この子は私の母乳でお腹いっぱいにできるようになったから」
「……うん」
ベラドンナは静かに頷いた。
彼女の言葉を、頭ごなしに否定したくはなかった。
だが、まだ四歳だ。
他にも子どもがいると聞いている。
飢えをどうにかしたいが、他の子どもたちにも会わなければ、まずどうしようもない。
かと言って、他の子たちの所に案内するように言うのも気が引ける。
どうしたものだろうか。
「このこ、シオン。エルフ。シオンのおかあさんが、なまえをおしえてくれるまえに、うごかなくなっちゃったの」
動かなくなったというのは、遠回しに死んだことを意味しているのだろう。
でも、死んだという言葉が怖くて、まだ口にできないのかもしれない。
「あなたが、見ていたの?」
「みてた。だっこ、へた。ミルク、ない」
「大丈夫、ミルクはもうあるから」
「うん、つかいさま、ありがとう」
私は水瓶の水を見た。
どれくらい持つか分からない。
人間一人あたり、一日に約二リットルの水が必要だと聞いた気がする。
だが、子どもたち四人とシオン、私の分まで考えると、この量では圧倒的に足りない。
外の小さな影たちが、また動いた。
まだこちらへは来ない。怖がっているのだろう。
オレンジ色の髪が、壊れた壁の向こうで一度光り、消えた。
ベラドンナはそれに気づき、私の袖を握り直した。
「なかま、いるの。でも、なまえ、きいちゃだめって、わたしがいった。こわいひとが、なまえをきいて、またくるから」
「聞かないわ。あなたがいいと言うまで」
胸に、嘘をついたときのような痛みはなかった。
私は、本当のことだけを言えている。
ベラドンナは袖を掴んだまま、シオンの頭にもう一度光を灯そうとした。
けれど、その光はまた煤となって落ちた。
彼女は唇を噛み、それでも手を引っ込めなかった。
「つかいさま。ううん。とねりこさま。このこ、わたし、だっこへた。でも、みてるのは、できる」
「私も抱っこは下手。見てるのは、一緒にしよう」
「じゃあ、いっしょにへた」
四歳児の提案としては、完璧だった。
私は頷き、焼けた敷居の内側で、赤ん坊の寝息を聞いた。
緑の髪が、二人分の頬に触れた。
使者の真似事は、まだ名前を呼ばれただけ。
母の真似事は、赤子に母乳を飲ませたあの時から始まっていた。
ベラドンナが、私の膝に額を当てた。
軽い。
眠るつもりなどないという顔をしていたが、やがて目を閉じた。
「かえってくるまで、ここにいる」
誰が、とは聞かなかった。
私は緑の髪で、その小さな肩を覆った。
魔女の子ベラドンナの登場です。
使徒(使い)でもあるトネリコに助けを求めました。
ベラドンナの情報で、トネリコはやることが山積みだと理解します。
水はおそらく女神様の加護があったから飲めるようになりました、が量が足りない。
ご飯もない。
休める場所もない。
その中で、トネリコは一つ一つ女神トネリコの力を持って解決するのでしょうが、子ども達への寄り添いはどうなるか。
この作品も毎日更新を目指しております、体調悪かったりしたら、できないかもしれないですが……
どうか、お付き合いお願いします!
ここまで読んでくださりありがとうございました!
感想ありがとうございます!
次回も読んでくださるとうれしいです!




