第1話 向こう側へ~赤子の母として~
ブラック企業に勤めていたOLの榕樹撫子は深夜まで修正マークだらけの企画書と向き合っていた。
その瞬間は不意に訪れ、彼女は過労死してしまう。
次に聞こえた声は「ああ、冥府へ落ちる前に間に合って良かった」という女性の声。
目を開けるとそこには──
これは、私がこの世界に来てから、少しだけ時間が経った頃のお話。
「とねりこかあさま、きょうも、すこし、こがしちゃったね」
「ごめんね。焦がした分は私が食べるわ」
「ううん、いいの。これでいい」
私はいつも料理を少し焦がしてしまう。
それでも、子どもたちのために料理を作る。
「とねりこかあさま、シオンがおなかすかせて、ないているよ。おちちあげて」
「分かったわ」
生前の私は母親ではなかったし、もちろん母乳が出ることもなかった。
けれど、今の私には赤ん坊に乳を与えるための胸がある。
四人の子どもと一人の赤ん坊と共に、女神様の力で作られた木の家で暮らしている。
私の名前はトネリコ。元の名前は榕樹撫子。
この世界、リザーズテイルに異世界転生した元OLだ。
私が死んだのは、深夜だったと思う。
エナジードリンクとコーヒーを飲みまくり、修正マークだらけの企画書をどうにかしようとしていたとき、不意にその瞬間は訪れた。
視界がゆがみ、呼吸もままならなくなった私は、そのまま机に突っ伏した。
助けを呼ぶ力もなく、ゆっくりと目を閉じた。
「ああ、冥府へ落ちる前に間に合ってよかった」
女性の声が聞こえた。
体も動く。
目を開けると、巨大な樹の根が闇の中で肋骨のように絡み合っていた。
その中心に、一人の女性が立っている。
緑の髪は巨大な樹の葉と同じ色をしていた。
瞳は真っ赤に熟れた林檎のような色。
ルビーのような赤とは違う。
林檎の色がそのまま瞳になったら、こんな感じなのだろう。
褐色の肌は樹の根と同じ色をしていた。
白い衣は光り輝いているようにも見えるが、不思議と眩しくはなかった。
「貴方は……」
「はじめまして。女神トネリコです。調和と愛を司る者です。あなたの世界の神ではありません。あなたがこれから向かう世界、リザーズテイルの女神です」
「私死んでいますよ?」
「ええ、ですから転生していただきます、子どもの姿ではなく大人の姿のまま、ただ──」
「その黒い髪も、茶色の瞳も、血色の悪い肌も、こちらに置いていってください」
血色が悪いとは失礼な、いや事実だから反論のしようがないけれども。
「置いていく、とはどういうことですか?」
「あなたには私の使徒として、リザーズテイルにある焼けた集落へ向かってもらいます」
「焼けた、集落」
その言葉だけで嫌な予感はした。
「赤ん坊が一人、小さな子どもたちが四人。生き残ったのは、それだけです。このままでは、あの子たちは死んでしまいます。仮に生き延びたとしても、人間への憎しみを募らせ、復讐の連鎖を生み出すでしょう」
「私は、どうすれば」
子どもの世話なんてしたことがない。
「どういう状況からこうなったのか見て貰うのが良いでしょう」
樹の根が私の腕を掴んだ。
頭の中に、人間やさまざまな種族が交流し、楽しげに暮らしている光景が映し出された。
エルフの狩人、獣人の鍛冶屋、吸血鬼とダンピールの夜警、魔女が薬を販売する様子。
市場では野菜や肉が取引され、行き交う大人たちが子どもたちの頭を撫でていた。
井戸の水を飲んだり、浴びたりして、楽しそうにしている。
幸せそうな光景だった。
ノイズが走る。
次に映し出されたのは、燃え上がる集落だった。
死体の山。
灰になった吸血鬼。
血だまりの中に倒れたダンピール。
そして、赤ん坊を守るように扉の前で息絶えたエルフ。
小さな四つの影と、それよりも小さな一つの影だけが残されていた。
それ以外の者たちは、みんな死に絶えたのだと分かった。
その光景の中に、一人の男がいた。
灰色の髪に灰色の目、褐色の肌をした男だった。
小さな影たちを「放っておけば死ぬだろう」と言って、配下の連中を連れて立ち去るのが見えた。
最初の光景とは違い、次の光景を目にした瞬間、喉の奥から吐き気が込み上げてきた。
拒絶する感情を抑えきれず、私は胃液を吐いた。
吐くのって辛いな、と思っていると、樹の枝が濡れた葉で私の口元に水を運んできた。
私はそれで口をゆすぎ、残った水を飲み干して一息ついた。
「すみません、お見苦しいところを見せて……」
「構いません。それが普通の反応ですから……──いえ、それこそがあなたを選んだ理由でもあります」
選んだ理由?
分からない。
「どうか、あの子どもたちの『仮の母親』となって、そばにいてあげてください」
「……なれる自信はありません」
「いいのです。そばにいて、飯を炊き、一緒に食事をして、腐っていくものを見守ってあげてください。殺し返さなくていい。憎しみは、返すたびに次の子どもの刃になるから。だから、それだけでいいのです」
「ご飯、焦がしちゃうかもしれませんよ? 私、料理が下手なので。それに、あの子たちを無事に夜越しさせられるかも不安です」
「それでも構いません」
そこまで言われたなら、やるしかないか。
どうせ断ったところで、本当に死ぬだけだろうし。
「……分かりました、引き受けます」
「感謝します。では、その髪と瞳、肌の色。そして──榕樹撫子という名前を置いていってください。向こうの世界では、私の使徒としてトネリコの名を名乗ってください」
「不敬じゃないんですか? それに名前を置いていくって……」
「神々の名を名乗ることが許されているのは、その神の使徒だけなのです」
そういう掟なのか。
「ええ。榕樹撫子という名前は、こちらに置いていってください。短い黒髪も、茶色い瞳も、血の気のない肌も。つらい名前の渡し方だけれど、あなたを捨てるためではありません。新しい世界へ届けるためです」
一瞬、自分の顔に触れた。
もう感覚はない。
エナジードリンクとブラックコーヒー。
締め切り。
そして、誰にも送れなかったメッセージ。
その残滓が、ほんの少しだけ指先に残っていた。
「子どもたちは、恨んでもいいのですか?」
女神は初めて、ほんの少しだけ目を細めた。悲しみに似ていた。
「恨んでいいんです。当然ですもの。あなたは、その恨みの隣でご飯を炊いてあげて。それだけで、今日は足りるから」
「失敗したら、どうすればいいんですか?」
「失敗してもいいのです。私も何度も失敗しています。ですから、どうか子どもたちのそばにいてあげてください」
根が閉じて、光が喉の奥まで満ちた。
温かかった。
オフィスの非常灯とは、まるで違った。
目を開けると、髪が腰まで伸びていた。
緑色の髪は、葉脈のように光を吸い込んでいた。
手は褐色で、爪の先まで生気に満ちていた。
樹の根元にある水辺に映った瞳は赤かった。
女神トネリコと同じ、林檎のような赤だった。
あの榕樹撫子は、もうどこにもいない。
身にまとっている衣は白いが、女神のものほど光り輝いてはいなかった。
「私の使徒としての力も、これから徐々に芽生えていくことでしょう」
「えっ、最初は何もないんですか?」
「いいえ、ありますよ。行けば分かります」
女神トネリコは静かに微笑んだ。
「では、子どもたちをお願いします」
再び樹の根が閉じた。
次に開かれたとき、私は焼け焦げた集落の前に立っていた。
素足で、灰を踏んだ。
死体の山。人間も、エルフも、獣人もいる。
足元の灰は吸血鬼のものなのだろうか。
そう思ったが、風が告げてくれた。
それは、ただの灰なのだと。
私は深く息を吸った。
そして、自分の「今」の名前を確かめるように口にした。
「私の名前は、トネリコ」
風が吹いた。
何の風かは分からなかったが、赤子の泣き声を運んでくる風だった。
焼け焦げた匂いが気持ち悪かったが、もう吐いている場合ではない。
子どもたちを探さないと。
早く、特に赤ん坊を。
私は素足で瓦礫の上を歩き、風が招く方へと進んでいった。
途中で、小さな影がこちらを見ていることに気づいた。
けれど、今はそっとしておくことにした。
朽ちた家の扉を開けた。
中に入ると、かすれた泣き声が聞こえてきた。
扉の向こうにあった揺り籠の中で、赤ん坊が声を枯らして泣いていた。
「もう大丈夫だからね」
私は赤ん坊を抱き上げた。
とても軽くて、それなのに、とても重かった。
落とさないように気をつけながら、その場に腰を下ろした。
胸元に熱が灯った。
じんわりと母乳が衣に滲んでいった。
女神様が言っていたのは、こういうことだったのか。
そう思いながら羞恥心を振り払い、襟元を広げて赤ん坊の口元に胸を近づけた。
赤ん坊は最初、嫌がるような素振りを見せた。
けれど、何かを感じ取ったのか、やがて吸い付き、んくんくと喉を上下させ始めた。
初めての授乳だからか、地味に痛みを感じた。
けれど、これは仕方がない。
お互いに慣れていくことが大切だ。
お腹がいっぱいになったのか、背中を優しくとんとんと叩いてゲップをさせる。
それから、服に縫い付けられた護符を見て名前を確認した。読めるのは女神様の力のおかげだろう。
「シオンね」
頬がふっくらとし、血色もよくなった赤ん坊──シオンは、眠くなったのか、すやすやと眠っていた。
私は衣を直し、シオンを抱きかかえてその場に座り込んだ。
「大丈夫、これでなんとか越えられそう」
小さな命を、なんとか繋ぎ止めることができた。
さて、これからどうやって子どもたちと接触していこう?
そう悩んでいると、小さな影がこちらに近づいてきて、口を開いた。
「にんげんのおとな……じゃない?」
その声に、私は顔を上げた。
榕樹撫子がその名前、元の体の色を置いて行き、女神トネリコの使徒トネリコとして、リザーズテイルで子どもたちと交流していく話です。
シリアスも多めですがほのぼのも入ります。
今回はシリアスで、赤ん坊のシオンに母乳を与えることでなんとかシオンの命を繋ぎ、そして小さな影が最後近づいて来ます。
トネリコは無事に子どもたちを保護し、心の傷に寄り添っていくことができるのでしょうか?
ここまで読んでくださりありがとうございます。
次回も読んでくださるとうれしいです。




