第7話_神は等身大の人間だった――悲痛な叫びと届けたい心
「私はこの作品を書き出す前、小説を書く、筆を執ったことなど、一度もありませんでした。元々は、大手企業で管理職をして、妻と子供2人……家族4人を養う、どこにでもいる普通のサラリーマンだったんです」
アレックスさんは静かに語り始めた。
――え……?
初めて聞く、アレックスさんの過去。 あたしは息を呑んだ。大手企業の管理者、家族4人……。 脳裏に、あのカフェで彼が最初に見せた、ちょっと猫背で、人生の重みを背負ったような『くたびれたおっさん』の姿が鮮烈によみがえった。
「ただ……ある日、病気になってしまいました。安心してください。今は治っています。経過観察はしていますが……」
アレックスさんの声が、わずかに揺れた。
「進行性の病気でした。日に日に体の調子が悪くなる。やがて、自分の身の回りのことすら満足に自分でできなくなり……もちろん、大好きだった。大好きだと思っていた仕事も、続けることができなくなりました」
マイクが、彼の震える吐息を拾った。 誰も声を出せない。ステージの上の華やかなスポットライトの中に立つ彼は、今、あまりにも過酷な現実の『闇』を告白していた。
「職を失い、体調を崩す中で、私は暗闇の中にいました。家族を養うこともできず、自分が何のために生きているのかも分からない。文字通り、絶望のどん底にいたんです」
アレックスさんは一度、深く、大きく息を吸い込んだ。 その肩が、かすかに震えているのが、最前列のあたしの目からはっきりと見えた。
「当時は自分が何もできないという現実に加え、長年、家族のため、会社のために働き続けた自分そのものが、その生活から解放された時……自分のためにやりたいことが、何一つとして分からなくなっていたんです」
彼の声は、マイクを通しているのに、まるで隣で泣いているかのように弱々しく、切実だった。
「外へ出てレストランに入っても、メニューすら自分で決められない。何が食べたいのか、自分が何を好きなのか……わからない。趣味の漫画やアニメを見るのも疲れる。今までは新しいアニメを見るのが好きだったのに頭に入ってこない。見る気もおきない。仕事もそうだった。自分が好きなことを仕事にした。はずだった。ただ、冷静に考えると、家族を養うことを目的として、会社というシステムの一端として役割を担うことを目的として生きていたから、その機能を失った瞬間、自分には何もない、空っぽの人間であることに気がついた。……あれは、本当に絶望でした」
アレックスさんが自嘲気味に、ふっと小さく笑うような気配がした。その笑みがあまりにも寂しくて、会場のあちこちから、息をのむような音が漏れた。
――何も……ないなんて、そんなことないっ!
あたしは、自分でも驚くほど強く、手すりを握りしめていた。
――そんなことはない。今のアレックスさんには、この作品がある。ノスフェル様という、数え切れないほどの読者を救った英雄がいる。そして、その英雄を生み出した、彼自身の「言葉」があるじゃない! 何もないわけ……ない……
アレックスさんはさらに深い呼吸をして、震えていた声に、少しだけ力を込めるように言葉を続けた。
「続け……ますね……私はそんな生活で家族とは一緒にいられなくなりました。私の心が壊れてしまい、家族と一緒にいると震えが出たり、頭が痛くなりました。家族に対する適応障害ですね。2年後には離婚しました。今も慰謝料と養育費を払い続けています」
あたしは目を見開いた。
――『適応障害』……いじめに関する授業の中で習った……学校に来るときだけ体調が悪くなるという物だったはずだ。学校に来る時だけ、他のことはできる。遊んだりも。そんなのサボりじゃないの?って軽口を叩いたのを覚えている……軽く言っていい話じゃなかった……
「私はどんどん追い詰められていきました。一人でいることが地獄でした。頭の中には考えなくていい言葉があふれてくる。そんな時、医師に勧められたのが気持ちを文字に起こすこと、ナラティブセラピーと言うものです、その日から私は音声でただその時に思ったことを文字に起こし始めました」
あたしは唇を噛んだ。
――飄々としてて、今日見た、皆に慕われるアレックスさんが、先生が、こんなにつらい過去を抱えていたなんて……
「自分の内側にあるどろどろとした感情を、誰に見せるためでもなく、ただ書き殴ったんです。家族への憎愛、会社に対して急に休んだ申し訳なさと、激務のなかで働かせ続けた恨み、自分自身に対する同情と自己嫌悪、それらがあふれていました。読み返しても決して気分のいいものではありませんでした。余計に心は沈んでいきました」
あたしは目を潤ませた。
――家族への憎愛……好きな人と、家族と一緒にいられないってどんな気持ちなんだろう……
「ただ、振り返ってみるとその書いた内容が物語にできそうだと思ったんです。だから、小説のような形にしてみました。始めに書いたものは、ひどいものでした。ダークファンタジーで滅んだ世界で……魔物に家族を殺された人間が復讐していくというものです。喜怒哀楽の感情をかたどった4種類の魔物を殺し、最後に主人公は自殺する……誰も救いのない話でした」
そこまで一気に語ると、アレックスさんは一度、言葉を区切った。 そして、自分の告白がどう受け止められたのか、その周囲の反応を気にするように、満月の被り物の奥から、静まり返った会場全体をゆっくりと見渡した。
会場は、まるで時間が止まったかのような静寂に包まれていた。 アレックスさんの言葉は、飾られた綺麗なものではなく、彼がかつて直面した「本当の闇」そのもので、聞いているあたしたちの胸を容赦なくえぐり取った。
何百人もの人間が詰めかけているはずの上映室は、その過酷な告白に、上映室は水を打ったように静まり返っていた。華やかにスポットライトを浴びて笑顔を振りまいていた若手声優や監督たちも、ステージの上で完全に硬直していた。あまりにも生々しく、ドロドロとした原作者の「魂の叫び」を前にして、どう反応していいのか分からず、ただ圧倒されているのが、最前列のあたしの位置からでも痛いほど伝わってきた。
「ただ、ある日のことです。転機がありました。気持ちが沈んで眠れない夜、昔から好きだったアニメや、漫画、映画、小説などのワンシーン、名台詞をまとめていたら何か温かい気持ちが芽生えました。感動が芽生えました」
アレックスさんは会場を見渡していた。舞台袖にいるある人物の前で目を止めた。その人物はうなずいていた。あたしには遠くてそれが誰かがよくわからなかった。
『闇が俺を包んで意識が途絶えそうになった時、お前という光が、お前の声が俺を助けた』
あたしは鼻をすすった。
――それは、ノスフェル様の物語であると同時に、アレックスさんという一人の男が、人生で本当に味わった『本物の絶望から救われた経験』そのものだったんだ。
あたしは涙が溢れそうになるのを必死に堪えながら、ステージの上の、世界で一番格好良いおっさんの声を、ただ祈るようにして聴き続けていた。
ステージの上の彼は、燕尾服と月面頭という仮面を纏いながら、誰よりも人間臭い、脆くて強い心を見せていた。 あたしはその姿を、瞬きすることさえも怖いくらいの熱量で見つめていた。 彼が暗闇の中で書き上げた、その一文字一文字が、今のあたしの人生を支えるノスフェルという「光」になったのだという事実に、改めて震えが止まらなかった。
「そして、この感動をほかの人にも味わってほしいと思った。疲れている人、前を向けなくなった人が少しでも楽になれるように、笑顔になれるようにそう思った。私が生きる活力をもらったように皆に生きる活力を与えたいと……」
アレックスさんはそこで拳を握って震えていた。
あたしも同じように拳を握り震えていた。
――わかるよ。私も生きる活力をもらった。学校でいやなことがあった時、成績が上がらない時、好きなスポーツがうまくいかない時。そんなつまづいたときに助けられた。前を向く気力をもらった。それがスタドロであり、ノスフェル様なんだから……
「過去の名言や名シーンに思いをはせたところ、最初に私が作った作品の喜怒哀楽を冠した敵も魅力的で思想や信念があることに気づきました。それをキャラに起こしたらどうかと、皆に届きやすい形にしたらどうだろう、そう思ってできたのがスタドロです」
――誰も救われない、最後に主人公が死ぬだけの物語。 もし、彼がその絶望のままにその物語を終わらせていたら、今ここにある『スタドロ』も、スピンオフも、そしてあたしが何よりも愛するノスフェル様も、この世に生まれていなかったかもしれない。
アレックスさんの満月の頭が、ゆっくりと客席を巡り、そして……最前列でドレスの胸元をきゅっと握りしめ、涙を流しながら彼を見上げているあたしのところで、ぴたりと止まったような……気がした。
会場中の誰もが、その重すぎる過去に息を呑み、次の言葉を待つ恐怖と期待の狭間でじっと身をすくめていた。 お台場の、きらびやかな夜景がガラス窓の向こうに広がる美しいシアターの中で、あたしたちは全員、アレックスさんという一人の男が紡ぎ出す、暗闇のプロットの続きに、完全に心を囚われていた。
「スタドロは子供向けアニメになりました。ただ、物語の根幹は絶望を知った男がみんなにそうならないでほしい、世界には好きなものを好きだと思えて、人にその素晴らしさを伝えて行ける、そんな力強さがあるんだ、それを知ってほしかった」
アレックスさんは会場に来ている子どもたち、大人、女性、男性、老人に至るまでが集まっている様子を眺めていた。
彼は一度、被り物の奥で目を閉じたようだった。その満月頭の燕尾服の下で、彼がどのような表情をしているのか。今のあたしには、透けて見えるような気がした。
――……そんな、……そんな風にして、このお話は生まれたんだ……
あたしはドレスを握りしめていた。胸の奥が、ぎゅーーっと痛いくらいに締め付けられた。 病気、失職、喪失、絶望。 彼が以前、あたしの名前の横に書き添えてくれた、あのノスフェル様のセリフが、強烈なリアリティを持ってあたしの脳裏を殴りつけてきた。
『闇が俺を包んで意識が途絶えそうになった時、お前という光が、お前の声が俺を助けた』
彼が、このおっさんが、あんなにもボロボロになりながら、あたしのために……いや、誰かのために光を灯してくれたんだ。そう思うと、もう涙を我慢する理由なんてどこにもなかった。
あたしは頬を伝う熱いものを拭いもせず、ただステージの上の、世界で一番強くて、世界で一番愛おしい作者の姿を、その目に焼き付けた。
ドレスの胸元を握りしめていた指先は、いつの間にか血の気が引いて真っ白になっていた。それでも、あたしはステージから目をそらすことができなかった。
――『スタドロ』の、あのどこか切なくて、でも胸を熱くさせるダークファンタジーの世界観。その根底に流れていたのは、きれいごとじゃない、アレックスさん自身の本物の「呪い」と「恨み」と「絶望」だったんだ。 家族への憎しみと愛、会社への申し訳なさと憎悪、そして自分への嫌悪。 音声認識の機械に向かって、ただひたすらに自分のドロドロした感情を吐き出し続けていたあのおっさんの姿を想像して、胸が引き裂かれそうになった。
「皆さん、ありがとうございます。俺の物語を好きになってくれて、好きだからここに来てくれて、好きだと言ってくれて」
アレックスさんは舞台中央で、観客だけでなく、関係者や、集まった全員に向かい、深々と頭を下げた。
「ノスフェルは私の怒りの象徴です。それが皆に、これだけ多くの人に感動を届けている、皆に何かが響いている、それだけで……」
『ワタシはこの世界を作ったことに価値があったと思っているんだよ……』
最後はフルムーンさんのセリフだった。 深々と頭を下げたまま、彼は動かなかった。
静寂が、再び会場を支配した。しかしそれは、さっきまでの冷たい沈黙ではない。 彼の魂の遍歴、絶望から始まった物語が、いかにして「みんな」のための光へと変わっていったのか。その途方もない優しさと力強さに、誰もが胸を打たれ、言葉を失っていたのだ。
ステージの上の監督も、隣の若手声優も、誰もが目元を赤くして、深く頭を下げたままのアレックスさんを見つめていた。 客席に目を向ければ、小さな子供の手を握る母親、静かに涙を流す大人の男性、そして感動に震える若い女性たち。会場を埋め尽くす全ての人が、それぞれの「好き」を胸に、彼の言葉を噛み締めていた。
――先生……アレックス、さん……っ
あたしの視界は、完全に涙で崩壊していた。あたしの唇は、感動と愛おしさで小刻みに震えた。
――『病気』『適応障害』『離婚』。彼が淡々と語ったその過酷な現実。今も彼が「くたびれたおっさん」として背負い続けていた、人生の重み。 それでも彼は、自分のためじゃなく、世界中の誰も自分と同じ絶望を味わわないでほしいと願って、あの輝かしい物語を紡ぎ続けてくれたんだ。 怒りの象徴であるノスフェル様が、今こうして、あたしの心を、そしてここにいるみんなの心を、こんなにも救っていた。
一瞬の静寂の後、最前列のあたしの目の前から、小さな拍手が沸き起こった。気付いたら手を叩いていた。それはすぐに隣へ、後ろへと伝播し、やがてシアター全体を揺るがすような、嵐のような、地鳴りのような拍手と喝采へと変わっていった。 みんなが立ち上がり、彼に向かって、惜しみない賛辞の拍手を送り続けていた。
あたしも、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、力の限り両手を打ち鳴らしていた。お母さんにしてもらった最高級のメイクなんて、もうどうでもよかった。 ただただ、ステージの上で深く頭を下げたまま動かない、あの愛おしい満月の頭に向かって、あたしの、世界で一番大きな「好き」を届けるために、手のひらが真っ赤になるまで、何度も、何度も拍手を送り続けた。
彼が握るマイクは、等身大のおっさんが漏らす切実で、誠実な嗚咽を拾っていた。
=============【作者より】
読んでいただきありがとうございました。
次回6月10日(水)18時10分更新予定です。(毎日投稿・全9話で完結します!)
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また、拙作は他に以下の2種類がありますので、興味があればぜひ手に取ってみてください。作者の全く違う一面がお楽しみいただけます。
〇異世界転生×ヒューマンドラマ長編 ※第一部完結済 『父娘転生〜仲間思いとひねくれ者、言葉が届くまでの異世界譚〜』 (※重厚なドラマで泣きたい方はこちら)
https://kakuyomu.jp/works/822139846780133270
〇ブラック企業×飯テロ×オマージュ×ダンジョン配信 『食欲の魔女と底辺OLのダンジョン飯テロ配信成り上がり人生 ~食に卑しいポンコツ魔女の叡智を借りたら、ブラック企業の売上を超えて大バズりした件~』 (※限界突破のギャグと飯テロを味わいたい方はこちら)
https://kakuyomu.jp/works/2912051600560581523
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