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第6話_新たな神話の始まり――舞台挨拶の始まり

 案内が始まって、大人の関係者たちの後に続いて、薄暗い上映室へと歩き出す。 すぐ隣を歩くアレックスさんの、仕立ての良いストライプスーツの肩が、あたしのシースルーの袖に時折かすれるたびに、心臓がトクン、と大きく跳ねる。


 ファンとして、世界で一番大好きな作品の新しい歴史が始まる瞬間。 そして、一人の女の子として、目の前の眩しすぎる大人の男に、完全に心を奪われてしまった瞬間。 2つの最高の興奮が混ざり合って、あたしの記念すべきお台場の夜が、ついに幕を開けようとしていた。


『さあ、いきましょうか、マドモアゼル』


 暗がりの通路に進む直前、アレックスさんが、あの、全オタクを狂わせたフルムーンさんの低音神ボイスでそう囁いた。それと同時に、あたしの右手を、彼の大きな手が優しく、でも男らしく包み込む。


「――っ!?」

 頭の中でドーパミンが完全に大爆発を起こした。耳元に響いたイケボの破壊力と、手のひらから伝わってくるカチッとしたスーツ姿の彼の体温。あまりの尊さと刺激の強さに、一瞬マジで膝の力が抜けて倒れそうになった。 それを支えるように、アレックスさんの手がキュッと力強くあたしの手を引いた。


――ちょっと……っ! 手、握った、今この人、あたしの手、引いた……っ!!


 心臓のバクバクが限界値を突破して、胸の奥がまたじわっと熱くなるのが自分でも分かった。顔から本気で火が出そうになる。


 だけど、案内された上映会場のロビーに一歩足を踏み入れた瞬間、あたしは別の意味で圧倒されることになった。


「アレックスさん、こんにちは! 今回の作品、本当にすごい出来です!」 「アレックスさん、原作のあのプロットをこう落とし込むなんて、本当に感動しました!」 「アレックスさん、衣装のイメージありがとうございました! 最高の形に仕上げてみせますね!」


 ビシッとしたスーツを着たプロデューサーらしき大人たちや、おしゃれなクリエイターたちが、次から次へとアレックスさんの周りに集まってきて、目を輝かせながら彼を絶賛していく。


 さらには、今回のスピンオフで大抜擢されたらしい、いかにも若手って感じの可愛い女性声優さんまで、潤んだ目でアレックスさんを見つめていた。

「アレックスさん……私、初めての作品でこんな大役をいただけて、本当に光栄です……っ!」

 

「はは、みんなありがとう。現場のスタッフや、君たちの最高の演技があってこそだよ」

 丸メガネの奥の目を細めて、大人の余裕たっぷりに、でも謙虚に微笑みながら応じるアレックスさん。 カフェにいたあの「くたびれたおっさん」は、ここでは何百人もの人間を動かす、絶対的な『創造主(神)』だった。


  みんなが彼を尊敬し、彼に褒められたくて必死になっていた。その中心にいるアレックスさんが、あまりにも眩しくて、格好良すぎて……あたしは繋がれた手のひらを見つめながら、胸が締め付けられるような、強烈な独占欲に似た何かに襲われていた。


 すると、一人の若いスタッフの男の人が、アレックスさんと繋がれたあたしの手に目を留めて、ニヤニヤしながら話しかけてきた。

「アレックスさん、もしかして……彼女さんですか? めっちゃ美人じゃないですか、モデルかと思いましたよ!」


「――ッ!?」

 彼女。美人。 その言葉に、あたしの心臓が跳ね上がる。 周りの視線が一気に集まるのが分かって、ドレスの裾を握る左手が震えた。


「コラコラ! 彼女に失礼だろ、知り合いだよ。ただの、ね?」

 アレックスさんは悪戯っぽく笑いながら、あたしの手を引いたまま、そのスタッフの頭を軽く小突くように空いた手を上げて嗜めた。


「ただのファン、だよ。俺の作品を世界で一番熱く愛してくれている、ね」

 そう言って、アレックスさんはあたしを振り返り、優しく目を細めた。

――ただの、ファン……そう言われるのが一番正しいって分かってる。分かってる、だけど。 さっきまで「彼女」って言われて跳ね上がった胸の奥が、今は少しだけ、チクリと切なく痛む。 アレックスさんの大きな手のひらの温もりが、ずるいくらいにあたしの心を支配していく。


「……、……っ、当然だし。あたしよりノスフェル様を愛してる奴なんて、この会場のどこを探したっていないからね!」

 あたしは寂しさを隠すように、アレックスさんの手をちょっとだけ強く握り返しながら、ツンと上を向いて言い返した。


 アレックスさんは「はは、頼もしいね」と嬉しそうに笑って、そのままあたしを、最前列の関係者席へとエスコートしていった。


 薄暗くなっていく上映室のシートに並んで腰掛けたとき、あたしの体は、これから始まる最高の1話への期待と、「アレックスさん」という一人の男への、止められない興奮で、完全に熱くなっていた。


 上映室の明かりがゆっくりと落とされ、大きなスクリーンが青白い光を放ち始めた。あたしは関係者席のふかふかのシートに座り、胸の高鳴りを抑えきれずにいた。

 「じゃあ、僕はちょっと挨拶があるから……またあとでね」


 そう言い残しアレックスさんは行ってしまった。


 しばらくすると照明が落ちてあたりが真っ暗になった。


 あたしは隣を見た。アレックスさんはいない。空いた席を眺めて目を伏せた。

 ――そうか……主役だもんね。神様だもんね。


 ステージにスポットライトが当たり、ついにスピンオフアニメの試写会イベントが始まった。司会者の華やかな声に導かれて、監督やアニメーター、そしてさっきロビーで見かけた可愛い若手声優さんたちが次々と舞台に上がっていった。

「それでは皆様、大変お待たせいたしました! 本作の原作者であり、そして、作中屈指の人気キャラクター・フルムーンさんの声も務められています、アレックスさん先生の、ご登壇です!」


「あ……」


 さっきまであたしの手を包んでいたあの温もりが消えて、なんだか急に、彼が遠い世界の住人になってしまったような、寂しくて、でも目が離せないような、不思議な気持ちが胸の奥を支配していった。


 そして、ステージ中央が光を放ち、せり上がりとともに彼が登場した瞬間、あたしは思わず息を呑んだ。

――……え、ちょっと嘘でしょおぉぉぉぉっ!?!?

 さっきまでの超絶イケメンな紳士スーツ姿はどこへやら、アレックスさんは……あの、メッセージアプリのアイコンと全く同じ『満月の被り物』を頭にすっぽりと被り、首から下は最高級の仕立ての『燕尾服』という、あまりにもシュールで、でも完璧なフルムーンさんのコスプレ姿で現れたのだ。


 会場中が、その予想外すぎるビジュアルに一瞬だけ水を打ったように静まり返った。


 その静寂のど真ん中で、月面頭を被ったアレックスさんが、ビシッと客席を指差した。 丸メガネの奥のあの知的な瞳は隠れているはずなのに、その瞬間、彼から放たれたオーラは完全に、作中トップクラスの気高さを誇るフルムーンさんそのものだった。


『皆! この僕の世界を愛でてくれてありがとう!』


 会場のスピーカーが震えるほどの、圧倒的な低音ビブラートの神ボイスが、お台場のシアターに轟いた。


「――っ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!」

 一瞬の沈黙の後、会場全体が、文字通り爆発するような割れんばかりの喝采と、オタクたちの悲鳴のような叫び声で埋め尽くされた。地響きがするんじゃないかってくらいの熱狂の渦。

「フルムーンさァァァァァァァァァんッ!!!」 「アレックス先生最高ですよおぉぉぉぉぉっ!!!」


 その渦の中で、あたしも気がつけば、ドレスの裾が乱れるのも構わずにシートから勢いよく立ち上がっていた。 目の前の手すりをガッチリと両手で掴んで、指がちぎれそうなくらい力を込めて、ステージの上の『満月の神』に向かって、喉が枯れるほどの声を張り上げた。


――ずるい、ずるい、ずるい……っ!!


 あんなにシュールな格好なのに、声が出た瞬間に、世界中の誰よりも格好良く見えてしまう。 みんなが彼に熱狂している。みんなが彼を愛している。 でも、あの満月の被り物の下にある、あの優しくて悪戯っぽい『おっさんの笑顔』を、素顔を知っているのはこの会場の中で、世界中で、あたしだけなんだ――。


 ステージの上のアレックスさんを見つめるあたしの瞳からは、興奮と、胸を締め付けるような愛おしさで、じわっと熱い涙が溢れそうになっていた。


 ステージの上で、熱狂の嵐がゆっくりと収まっていく。 司会者の女性が、少し興奮した面持ちのまま、マイクをアレックスさんへと向けた。

「アレックスさん先生、ありがとうございます! フルムーンさんとしての最高のご挨拶、胸が震えました……っ! それでは改めてお伺いしたいのですが、ご自身の原作であるこの作品が、こうしてスピンオフという形で再び世の中に出て、今、どのようなお気持ちでしょうか?」


 会場の何百人もの視線が、ステージ中央の『満月の執事』に集まる。 あたしは手すりを握りしめたまま、ステージの上の彼を、瞬きするのも忘れて見つめていた。胸が高鳴っていた。でも、今までの締め付けられるようなものとは違うように感じた。なぜだか目がかすんでいた。

 ――すごい……皆がアレックスさんを見てる……すごい……


 あたしは目を伏せた。一滴の涙が床に落ちた。体が震えていた。

 ――すごすぎて、一緒にいるイメージが……隣に立つイメージができないよ……神様って……遠すぎるよ……

 

 あたしは今日会場に来てからのことを思い出していた。

 ――彼女。ただのファン。プロデューサー。クリエイター。スタッフ。声優。アレックスさんを支える皆。あたしは何になりたいんだろう……なれるんだろう……


 満月の被り物の奥から、スピーカーを通じて、少しだけ衣擦れの音が響く。 そして、次に聞こえてきたのは、さっきのフルムーンさんの堂々とした低音ボイスとは全く違う、あのカフェの個室で聞いた、等身大の、少し低くて落ち着いた『アレックスさん』の声だった。あたしに語り掛けるような見透かした優しい声だった。


「少し、自分語りをさせてください」

 その静かな切り出しに、会場全体がしんと静まり返った。

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