語り継がれる銀の伝説
龍脈が動き始めてから、一ヶ月が経った。
世界は、静かに変わり続けていた。
ゼノビアの街に、新しい看板が立った。
帝国の公式告知だった。白い木の板に、丁寧な文字で書かれていた。
『全種族の居住権、労働権、及び商業権を同等に保証する。帝国暦一〇七年、皇帝勅令第一号』
奏は、その看板の前に立った。
看板を、読んだ。もう一度、読んだ。
隣で、カイルが腕を組んでいた。
「信じられないな」
「うん」
「帝国が、こんな法律を出す日が来るとは」
「来た」
「来た」
二人で、同じ言葉を繰り返した。
その繰り返しが、おかしくて、可笑しくて——二人同時に、笑った。
街の変化は、看板だけではなかった。
東区画の古い宿屋が、改装されていた。帝国が費用を出した。宿の主人——あの気のいい獣牙族の女性——は、最初は受け取るのを渋っていた。でも、「気に入らなければ、返してもいい」というゼクスの言葉で、受け入れた。
古代図書館の三階が、全種族に開放された。係員が変わった。今度は、どの種族にも同じ口調で話していた。
市場の区画が、一部混在するようになった。天人族の隣に、獣牙族の露店が出た。最初は、ぎこちなかった。でも、三日経つと、値段の交渉が始まった。一週間経つと、他愛ない話をするようになった。
変化が一番大きかったのは、子供たちだった。
タオが、学校に行き始めた。
新しい学校だった。三種族が一緒に通う、この街で初めての学校。建物は古かった。先生も、まだ少なかった。
でも、タオは毎朝、走って行った。
「今日ね」
ある日、タオが帰ってきて、奏に話した。
「天人族の子と、一緒に昼飯食べた」
「どうだった?」
「最初、ぎこちなかった。でも、ルニの話をしたら、盛り上がった」
奏は、ルニを見た。
ルニは、澄ました顔をしていた。
「ルニが、また橋渡しをした?」
「直接じゃないよ。でも——ルニのことを話したら、あの子も守護卵が欲しいって言って、それで話が続いた」
マリンは、地上に出てくる時間が増えた。
地下水路の住人だった海鱗族の何家族かが、東区画に部屋を借りた。最初は、遠巻きにされていた。でも、マリンが毎日広場で歌うようになってから、少しずつ変わった。
歌を聞きに来る人が増えた。
天人族の老婦人が、マリンに声をかけた。
「あなたの歌、毎朝聞こえてくる。目が覚める前に、聞こえてくる」
「うるさかったですか?」
「いいえ」
老婦人は、笑った。
「おかげで、気持ちよく起きられる。ありがとう」
マリンは、その夜、奏に報告した。
「天人族のおばあさんに、ありがとうって言われた」
「よかった」
「なんか、変な感じ。悪い意味じゃなくて」
「慣れてないから?」
「うん。でも——慣れたい」
マリンは、はにかんで笑った。
ゼクスは、帝国の行政施設で働き続けていた。
仕事の内容が変わった。魔力徴収の管理ではなく、法律の施行補助と、種族間のトラブル調停だった。
向いているのかどうか、傍目にはわからなかった。
でも、奏がある日、施設の廊下を歩いていた時、ゼクスの部屋から声が聞こえてきた。
天人族の商人と、獣牙族の老人が、口論をしていた。
ゼクスが、両者の言い分を、順番に聞いていた。
感情のない声だった。でも、どちらの話も、最後まで聞いていた。
やがて、ゼクスが言った。
「商人。あなたの言い分は理解した。では、一つ聞く。この老人の言い分に、一点でも正しいところはあるか」
商人は、黙った。
「正直に答えてくれ」
しばらく沈黙があった。
「……ある」
商人が、小さく言った。
「それを、老人に伝えてくれ」
奏は、廊下を歩き続けた。
笑いをこらえながら。
ゼクスなりの、やり方があるらしかった。
リナは、水路の住居と地上を、半々で過ごすようになっていた。
老族長が地上に出るのは、長老たちの中でも珍しいことらしく、海鱗族の若者たちが驚いていた。
でも、リナは淡々と言った。
「世界が変わるなら、私も変わる。それだけだ」
奏が会いに行くと、リナはいつも水路の記録を読んでいた。
「族長、何を調べているんですか」
「龍脈の完全回復には、どれくらいかかるか、だ」
「どのくらいですか」
「早くて、十年。長ければ、五十年」
「長い」
「長い。でも、動き始めた。方向が決まった。あとは、続けるだけだ」
リナは、記録から目を上げた。
「お前は、ここに残るのか」
奏は、少し考えた。
「まだ、決めていない。でも——行くところがない気もする」
「帰れないのか? 元の世界に」
「わからない。でも——今は、戻りたいとも思っていない」
「正直だな」
「族長に嘘はつけない」
リナは、低く笑った。
「セラも、そう言っていた」
ある日の夕方、カイルと街を歩いていた。
東区画の路地を抜けると、見覚えのある場所に出た。
「ここ」
奏は足を止めた。
「最初に、タオを助けた路地だ」
「そうだな」
今は、誰もいなかった。
路地の石畳は、いつもと変わらなかった。でも、奏には、少し違って見えた。
「あの日から、どれくらい経ったんだろう」
「二ヶ月ほどか」
「二ヶ月で、こんなに変わるんだな」
「変わるのは早い。でも、続けるのが難しい」
カイルは、路地の奥を見た。
「俺の村も、変わるかな」
「バルガ村?」
「ああ。ゼノビアが変わっても、辺境の村には、まだ届いていない」
「届く。時間はかかっても、届く」
「根拠は?」
「龍脈が、届いているから。魔力が戻れば、生活が変わる。生活が変われば、人も変わる」
カイルは、少し考えてから言った。
「……お前が言うなら、信じる」
ルニが、路地の石畳の上に降り立った。
そして、くるりと一回転した。
「何してるの」
ルニは、また回転した。
「喜んでるの?」
ルニが、鳴いた。
「確かに、喜ぶ場所かもしれないな」
カイルが言った。
「ここで、最初に動いた。それがなければ、何も始まらなかった」
「タオを助けた時?」
「そうだ。お前が、あの時動かなければ——ゼノビアは、今でも同じだったかもしれない」
奏は、ルニを見た。
「ルニも、そう思う?」
ルニが、鳴いた。
今度は、長く。
まるで、長い物語を歌うような声だった。
夜、隠れ家に全員が集まった。
最後の夜だった。
カイルが、バルガ村に帰る日だった。
タオと母親も、翌日、新しい住居に移ることになっていた。東区画に、帝国が提供した部屋があった。
マリンは、地上の部屋を借りることになっていた。
ゼクスは、施設での仕事が続く。
リナは、水路と地上の間を行き来する生活を続ける。
奏は、まだ決めていなかった。
夜、全員でテーブルを囲んだ。
宿の主人が、御馳走を用意してくれていた。
約束通りだった。
テーブルの上に、料理が並んだ。温かいスープ。焼いた肉。新鮮な野菜。甘い菓子。
豪華ではなかった。でも、十分すぎるくらいだった。
全員が、席についた。
カイル、マリン、タオ、タオの母親、リナ、ゼクス。
そして、奏とルニ。
こんな顔ぶれで、食卓を囲む日が来るとは——誰も、想像していなかった。
乾杯の言葉を、誰が言うか、しばらく誰も動かなかった。
タオが、手を挙げた。
「わたしが言っていい?」
「どうぞ」
タオは、コップを持って立ち上がった。
全員が、タオを見た。
「えっと」
タオは、少し考えた。
「むずかしいことは言えないけど——みんながいてくれてよかったです。世界が続いてよかったです。以上」
マリンが、吹き出した。
カイルが、苦笑した。
「以上ってなんだ」
「だってほかに言うことない」
「それで十分だ」
カイルが言った。
「乾杯」
食事が、始まった。
賑やかだった。
タオが、マリンに質問攻めにしていた。海鱗族の歌の覚え方、水路での生活、鱗はどのくらい硬いのか。
マリンが、一つずつ答えていた。面倒そうにしながら、でも全部答えていた。
カイルとゼクスが、珍しく話していた。獣牙族の命脈と、天人族の導法の違いについて。技術的な話で、奏にはよくわからなかった。でも、二人が普通に話しているのが、不思議と嬉しかった。
リナは、タオの母親と、何か静かに話していた。二人とも、穏やかな顔をしていた。
食事が終わった後、カイルが奏に言った。
「外に出るか」
「うん」
二人で、隠れ家の外に出た。
夜の空気が、冷たかった。
星が多かった。
カイルは、空を見上げた。
「明日、帰る」
「うん」
「村のことが、気になる」
「そうだよね」
「でも」
カイルは、少し間を置いた。
「また来る」
「ゼノビアに?」
「ここには、用事ができた」
「用事?」
「お前が、いる」
奏は、カイルを見た。
カイルは、空を見たままだった。
「お前が、この街にいる限り——俺にも、用事がある。それだけだ」
奏は、しばらく言葉が出なかった。
「……ありがとう」
「また礼か」
「また言う」
「わかった」
カイルは、短く息を吐いた。
「次に来た時も、何か事件に巻き込まれていそうだな、お前は」
「そうかもしれない」
「間違いない」
二人で、笑った。
翌朝、カイルが出発した。
門の外まで、全員で見送った。
カイルは、荷物を背負って、振り返った。
「世話になった」
「こちらこそ」
「ルニ、また会おう」
ルニが、鳴いた。
カイルは、少し笑った。
「お前は相変わらずだな」
ルニは、澄ました顔をした。
カイルは、奏を見た。
「達者でいろ」
「カイルも」
「当然だ」
一歩、歩き出した。
振り返らなかった。
でも、少し歩いたところで、手を一度だけ上げた。
それが、カイルなりの別れだった。
奏は、カイルの背中が見えなくなるまで、見送った。
胸が、温かかった。
寂しくなかったわけではない。
でも、また来る、と言ってくれた。
それで、十分だった。
その日の午後、奏は古代図書館に行った。
三階の棚の前に立った。
お母さんの手紙があった場所。
今日は、手紙を探さなかった。
ただ、立った。
この場所に来るたびに、気持ちが変わっていた。
最初は、震えながら読んだ。次は、泣きながら。今日は——穏やかに、立っていた。
「お母さん」
小声で言った。
「少し、形になってきたよ」
壁は、答えなかった。
「まだ、途中だけど。法律が変わっても、心が変わるには時間がかかる。また、誰かが傷つくかもしれない」
ルニが、肩で静かにしていた。
「でも——始まった。お母さんたちが信じていたものが、ここにある」
窓から、ゼノビアの街が見えた。
広場に、人が集まっていた。
何をしているのか、ここからはわからなかった。
でも、三種族が混在して見えた。
お母さんが見たかった光景が、あそこにある。
奏は、その光景を、しばらく見ていた。
図書館を出た後、マリンが待っていた。
「呼んでないのに」
「なんとなく、ここに来る気がした」
「そういうこと、よくあるの?」
「カナリアに関しては、よくある」
奏は、笑った。
「一緒に歩く?」
「歩く」
二人で、夕暮れのゼノビアを歩いた。
マリンが、ぽつりと言った。
「ねえ、カナリアは——この先、どうするの」
「まだ、決めていない」
「元の世界には、戻れないの?」
「わからない。でも——今は、戻りたいとも思っていない、かな」
「なんで?」
奏は、少し考えた。
「あっちには、戻る場所がない気がする。でも、ここには——いていい場所ができた気がするから」
「そっか」
マリンは、前を向いたまま言った。
「ならよかった」
「よかった?」
「カナリアが、どこかに行っちゃったら——寂しいから」
奏は、マリンを見た。
マリンは、少し恥ずかしそうにしていた。
「友達が、いなくなるのは嫌だよ。普通に」
「友達」
「違う?」
「違わない」
奏は、前を向いた。
「わたしも、同じだよ」
夕暮れの光が、石畳を橙色に染めていた。
マリンが、歌い始めた。
歩きながら、小さく歌った。
龍脈の歌だった。
奏は、その歌を聞きながら、歩いた。
ルニが、肩の上で目を細めていた。
白銀の毛並みが、夕暮れの光に輝いていた。
その夜、奏は日記を書いた。
ゼノビアに来てから、ずっと書き続けていた。
今日のことを書いた。カイルが帰ったこと。マリンと歩いたこと。図書館でお母さんに話しかけたこと。
書き終えてから、最初のページを開いた。
バルガ村で目を覚ました日のことが、書いてあった。
空が、青くて、きれいだった。
名前がなかった。記憶がなかった。孤独の感触だけがあった。
奏は、そのページを読んだ。
あの日の自分を、思った。
何もわからなくて、震えていた。
でも、あの日から——カイルに出会った。ルニが孵化した。ゼノビアに来た。タオに出会った。マリンに出会った。リナに出会った。ゼクスと向き合った。お父さんとお母さんの手紙を読んだ。暴走した。精神世界に行った。三種族が揃った。龍脈が動いた。
全部が、繋がっていた。
あの日、草原で目を覚ましたことから——今日まで、全部。
奏は、日記を閉じた。
ルニを見た。
「ねえ、ルニ」
ルニが、顔を上げた。
「わたしたちの話、誰かが語り継いでくれると思う?」
ルニは、少し首を傾げた。
「銀のカナリアと、白銀のルニの話。三種族を繋いだ、記憶のない少女の話」
ルニが、鳴いた。
「語り継がれなくてもいいか、とも思う。でも——」
奏は、窓の外を見た。
「タオが、大きくなった時、自分の子供に話してくれるかもしれない。マリンが、歌にしてくれるかもしれない。リナが、水路の記録に残してくれるかもしれない」
ルニが、また鳴いた。
「そうなったら、嬉しいな」
窓の外で、誰かが歌っていた。
マリンではなかった。
知らない声だった。
でも、龍脈の歌だった。
マリンが教えた歌を、別の誰かが歌っていた。
奏は、その歌を聞きながら、目を閉じた。
胸の中が、静かだった。
波立っていなかった。
ただ、温かかった。




