エピローグ:いつかあの空の下で
季節が、変わった。
ゼノビアに来た時は、夏の終わりだった。
今は、秋の深まりが、街の色を変えていた。広場の木々が、橙色と赤に染まっていた。朝の空気が、澄んでいた。龍脈の魔力が戻ってきたせいか、今年の紅葉は、例年より鮮やかだと、宿の主人が言っていた。
奏は、その色の中を、毎日歩いた。
ある朝のことだった。
市場を歩いていると、子供の泣き声が聞こえた。
路地の方から。
足が、勝手に動いた。
角を曲がると、小さな女の子が、壁際に座って泣いていた。
六歳くらいだろうか。海鱗族だった。薄い鱗が、涙で濡れていた。
周りに、誰もいなかった。
奏は、しゃがんだ。
「大丈夫?」
女の子は、顔を上げた。
見知らぬ人間を見て、また泣きそうになった。
「迷子?」
女の子が、こくりと頷いた。
「どこから来た?」
「……水路の、入り口のところ」
「じゃあ、一緒に探そう。お母さん、そっちにいるかもしれない」
ルニが、女の子の前に降りてきた。
女の子が、目を丸くした。
「なに、これ」
「ルニ。わたしの相棒」
「さわっていい?」
「聞いてみて」
女の子が、おずおずと手を伸ばした。
ルニが、その手に頭を擦り付けた。
女の子が、小さく笑った。
「ふわふわ」
「でしょ」
涙が、止まっていた。
水路の入り口まで、三人で歩いた。
すぐに見つかった。
海鱗族の母親が、青い顔で走ってきた。
「サナ、どこに行ってたの」
「まいごになった」
「心配したよ」
母親が、女の子を抱きしめた。
それから、奏を見た。
「ありがとうございました」
「いえ。無事でよかった」
サナと呼ばれた女の子が、奏を見た。
「また会える?」
「会えるよ。この街にいるから」
「ルニにも、また会える?」
「ルニも、いる」
サナは、にこっと笑った。
ルニが、鳴いた。
母親と子供が、水路に消えていった。
奏は、その背中を見送った。
胸の中が、温かかった。
特別なことは、何もなかった。
迷子の子供を、親のところへ連れて行っただけだった。
でも、それで十分だった。
午後、奏はゼノビアの城壁の上に登った。
街全体が、見渡せる場所だった。
橙色に染まった木々。石畳の大通り。広場の井戸。遠くに、古代図書館の尖塔。
人が、動いていた。
天人族が、獣牙族が、海鱗族が、同じ街の中を歩いていた。
まだ、ぎこちない部分はある。
完全ではない。
でも、動いていた。
生きていた。
ルニが、城壁の端に立った。
翼を、大きく広げた。
白銀の羽が、秋の風に揺れた。
「飛びたいの?」
ルニが振り返った。
金色の瞳が、奏を見た。
「行っておいで」
ルニが、羽ばたいた。
白銀の体が、空に飛び出した。
城壁の上から、ゼノビアの上空へ。
秋の空に、白銀の軌跡が描かれた。
奏は、ルニを目で追いながら、城壁に腰を下ろした。
風が、髪を揺らした。
目を閉じた。
一年前——いや、この世界に来たのは、季節二つ分ほど前だ。
草原で目を覚ました日。
空が、青かった。
何も知らなかった。
名前もなかった。
孤独の感触だけがあった。
今は、違う。
名前がある。
奏でもあり、カナリアでもある。どちらも、わたしだ。
記憶がある。
あの教室の日々も、この世界での日々も、全部ある。
一人じゃない。
カイルがいる。マリンがいる。タオがいる。リナがいる。ゼクスがいる。
そして——ルニがいる。
目を開けた。
ルニが、空を飛んでいた。
白銀の羽が、太陽の光に輝いていた。
その飛び方が、バルガ村で孵化した日とは違った。
あの日は、初めて翼を広げた、不安定な飛び方だった。
今日は、違う。
のびのびと、自由に、大きく空を使って飛んでいた。
——ルニも、変わった。
わたしと一緒に、変わった。
城壁の下の道を、一人の子供が歩いていた。
獣牙族の男の子だった。
一人で、俯いて歩いていた。
奏は、その子を見た。
胸に、かすかな痛みがあった。
あの背中を、知っていた。
俯いて、一人で歩く背中を。
声を掛けようとして——止まった。
よく見ると、男の子の後ろから、別の子が走ってきた。
天人族の子だった。
「待ってよ、ラン」
男の子が振り返った。
「なんだよ」
「一緒に帰ろうよ」
男の子は、少し驚いた顔をした。
でも、やがて、頷いた。
「……わかった」
二人で、並んで歩き始めた。
奏は、その背中を見た。
胸の痛みが、温かさに変わった。
——大丈夫だ。
あの子には、呼びかけてくれる人がいる。
全部が解決したわけじゃない。
でも、あの子には、今日、一人じゃなかった日がある。
それが、明日に繋がる。
ルニが、戻ってきた。
城壁に降り立って、奏の隣に来た。
息が、少し上がっていた。
「楽しかった?」
ルニが、鳴いた。
「よかった」
奏は、空を見上げた。
秋の空は、高かった。
この世界に来た日の空より、もっと高く見えた。
気のせいかもしれない。
でも、そう感じた。
風が吹いた。
橙色の葉が、一枚、空に舞い上がった。
くるくると回りながら、遠くへ流れていった。
奏は、その葉を目で追った。
——いつかあの空の下で。
その言葉が、ふと頭に浮かんだ。
どこで聞いた言葉か、わからなかった。
でも、確かに、胸に響いた。
いつかあの空の下で——孤独に震えている誰かに、会うかもしれない。
あの教室の自分みたいな誰かに。
タオみたいな誰かに。
マリンみたいな誰かに。
透明人間みたいに扱われている誰かに。
声を上げられずにいる誰かに。
その時、奏は——声をかけられる人間でいたい。
「大丈夫」とは言えないかもしれない。
解決できないかもしれない。
でも、隣に座ることはできる。
一緒に、空を見上げることはできる。
ルニが、奏の膝に乗ってきた。
温かかった。
「ルニ」
呼ぶと、ルニが顔を上げた。
「この世界に来て——よかったよ」
ルニが、鳴いた。
「あなたに会えて、よかった」
また、鳴いた。
「カイルに会えて、タオに会えて、マリンに会えて——みんなに会えて、よかった」
ルニは、鳴かなかった。
ただ、奏の膝の上で、温かくしていた。
それが、返事だった。
夕暮れが、近づいていた。
ゼノビアの空が、橙色に染まり始めた。
遠くで、マリンの歌が聞こえてきた。
広場から、聞こえてくる。
今日は、別の声も重なっていた。
何人かが、一緒に歌っていた。
海鱗族だけではなかった。
もっと、いろいろな声が混ざっていた。
奏は、城壁から立ち上がった。
街に、降りる。
みんながいる場所へ。
「行こう、ルニ」
ルニが、翼を広げた。
肩に、乗ってきた。
白銀の温もりが、首筋に触れた。
城壁の階段を、下りた。
石畳の道を、歩いた。
歌声が、近くなった。
広場に、出た。
火が灯っていた。
人が集まっていた。
天人族が、獣牙族が、海鱗族が、同じ火を囲んでいた。
マリンが、歌っていた。
タオが、その隣で笑っていた。
リナが、静かに目を閉じていた。
ゼクスが、輪の端に立っていた。
昨日より、少しだけ、内側に。
奏は、輪の中に入った。
マリンが、気づいた。
歌いながら、手を振った。
タオが、駆け寄ってきた。
「遅い」
「城壁にいた」
「何してたの?」
「空を、見ていた」
タオは、きょとんとした顔をした。
それから、同じように空を見上げた。
「きれいだね」
「きれいだよ」
タオが、輪に戻っていった。
奏は、その場に立った。
火の温もりが、頬に当たった。
歌が、体に染み込んできた。
ルニが、肩の上で目を細めた。
白銀の毛並みが、焚き火の光に揺れた。
奏は、空を見上げた。
星が、出始めていた。
一つ、また一つ。
ゼノビアに来た日と、同じ空だった。
知っている星座は、一つもなかった。
でも、今日は——それでいいと思えた。
知らない星座でいい。
この空の下に、いていい。
マリンの歌が、続いていた。
言葉のない旋律。
でも、その音に、意味があった。
奏には、わかった。
——ここにいる。
——一人じゃない。
——大丈夫だ。
奏は、目を閉じた。
歌を、聞いた。
火の温もりを、感じた。
ルニの温もりを、感じた。
胸の中が、満ちていた。
あの教室の孤独が、消えたわけではない。
あの日々が、なかったことになるわけでもない。
でも、今夜、奏は——この場所にいた。
火の温もりの中に。
歌の旋律の中に。
大切な人たちの傍に。
目を、開けた。
星が、増えていた。
空いっぱいに、広がっていた。
ルニが、鳴いた。
白銀の声が、夜の空に響いた。
その音が、星に届くように、高く、澄んでいた。
奏は、小さく呟いた。
誰にも聞こえない声で。
でも、確かに、口にした。
「ただいま」
火が、揺れた。
歌が、続いた。
星が、輝いた。
白銀の少女は、その夜、初めて——本当の意味で、この世界に帰ってきた。
——終——
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
奏とルニの物語は、これにて完結です。
孤独だった少女が、記憶を失い、見知らぬ世界で出会いを重ね、自分自身を受け入れていく——この長い旅に、最後までお付き合いいただけたこと、心から嬉しく思います。
奏が「ただいま」と言えた瞬間まで、一緒にいてくれてありがとうございました。
彼女の物語が、あなたの心に、少しでも何かを残してくれたなら——それ以上のことは、何もありません。
またいつか、別の物語でお会いしましょう。




