新秩序:差別なき世界の始まり
龍脈が動き始めてから、三日が経った。
変化は、ゆっくりだった。
でも、確かだった。
ゼノビアの街の木々が、一斉に新芽を吹き出した。枯れかけていた広場の大木が、一夜にして葉を取り戻した。水路の水が、透き通った。魔法灯が、今まで見たことのない明るさで灯り続けた。
そして——人が、変わり始めていた。
朝の市場を歩いていた時だった。
天人族の商人が、獣牙族の老人に声をかけていた。
「これ、いくらだ」
「三枚だよ」
「そうか。一つもらう」
それだけだった。
普通の取引だった。でも、奏には普通に見えなかった。
三日前まで、あの商人は獣牙族に声を掛けなかった。声を掛けても、値段交渉ではなく、追い払う言葉だった。
カイルに目を向けると、カイルも同じものを見ていた。
「変わってる」
カイルが、小声で言った。
「うん」
「一夜で変わるわけじゃない。でも——何かが、緩んでいる」
その日の午後、ゼクスに呼ばれた。
場所は、帝国の行政施設だった。
将校服を着たゼクスが、机の前に立っていた。
でも、いつもと違う雰囲気があった。
机の上に、書類が山積みだった。
「座れ」
「何ですか?」
「報告がある」
奏は、椅子に座った。
「皇帝と、話した」
ゼクスは、書類を一枚取り上げた。
「龍脈の件、三種族での協力の件、徴収した者の解放の件——全部、報告した」
「皇帝は、何と」
「最初は、黙っていた」
ゼクスは続けた。
「長い沈黙だった。俺が今まで見た中で、一番長い沈黙だった」
「それで?」
「泣いた」
奏は、思わず聞き返した。
「皇帝が?」
「ああ」
ゼクスは、書類を置いた。
「間違いを認めるのに、百年かかった、と言った。遅すぎた、と言った。でも、今からでも遅くないなら——と言った」
奏は、その言葉を受け取った。
百年。
三種族が分断されて、百年。龍脈が枯れ続けて、百年。誰かが傷つき続けて、百年。
「皇帝は、何をするつもりですか」
「帝国の方針を、転換する」
ゼクスは、書類を一枚、奏の前に置いた。
「徴収した者の全員解放。これは、今日から実行される」
奏は、書類を見た。
「次に——種族に関わらず、同等の権利を保証する新しい法律の制定。これは、時間がかかる。でも、動き始める」
「本当に?」
「ああ」
「嘘じゃないですか」
「俺は、嘘をつかない」
奏は、ゼクスを見た。
「……知ってます」
「一つ、お前に聞きたいことがある」
ゼクスが、奏を見た。
「何ですか」
「皇帝が、お前に会いたいと言っている」
奏は、驚いた。
「わたしに?」
「お前の両親——セラとリュウのことを、皇帝は知っていた。二人が守ろうとしたものを、帝国が潰したことも、知っていた」
「それは——」
「謝罪がしたい、と言っている。お前に、直接」
奏は、しばらく黙っていた。
謝罪。
帝国の皇帝が、自分に謝罪する。
お父さんとお母さんに対して。自分に対して。
——受け取れるだろうか。
正直、わからなかった。
でも、一つだけわかることがあった。
「会います」
「いいのか」
「謝罪を受け入れるかどうかは、会ってから決める。でも、会わずに断るのは——違う気がする」
ゼクスは、頷いた。
「明日、手配する」
施設を出た後、奏はマリンと落ち合った。
マリンは、リナ族長と話してきたという。
「族長が、帝国の申し出を受ける気になっている」
「本当に?」
「うん。まだ、完全に信用したわけじゃないって言ってたけど——「試してみる価値はある」って」
奏は、胸が温かくなった。
「リナ族長が、そう言うんだったら」
「族長が「試してみる」って言うの、初めて聞いた」
マリンは、少し笑った。
「あの人が心を動かすのに、百年かかることもある。カナリアは三週間でやった」
「三週間で、百年分を?」
「そういうこと」
その夜、タオを連れて、タオの母親に会いに行った。
タオの母親は、宿のベッドで回復していた。顔色が、最初に会った時よりずっとよかった。
「カナリアさん」
奏が入ると、タオの母親が微笑んだ。
「よかった。会いたかった」
「わたしも。具合は?」
「だいぶ、よくなった。歩けるようになった」
「よかった」
奏は、母親の横に座った。
「お礼が言いたかった」
「わたしこそ、お礼が——」
「違う、聞いてください」
母親は、真っ直ぐに奏を見た。
「施設から出た後、あなたが「信じてみます」と言ってくれた。あの言葉が——わたしの背中を押してくれた」
「私が?」
「あなたがゼクスを信じる気になってくれたから、わたしも前に進めた。だから、ありがとう」
母親は、目を潤ませた。
「そんな風に思ってくれてたなんて」
「本当のことですから」
タオが、母親に寄り添っていた。
その光景が、温かかった。
奏は、胸の奥で、静かに何かが満ちていくのを感じた。
——これを、守りたかった。
タオの笑顔。母親の温もり。二人が、同じ場所にいること。
この光景のために、動いてきた。
翌日、皇帝に会いに行った。
ゼクスが、案内してくれた。
帝国の施設の奥、白い廊下を歩いた。
皇帝の部屋は、思ったより質素だった。
豪華な装飾はなかった。大きな窓があって、ゼノビアの街が見渡せた。
皇帝は、窓の前に立っていた。
振り返った顔を見て、奏は少し驚いた。
老人だった。
背が低く、皺だらけの顔をしていた。でも、目が鋭かった。生きてきた時間の重さが、その目に宿っていた。
「来てくれたか」
皇帝の声は、低かった。でも、威圧感はなかった。
「座りなさい」
奏は、椅子に座った。
皇帝も、向かいに座った。
しばらく、互いに黙っていた。
先に口を開いたのは、皇帝だった。
「セラとリュウの娘か」
「はい」
「二人のことを、よく知っていた」
皇帝は、窓の外を見た。
「セラは、三種族の共存を信じていた。その証拠を、帝国に提出しようとしていた。帝国の方針を変えさせるために」
「……はい」
「俺は、それを潰した」
静かな一言だった。
「帝国の支配体制が揺らぐと思った。弱みを見せたくなかった。だから——二人が証拠を持って現れた時、消した」
奏は、その言葉を受け取った。
消した。
お父さんとお母さんを、この人が。
怒りが、来るかと思った。
でも、来なかった。
ただ、重かった。
胸が、重かった。
「なぜ、今になって」
奏は、聞いた。
「謝罪をしようとするんですか」
「遅すぎる、とわかっている」
皇帝は、奏を見た。
「でも、ゼクスから報告を聞いて——お前が、セラたちと同じことを、もっと大きな規模でやり遂げたと知った。その娘に、何も言わずにいることは、できなかった」
「謝罪を受け入れるかどうかは、わかりません」
「わかっている」
「怒りがないとも、言えない」
「わかっている」
「でも——」
奏は、少し考えた。
「お父さんとお母さんが、何を守ろうとしていたかは、わかっています。その意志が、続いているなら——今から、それを形にしてほしい」
皇帝は、しばらく奏を見ていた。
やがて、頷いた。
「それが、お前の答えか」
「今の、わたしの答えです」
「……セラに、似ているな」
「言われたことがあります」
「リュウにも、似ている。頑固なところが」
奏は、少し笑った。
「それは、初めて言われました」
皇帝の部屋を出た後、廊下でゼクスが待っていた。
「どうだった」
「難しかった」
「そうか」
「でも——言いたいことは、言えた」
ゼクスは、頷いた。
「皇帝は、本気で動く気でいる。法律の制定も、徴収した者の解放も、時間はかかるが、必ず実行される」
「信じます」
「根拠は?」
「あなたが、そう言うから」
ゼクスは、少し目を細めた。
「……根拠として、弱い」
「でも、わたしにとっては十分です」
その夕方、ゼノビアの広場に、人が集まり始めた。
誰かが呼んだわけではなかった。
でも、自然と集まった。
天人族が、獣牙族が、海鱗族が、同じ広場に立っていた。
誰かが何かを話しているわけではなかった。
でも、その場に、昨日まではなかった空気があった。
緊張ではなかった。
探っているような、でも決して嫌ではない、不思議な空気。
隣に、初めて立つ人間を感じている空気。
マリンが、広場の端で歌い始めた。
昨日の夜、水路の中で歌ったのと同じ歌だった。
でも、今日は地上で歌っていた。
声が、広場に広がった。
人々が、立ち止まった。
歌を聞いていた。
天人族の子供が、マリンに近づいた。
「きれいな歌だね」
マリンは、少し驚いた顔をした。
でも、笑った。
「ありがとう」
「なんていう歌?」
「名前はない。でも——龍脈の歌、って呼んでる」
「りゅうみゃく?」
「世界の力が、流れる道のこと」
子供は、きょとんとした顔をした。
「よくわからないけど、きれい」
「わからなくても、きれいなら十分だよ」
奏は、その光景を遠くから見ていた。
カイルが、横に来た。
「変わったな」
「うん」
「一週間前には、想像できなかった」
「そうだね」
カイルは、広場を見た。
「全部が解決したわけじゃない。法律が変わっても、心がすぐ変わるわけじゃない。また揉め事もある」
「わかってる」
「それでも」
「それでも——始まった、と思う」
奏は言った。
「百年間、止まっていたものが——動き始めた」
タオが、駆けてきた。
「カナリアさん、見て見て」
「何?」
「あそこ」
タオが指した方を見た。
獣牙族の少年と、天人族の少女が、広場の隅で何かを話していた。
笑っていた。
二人とも、笑っていた。
「友達になってる」
タオが言った。
「昨日まで、挨拶もしなかったのに」
「きっかけは何だったの?」
「ルニ」
タオが答えた。
「ルニが、二人の間を飛んだら、二人が同時にルニを見て——それで、話しかけたって」
奏は、ルニを見た。
ルニは、澄ました顔をしていた。
「……やってくれてたの、あなた」
ルニが、短く鳴いた。
「どういたしまして、って言ってる」
カイルが言った。
「ルニの言葉、わかるの?」
「少しな」
奏は、笑った。
「カイルとルニ、仲良いね」
「仲良くない」
「そう見えるけど」
「見えない」
「見える」
カイルは、またそっぽを向いた。
その横顔が、穏やかだった。
夕暮れが、ゼノビアを橙色に染めた。
広場に、火が灯り始めた。
誰かが持ってきた楽器が、音を奏で始めた。
マリンの歌に、別の歌が重なった。
踊る人が出てきた。子供が走り回った。笑い声が、広場に満ちた。
奏は、その光景の中に立っていた。
三種族が、同じ場所で笑っている。
それだけだった。
派手なことは、何もなかった。
でも、それが——すごかった。
リナが、奏の隣に来た。
老族長は、広場を見ていた。
「信じていなかった」
静かに言った。
「何をですか」
「これが、見られる日が来ることを」
奏は、リナを見た。
「一生、来ないと思っていた。死ぬ前に、これが見られるとは」
「族長……」
「セラが言っていた。いつか必ず来ると。信じてくれ、と」
リナの目が、遠くなった。
「信じられなかった。あの時の俺には、信じる力がなかった」
「でも、今日、来た」
「ああ」
リナは、静かに頷いた。
「セラの娘が、連れてきた」
奏は、広場を見た。
お父さんとお母さんが、守ろうとしたもの。
命をかけて、信じ続けたもの。
今日、ここにある。
「お父さん、お母さん」
心の中で言った。
「見えてますか」
答えはなかった。
でも、夕暮れの風が、頬を撫でた。
温かかった。
——見えてる。
そう感じた。
夜になっても、広場の火は消えなかった。
人々は、帰らなかった。
奏も、その場にいた。
カイルが隣にいた。マリンが歌っていた。タオが走り回っていた。リナが、静かに火を見ていた。
ゼクスが、広場の端に立っていた。
輪の少し外。でも、昨夜より近かった。
奏は、ゼクスの隣に行った。
「今日は、輪の中に入りませんか」
「俺には、早い」
「昨日より近いですよ」
「……気づいていたか」
「気づいてた」
ゼクスは、広場を見た。
「弟が、好きそうな光景だ」
「そうですね」
「あいつが、ここにいたら——どんな顔をしただろう」
「笑ってたんじゃないですか」
「そうだな」
ゼクスは、静かに頷いた。
マリンが、奏に向かって手を振った。
「カナリア、こっち来てよ」
奏は、ゼクスを見た。
「行きましょう」
「俺は——」
「一緒に、行きましょう」
奏は、手を差し出した。
ゼクスは、その手を見た。
しばらく、動かなかった。
やがて、ゆっくりと、立ち上がった。
手は、取らなかった。
でも、奏の隣を歩いた。
広場の輪の中へ、一歩踏み込んだ。
マリンが、ゼクスを見て、少し目を丸くした。
でも、すぐに歌に戻った。
カイルが、ゼクスを見た。
昨夜、焚き火の隣に座った時と同じ目をした。
何も言わずに、少し場所を空けた。
ゼクスは、その場所に立った。
広場に、音が満ちていた。
歌と、楽器と、笑い声と、火の音。
三種族の音が、混ざっていた。
それは、音楽だった。
誰も指揮していない。でも、ちゃんと音楽だった。
奏は、その音の中に立っていた。
ルニが、肩で目を閉じていた。
白銀の毛並みが、焚き火の光に揺れていた。
——これが。
奏は思った。
龍脈が流れる世界。三種族が共存する世界。誰かが誰かを踏みにじらない世界。
まだ、完全ではない。
明日も、揉め事があるかもしれない。法律が変わっても、心が変わるには時間がかかる。また、誰かが傷つくかもしれない。
でも。
——始まった。
その一点だけは、確かだった。
奏は、夜空を見上げた。
星が、多かった。
ゼノビアに来た日と、同じ空だった。
でも、今夜は——その星の一つ一つが、ちゃんと見えた。




