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虚空のレクイエム ―絶望の魔法世界で、少女は機械の記憶を歌う―  作者: 畠山ゆな@姉弟で小説共作✏️
夜明けのレクイエム

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22/25

さよなら、私のトラウマ




 龍脈が、動き始めた。


 その影響は、ゼノビアの街に、じわじわと現れ始めた。


 枯れかけていた広場の木が、一夜にして若葉を吹き出した。水路の水が、透明度を取り戻した。街全体の魔法灯が、今まで見たことのない明るさで灯り始めた。


 人々が、街に出てきた。


 天人族が、獣牙族が、海鱗族が、同じ広場に立って、同じ空を見上げた。


 何かが、変わり始めていた。




 カナリアは、一人だった。


 全員が眠りに落ちた後、一人で隠れ家を出た。


 儀式の疲れが、全身に残っていた。腕が重かった。足が鉛のようだった。


 でも、眠れなかった。


 眠る前に、やらなければならないことがある気がした。


 どこへ行くか、決めていなかった。


 足が、勝手に動いた。




 辿り着いたのは、古代図書館だった。


 夜明けの光の中、白い建物が静かに建っていた。扉は、開いていた。


 中に入った。


 誰もいなかった。


 螺旋の回廊を、一人で上がった。


 三階の奥、歴史資料の棚。


 お母さんの手紙が、あった場所。


 その前に立った。




 棚を、見た。


 手紙は、もうなかった。


 あの日、借りていた冊子は、リナに返した。今は棚に戻っているはずだが、薄い冊子は他の本の陰に隠れて、見えなかった。


 探す気にもなれなかった。


 ただ、この場所に立ちたかった。


 お母さんが、手紙を書いた場所に。




 目を閉じた。


 昨日の石室を、思い出した。


 三種族の力が、ルニを通して繋がった瞬間。詞が、溢れた瞬間。亀裂が、閉じた瞬間。


 その瞬間に感じたことを、整理しようとした。


 でも、うまくできなかった。


 言葉にならなかった。


 ただ、胸の中に、何かが残っていた。




 目を開けた。


 窓の外を見た。


 ゼノビアの街が、朝の光の中で輝いていた。


 白い建物。橙色の空。遠くに、山並み。


 ——きれい。


 素直に思った。


 この世界に来た日、草原で目が覚めた時、空が青くてきれいだと思った。


 あの日から、どれだけ変わっただろう。




 胸の奥で、何かが動いた。


 記憶の底から、何かが浮かび上がってきた。


 いつもと違った。


 断片ではなかった。もっと、まとまっていた。




 教室だった。


 知らない教室。でも、確かに知っている場所。


 窓際の席。窓の外には、桜の木。


 自分が、その席に座っていた。


 周りに、人がいた。同じ制服を着た、同じ年頃の人たち。


 でも、誰も、こちらを見ていなかった。


 話しかけても、聞こえないふりをされた。


 隣の席の人が、椅子を遠ざけた。


 上靴に、画鋲が入っていた。


 黒板に、名前が書かれた。


 笑い声が、聞こえた。




 カナリアは、目を閉じた。


 呼吸が、乱れかけた。


 ——落ち着いて。


 深呼吸をした。


 これは、記憶だ。


 過去のことだ。


 今、ここに、その人たちはいない。




 でも、続きが見えた。


 廊下に、一人でいた。


 誰かが通り過ぎた。こちらを見た。でも、すぐに目を逸らした。


 声を掛けようとした。相手は足を速めた。


 一人で、お弁当を食べた。


 一人で、帰った。


 一人で、部屋に戻った。


 誰にも、言えなかった。


 言ったら、もっと酷くなると思っていた。


 言ったら、大げさだと思われると思っていた。


 言ったら、余計に孤独になると思っていた。




 カナリアは、棚の前にしゃがみ込んだ。


 震えていた。手が。声が。全身が。


 記憶が戻ってきた。断片じゃなくて、全部が。


 名前は、奏だった。


 高校二年生だった。


 いじめを受けていた。


 誰にも言えなかった。


 ある日、意識を失って——ここに来た。




 奏は、床に手をついた。


 涙が、こぼれた。


 声を殺して泣いた。


 誰もいない図書館の、誰も来ない棚の前で、一人で泣いた。


 ルニが、膝に来た。


 温かかった。




 どれくらい泣いたかわからない。


 泣きながら、考えていた。


 あの教室の、あの日々のことを。


 孤独だった。本当に、孤独だった。


 声を上げたかった。でも、上げられなかった。


 助けてほしかった。でも、言えなかった。


 ただ、毎日、透明人間みたいに存在していた。




 でも。


 奏は、頭を上げた。


 ——あの時の自分は、折れなかった。


 折れていたら、ここにいない。


 毎日が苦しかった。消えてしまいたいと思った日もあった。


 でも、折れなかった。


 ——それは、すごいことだ。


 お父さんの声が、聞こえた気がした。


 お前は折れなかった。それが、何より嬉しい。




 奏は、床に座ったまま、記憶を見つめた。


 逃げなかった。


 あの日々から目を逸らさなかった。


 ゼクスに「お前のせいだ」と言われた時、揺れた。あの声が聞こえた。でも、それはあの教室の記憶だったんだ、と今わかった。


 誰かが「お前のせいだ」と言った。誰かが「大げさだ」と言った。誰かが「迷惑だ」と言った。


 あの声たちが、ゼクスの言葉と重なって、奏を揺さぶっていた。


 ——でも、あの声は、正しくなかった。


 間違っていた。


 あの人たちが、間違っていた。




 奏は、立ち上がった。


 膝が震えていた。でも、立てた。


 窓の外を、見た。


 ゼノビアの街が、見えた。


 あの街の路地で、タオが泣いていた。マリンが囲まれていた。海鱗族の母子が追い出されそうになっていた。


 その時、奏は動いた。


 なぜ動けたのか、今わかった。


 あの子たちの痛みが、わかったから。


 孤独が、わかったから。


 透明人間みたいに扱われることが、わかったから。


 ——あの日々が、力になっていた。




 涙が、また出た。


 今度は、悲しみではなかった。


 悲しみと、安堵と、感謝が、混ざった涙だった。


 あの孤独な日々を、感謝する気にはなれなかった。


 なれなかった。


 でも——あの日々があったから、タオの顔を見た瞬間、胸が痛かった。


 あの日々があったから、マリンの「慣れたくない」という言葉が、刺さった。


 あの日々があったから、ゼクスの「感情は弱さだ」という言葉に、反論できた。


 痛みを、知っていたから。




「ねえ、ルニ」


 奏は、ルニを見た。


「わたしの名前、奏っていうんだ」


 ルニが、目を細めた。


「かなで、って読む。音を奏でる、の奏」


 ルニが、鳴いた。


「カナリア、って呼ばれてたけど——奏でもある。どっちも、わたしだ」


 ルニは、また鳴いた。


 今度は、少し長く。


 まるで「どちらも好きだ」と言っているような声だった。




 奏は、棚に向かった。


 お母さんの手紙があった場所に、手を触れた。


「お母さん」


 声に出した。


「記憶が、戻ってきた。辛かったよ。本当に、辛かった」


 壁は、答えなかった。


 でも、続けた。


「でも、折れなかった。ここまで来れた。今日、龍脈を動かせた」


 声が、震えた。


「報告できた。それだけで——十分だ」




 窓から、光が差し込んでいた。


 朝の光が、棚に並ぶ本の背表紙を照らしていた。


 奏は、その光を見た。


 胸の奥に、あの孤独な日々が、まだあった。


 消えていなかった。


 消えないだろう、と思った。


 でも、前と違った。


 あの日々が、ただ重いだけじゃなかった。


 重さはある。でも、その重さが——今の自分を作っていた。


 ——さよならは、言えない。


 奏は、思った。


 あの日々に、さよならは言えない。消えてほしいとも、思えない。


 でも——


「もう、怖くない」


 声に出した。


「あなたたちの声が、怖くない。お前のせいだ、って言われても——惑わされない」


 壁は、答えなかった。


 でも、奏の中で、何かが変わった。




 ルニが、翼を広げた。


 白銀の羽が、朝の光に輝いた。


 その瞳が、金色だった。


 奏の目を、真っ直ぐに見ていた。


「ありがとう」


 奏は言った。


「ずっと、一緒にいてくれて」


「暗い時も、怖い時も、暴走しかけた時も——ずっと、ここにいてくれた」


 ルニが、奏の頬に擦り寄った。


「あなたが、いたから——ここまで来れた」




 図書館を出た。


 朝の空気が、冷たかった。


 でも、気持ちよかった。


 ゼノビアの街が、朝の光の中で動き始めていた。


 市場の声が、聞こえてきた。子供の笑い声が、聞こえた。


 奏は、その音を聞きながら、歩いた。


 足が、軽かった。


 さっきより、ずっと軽かった。




 橋の上で、足を止めた。


 川が流れていた。


 水が、透明だった。


 龍脈の魔力が、水にも戻ってきているのかもしれない。


 水面に、自分の顔が映った。


 見た。


 記憶の中の自分の顔と、比べた。


 同じ顔だった。当たり前だけど。


 でも、目が違った。


 あの頃の目は、どこか遠かった。焦点が、合っていなかった。


 今の目は、ここを見ていた。


 この川を。この空を。この朝を。




「奏」


 後ろから、声がした。


 振り返ると、カイルがいた。


 眠そうな目をしていた。髪が、寝癖でぼさぼさだった。


「どこ行ったかと思った。目が覚めたら、いなかったから」


「ごめん。眠れなかった」


「何かあったか」


「記憶が、戻ってきた」


 カイルの目が、変わった。


「全部?」


「全部」


 カイルは、少し考えてから、川の横に並んで立った。


「そうか」


「うん」


「辛いか」


「辛い。でも——大丈夫」


 カイルは、川を見た。


「名前は」


「奏。かなで」


「奏か」


 カイルは、その名前を一度、口の中で転がした。


「カナリアでもある」


「うん。どっちも、わたし」


「そうだな」


 カイルは、頷いた。


「じゃあ、俺はカナリアと呼ぶ」


「なんで?」


「この世界で出会った名前だから」




 奏は、カイルを見た。


 真っ直ぐな目だった。


 この人は、ずっとそうだった。


 バルガ村で目を覚ました時から、ゼノビアで何度もひっくり返りそうになった時から、石室で背中を支えてくれた時まで、ずっとそうだった。


「ありがとう」


「また礼か」


「また言う」


「……わかった」


 カイルは、川を見た。


「俺も、礼を言う」


「え?」


「お前と旅をして——俺も、変わったと思う」


 奏は、カイルを見た。


「どう変わったの?」


「うまく言えない」


 カイルは、少し考えた。


「ただ、前より——ここにいていい気がする」


「ここに?」


「この世界に、という意味だ。お前が、この世界を好きだと思ってくれるから——俺も、そう思える」




 奏は、川を見た。


 水が、流れていた。


 止まらずに、流れていた。


 過去も、流れていくのかもしれない。


 消えるんじゃなくて、流れていく。


 あの日々も、流れていく。


 でも、流れながら——今の自分を作り続ける。


 ——それでいい。


 奏は思った。




 ルニが、二人の間を飛んだ。


 カイルの頭に、一瞬だけ着地した。


 カイルが、ルニを払おうとした。ルニが、すいっと避けた。


「やめろ、朝から」


 ルニは、すました顔をした。


 奏は、笑った。


 声を出して、笑った。


 カイルが、奏を見た。


「なんで笑う」


「カイルとルニのやりとりが、好きだから」


「……俺は好きじゃない」


「嘘だ」


「嘘じゃない」


「好きでしょ」


 カイルは、答えなかった。


 でも、口元が、かすかに緩んでいた。




 橋の上に、朝の光が降り注いでいた。


 川が、光を反射して、きらきらしていた。


 奏は、その光の中に立っていた。


 胸の中に、あの孤独な日々がある。


 消えない。


 でも、今は——一人じゃない。


 カイルがいる。ルニがいる。マリンがいる。タオがいる。リナがいる。ゼクスがいる。


 この世界に来て、出会った人たちがいる。


 ——わたしは、ここにいていい。


 その感覚が、胸の底から、静かに満ちてきた。


 初めて、本当の意味で、そう思えた。




「戻ろう」


 カイルが言った。


「みんな、起きてくる」


「うん」


「朝飯、食べるぞ」


「何がある?」


「宿の主人が、昨日から張り切っていた。儀式が終わったら御馳走すると言っていた」


「楽しみ」


 奏は、川に向かって言った。


 声には出さなかった。


 心の中で、だけ。


 ——さよなら、じゃない。


 ——でも、もう怖くない。


 ——だから、ありがとう。




 二人で、橋を渡った。


 ルニが、奏の肩に乗った。


 朝のゼノビアが、目の前に広がっていた。


 白い建物。澄んだ空気。遠くで、誰かが歌っていた。


 海鱗族の歌だった。


 昨日まで、地下水路の中でしか聞こえなかった歌が、地上に溢れていた。


 奏は、その歌を聞きながら、歩いた。


 足取りが、軽かった。


 体が、軽かった。


 ——今日から、また始まる。


 その感覚が、朝の光の中で、静かに輝いていた。


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