さよなら、私のトラウマ
龍脈が、動き始めた。
その影響は、ゼノビアの街に、じわじわと現れ始めた。
枯れかけていた広場の木が、一夜にして若葉を吹き出した。水路の水が、透明度を取り戻した。街全体の魔法灯が、今まで見たことのない明るさで灯り始めた。
人々が、街に出てきた。
天人族が、獣牙族が、海鱗族が、同じ広場に立って、同じ空を見上げた。
何かが、変わり始めていた。
カナリアは、一人だった。
全員が眠りに落ちた後、一人で隠れ家を出た。
儀式の疲れが、全身に残っていた。腕が重かった。足が鉛のようだった。
でも、眠れなかった。
眠る前に、やらなければならないことがある気がした。
どこへ行くか、決めていなかった。
足が、勝手に動いた。
辿り着いたのは、古代図書館だった。
夜明けの光の中、白い建物が静かに建っていた。扉は、開いていた。
中に入った。
誰もいなかった。
螺旋の回廊を、一人で上がった。
三階の奥、歴史資料の棚。
お母さんの手紙が、あった場所。
その前に立った。
棚を、見た。
手紙は、もうなかった。
あの日、借りていた冊子は、リナに返した。今は棚に戻っているはずだが、薄い冊子は他の本の陰に隠れて、見えなかった。
探す気にもなれなかった。
ただ、この場所に立ちたかった。
お母さんが、手紙を書いた場所に。
目を閉じた。
昨日の石室を、思い出した。
三種族の力が、ルニを通して繋がった瞬間。詞が、溢れた瞬間。亀裂が、閉じた瞬間。
その瞬間に感じたことを、整理しようとした。
でも、うまくできなかった。
言葉にならなかった。
ただ、胸の中に、何かが残っていた。
目を開けた。
窓の外を見た。
ゼノビアの街が、朝の光の中で輝いていた。
白い建物。橙色の空。遠くに、山並み。
——きれい。
素直に思った。
この世界に来た日、草原で目が覚めた時、空が青くてきれいだと思った。
あの日から、どれだけ変わっただろう。
胸の奥で、何かが動いた。
記憶の底から、何かが浮かび上がってきた。
いつもと違った。
断片ではなかった。もっと、まとまっていた。
教室だった。
知らない教室。でも、確かに知っている場所。
窓際の席。窓の外には、桜の木。
自分が、その席に座っていた。
周りに、人がいた。同じ制服を着た、同じ年頃の人たち。
でも、誰も、こちらを見ていなかった。
話しかけても、聞こえないふりをされた。
隣の席の人が、椅子を遠ざけた。
上靴に、画鋲が入っていた。
黒板に、名前が書かれた。
笑い声が、聞こえた。
カナリアは、目を閉じた。
呼吸が、乱れかけた。
——落ち着いて。
深呼吸をした。
これは、記憶だ。
過去のことだ。
今、ここに、その人たちはいない。
でも、続きが見えた。
廊下に、一人でいた。
誰かが通り過ぎた。こちらを見た。でも、すぐに目を逸らした。
声を掛けようとした。相手は足を速めた。
一人で、お弁当を食べた。
一人で、帰った。
一人で、部屋に戻った。
誰にも、言えなかった。
言ったら、もっと酷くなると思っていた。
言ったら、大げさだと思われると思っていた。
言ったら、余計に孤独になると思っていた。
カナリアは、棚の前にしゃがみ込んだ。
震えていた。手が。声が。全身が。
記憶が戻ってきた。断片じゃなくて、全部が。
名前は、奏だった。
高校二年生だった。
いじめを受けていた。
誰にも言えなかった。
ある日、意識を失って——ここに来た。
奏は、床に手をついた。
涙が、こぼれた。
声を殺して泣いた。
誰もいない図書館の、誰も来ない棚の前で、一人で泣いた。
ルニが、膝に来た。
温かかった。
どれくらい泣いたかわからない。
泣きながら、考えていた。
あの教室の、あの日々のことを。
孤独だった。本当に、孤独だった。
声を上げたかった。でも、上げられなかった。
助けてほしかった。でも、言えなかった。
ただ、毎日、透明人間みたいに存在していた。
でも。
奏は、頭を上げた。
——あの時の自分は、折れなかった。
折れていたら、ここにいない。
毎日が苦しかった。消えてしまいたいと思った日もあった。
でも、折れなかった。
——それは、すごいことだ。
お父さんの声が、聞こえた気がした。
お前は折れなかった。それが、何より嬉しい。
奏は、床に座ったまま、記憶を見つめた。
逃げなかった。
あの日々から目を逸らさなかった。
ゼクスに「お前のせいだ」と言われた時、揺れた。あの声が聞こえた。でも、それはあの教室の記憶だったんだ、と今わかった。
誰かが「お前のせいだ」と言った。誰かが「大げさだ」と言った。誰かが「迷惑だ」と言った。
あの声たちが、ゼクスの言葉と重なって、奏を揺さぶっていた。
——でも、あの声は、正しくなかった。
間違っていた。
あの人たちが、間違っていた。
奏は、立ち上がった。
膝が震えていた。でも、立てた。
窓の外を、見た。
ゼノビアの街が、見えた。
あの街の路地で、タオが泣いていた。マリンが囲まれていた。海鱗族の母子が追い出されそうになっていた。
その時、奏は動いた。
なぜ動けたのか、今わかった。
あの子たちの痛みが、わかったから。
孤独が、わかったから。
透明人間みたいに扱われることが、わかったから。
——あの日々が、力になっていた。
涙が、また出た。
今度は、悲しみではなかった。
悲しみと、安堵と、感謝が、混ざった涙だった。
あの孤独な日々を、感謝する気にはなれなかった。
なれなかった。
でも——あの日々があったから、タオの顔を見た瞬間、胸が痛かった。
あの日々があったから、マリンの「慣れたくない」という言葉が、刺さった。
あの日々があったから、ゼクスの「感情は弱さだ」という言葉に、反論できた。
痛みを、知っていたから。
「ねえ、ルニ」
奏は、ルニを見た。
「わたしの名前、奏っていうんだ」
ルニが、目を細めた。
「かなで、って読む。音を奏でる、の奏」
ルニが、鳴いた。
「カナリア、って呼ばれてたけど——奏でもある。どっちも、わたしだ」
ルニは、また鳴いた。
今度は、少し長く。
まるで「どちらも好きだ」と言っているような声だった。
奏は、棚に向かった。
お母さんの手紙があった場所に、手を触れた。
「お母さん」
声に出した。
「記憶が、戻ってきた。辛かったよ。本当に、辛かった」
壁は、答えなかった。
でも、続けた。
「でも、折れなかった。ここまで来れた。今日、龍脈を動かせた」
声が、震えた。
「報告できた。それだけで——十分だ」
窓から、光が差し込んでいた。
朝の光が、棚に並ぶ本の背表紙を照らしていた。
奏は、その光を見た。
胸の奥に、あの孤独な日々が、まだあった。
消えていなかった。
消えないだろう、と思った。
でも、前と違った。
あの日々が、ただ重いだけじゃなかった。
重さはある。でも、その重さが——今の自分を作っていた。
——さよならは、言えない。
奏は、思った。
あの日々に、さよならは言えない。消えてほしいとも、思えない。
でも——
「もう、怖くない」
声に出した。
「あなたたちの声が、怖くない。お前のせいだ、って言われても——惑わされない」
壁は、答えなかった。
でも、奏の中で、何かが変わった。
ルニが、翼を広げた。
白銀の羽が、朝の光に輝いた。
その瞳が、金色だった。
奏の目を、真っ直ぐに見ていた。
「ありがとう」
奏は言った。
「ずっと、一緒にいてくれて」
「暗い時も、怖い時も、暴走しかけた時も——ずっと、ここにいてくれた」
ルニが、奏の頬に擦り寄った。
「あなたが、いたから——ここまで来れた」
図書館を出た。
朝の空気が、冷たかった。
でも、気持ちよかった。
ゼノビアの街が、朝の光の中で動き始めていた。
市場の声が、聞こえてきた。子供の笑い声が、聞こえた。
奏は、その音を聞きながら、歩いた。
足が、軽かった。
さっきより、ずっと軽かった。
橋の上で、足を止めた。
川が流れていた。
水が、透明だった。
龍脈の魔力が、水にも戻ってきているのかもしれない。
水面に、自分の顔が映った。
見た。
記憶の中の自分の顔と、比べた。
同じ顔だった。当たり前だけど。
でも、目が違った。
あの頃の目は、どこか遠かった。焦点が、合っていなかった。
今の目は、ここを見ていた。
この川を。この空を。この朝を。
「奏」
後ろから、声がした。
振り返ると、カイルがいた。
眠そうな目をしていた。髪が、寝癖でぼさぼさだった。
「どこ行ったかと思った。目が覚めたら、いなかったから」
「ごめん。眠れなかった」
「何かあったか」
「記憶が、戻ってきた」
カイルの目が、変わった。
「全部?」
「全部」
カイルは、少し考えてから、川の横に並んで立った。
「そうか」
「うん」
「辛いか」
「辛い。でも——大丈夫」
カイルは、川を見た。
「名前は」
「奏。かなで」
「奏か」
カイルは、その名前を一度、口の中で転がした。
「カナリアでもある」
「うん。どっちも、わたし」
「そうだな」
カイルは、頷いた。
「じゃあ、俺はカナリアと呼ぶ」
「なんで?」
「この世界で出会った名前だから」
奏は、カイルを見た。
真っ直ぐな目だった。
この人は、ずっとそうだった。
バルガ村で目を覚ました時から、ゼノビアで何度もひっくり返りそうになった時から、石室で背中を支えてくれた時まで、ずっとそうだった。
「ありがとう」
「また礼か」
「また言う」
「……わかった」
カイルは、川を見た。
「俺も、礼を言う」
「え?」
「お前と旅をして——俺も、変わったと思う」
奏は、カイルを見た。
「どう変わったの?」
「うまく言えない」
カイルは、少し考えた。
「ただ、前より——ここにいていい気がする」
「ここに?」
「この世界に、という意味だ。お前が、この世界を好きだと思ってくれるから——俺も、そう思える」
奏は、川を見た。
水が、流れていた。
止まらずに、流れていた。
過去も、流れていくのかもしれない。
消えるんじゃなくて、流れていく。
あの日々も、流れていく。
でも、流れながら——今の自分を作り続ける。
——それでいい。
奏は思った。
ルニが、二人の間を飛んだ。
カイルの頭に、一瞬だけ着地した。
カイルが、ルニを払おうとした。ルニが、すいっと避けた。
「やめろ、朝から」
ルニは、すました顔をした。
奏は、笑った。
声を出して、笑った。
カイルが、奏を見た。
「なんで笑う」
「カイルとルニのやりとりが、好きだから」
「……俺は好きじゃない」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「好きでしょ」
カイルは、答えなかった。
でも、口元が、かすかに緩んでいた。
橋の上に、朝の光が降り注いでいた。
川が、光を反射して、きらきらしていた。
奏は、その光の中に立っていた。
胸の中に、あの孤独な日々がある。
消えない。
でも、今は——一人じゃない。
カイルがいる。ルニがいる。マリンがいる。タオがいる。リナがいる。ゼクスがいる。
この世界に来て、出会った人たちがいる。
——わたしは、ここにいていい。
その感覚が、胸の底から、静かに満ちてきた。
初めて、本当の意味で、そう思えた。
「戻ろう」
カイルが言った。
「みんな、起きてくる」
「うん」
「朝飯、食べるぞ」
「何がある?」
「宿の主人が、昨日から張り切っていた。儀式が終わったら御馳走すると言っていた」
「楽しみ」
奏は、川に向かって言った。
声には出さなかった。
心の中で、だけ。
——さよなら、じゃない。
——でも、もう怖くない。
——だから、ありがとう。
二人で、橋を渡った。
ルニが、奏の肩に乗った。
朝のゼノビアが、目の前に広がっていた。
白い建物。澄んだ空気。遠くで、誰かが歌っていた。
海鱗族の歌だった。
昨日まで、地下水路の中でしか聞こえなかった歌が、地上に溢れていた。
奏は、その歌を聞きながら、歩いた。
足取りが、軽かった。
体が、軽かった。
——今日から、また始まる。
その感覚が、朝の光の中で、静かに輝いていた。




