彼女の頭の中にある寓話 7
もうどれほど昔の事なのか忘れてしまったある夏の日、明らかに手と足だけは大きい、酷く痩せた鬼に連れられる樵が巨木の前に現れました。案内役の鬼は一本の古木(それが誰だったのかは今でも分からない)の「愛」に導かれたので、エサを求める獣ですら寄り付かないほどの森のもっとも深い領域まで一度も迷わずに来ることが出来たのでした。
通常行き来できる森とは一線を違える、格の違った木々が生い茂る世界の湿気は砂のように重く感じられます。ここでは何度目かの八千代がまた始まっているのかもしれない。一帯に足を踏み入れたとき鬼にはそう思えてくるのでした。
遥か頭上で重なる、生き死にを越えた枝葉の隙間からは、鍵盤にはない新しい音が生まれてきそうな筋状の光が届くのでした。周囲の静寂はそんな筋状の光よりもよほど濃密で、ともすれば鼓膜に軽い傷がつくほどです。カーペットを知らない鬼と樵の足元には色つやのいい深い苔が生えていて、星の誕生の秘密を記憶しているそこら中の岩に張り付き覆っていました。傍によって見ても、実際に手で触ってさえゴロっと盛り上がっている箇所は柔らかいのでした・・・・・・
「このバカでかいのが一本あれば、お前らの神さんを住まわす杜には十分なはずだ。くれてやるからもう他の巨木には手を出すな。それと俺たち鬼にも決して手を出すな。お互いうまくやっていこうや、いいな?」ようやく足を止めた鬼は微笑みました。
「おいおい、とてもじゃないが俺の力じゃ切り倒せやしないぜ。こいつはほとんど崖だぞ」どこまでも視界を遮る幹の太さと空に刺さっているとしか思えない梢の先を想像する樵は呆れました。
あるようなないような統一性でひび割れている、ひと欠片が拳大の樹皮に覆われた幹をパンパン叩いた樵は試しに一撃入れてみます。こんな小汚い鬼になど語るつもりのないちょっとした歴史ある自慢の斧が幹に食い込むと硬く澄んだ音が響きました。手がしびれることはありませんでした。太さがどうあれ、撃ち込んだ時の手応えには他の木との差異がなかったからです。ただこのサイズへコツコツ撃ち込んでいたら、何カ月かかるかしれません。余りに大きすぎます。
「早速泣き言いいやがって本当に情けない野郎だ。どうして上の連中は貴様らに屈する瀬戸際なのか俺にはさっぱり分からねぇ」
「ごちゃごちゃ言わないでお前がやれ」
樵は、幹に食い込ませたままの斧に顎をしゃくり頭一つ背の低い鬼を睨みつけました。
尻の半分くらいありそうな大きな手足の指には黄色く濁る、分厚い爪があるので指先にどれほどの力を込めようとも反り返ることはなさそうです。
こちらが何をしても謝りたくはない気にさせるような終始穏やかな青い目の鬼は、どこか涼し気に少しの間を置き、煙草の浸かった水の色をする、痩せた身体と釣り合う細長い顎の顔を横へ振りました。
「いや、そうはいかねぇんだ。真っ当な鬼はどんな木であれ、たかが枝でも折ることはしねぇんだ。面倒な話だが昔から御法度なんだよ。俺たちにも神話があってな。お前らが持ってる信仰心ってやつと似てるもんがあんだ。もちろん守らないバカだって結構いるにはいるが、俺はやらねぇって決めてんだ。だから案内役に選ばれたのさ。少なくとも森の木には信用されているってわけさ」
実際には何を喰っているのか知らない歯はなぜか浅黒く、汚い頭の、もっと汚い角がなければ痩せた犬が二本足で立っている姿を土偶にしたような生き物でした。
「今言ったばかりだぞ。ごちゃごちゃ言わないでお前がやれ。鬼の力を見せてみろ」樵は意に反さず命令します。
「だから言ったろ。俺は木を倒せないんだ。親が守ってきたことだし、子供にも教えていることだから、俺には出来ねぇんだよ。理解してくれ」
「良く分かった。この話はご破算にしよう。そもそもこいつはデカ過ぎる。もっと近場に手頃な木はいくらでもあった。今後お前らがどうなろうが、結局はどうでもいいことなんだ」
試し撃ちで食い込ませていた斧を引き抜いて肩に背負いました。
「まぁ、待てよ。ところでお前にかかぁはいるか? ガキはいるか?」鬼は訊ねました。
「あいにく、親ももういねぇよ。古い家を気にくわないらしい神さんにみんな取られちまった」樵はつまらなさそうに笑いました。
「そうか、それは残念だったな」
「戻るぞ。案内しろ」
「いや、そうはいかない。お前にこいつを片付けてもらわねぇと、かなり厄介な問題が持ち上がるんだ。百年二百年先になってもお前らが俺たちのことをミソクソ言いやがるだけならまだしも、俺が森との約束を破っちまったら、それはかなり厄介なことになっちまう。お前らを使って俺たちは追い出されちまうんだ。もう二度と地底で暮らすのはご免なんだよ」
「知ったことか」
「知ったことか? まぁ俺がお前だったとしても同じように思うだろうな」鬼は愉快そうに笑いました・・・・・・
「ねぇ、やっぱりダメだと思う。ぼくがぼくでいられるうちに早く逃げて」巨木は自分を支えてきてくれた内なる「愛」を促しました。
「君がどんな君になろうとも一緒にいるわよ。私が苦しむのなら君の中でそうしていたいわ。これまで通りにね」
「あなたの気持ちはありがたいけど、今回の話はそんな甘い物語が続くわけじゃないんだ。ぼくが一度でも動き出したら、もう何もかもが変わってしまう。鬼に切り倒されるくらいなら、ぼくは歩き始めて暴れてやるんだ。誰や彼らに関係なく、やってやるんだ。やり返してやりたいんだよ。もういいかげんにね。だから今すぐにぼくから逃げて。本当に感謝しているよ。あなたがぼくを選んでくれたことはこれまでの口惜しさや、感情の爆発を思い留まるに値するものだった。でももう決めてしまったんだ。ぼくは動くよ。切り倒される前にね」
「この鬼は君に手を掛けないわ。彼には信念があるように思えるもの」
「だからだよ。彼は自分ではしないだろう。でも樵に自分を食べさせて、森との約束を果たすに違いない。涙を持つ鬼って他人には理解できない信念があるんだ。彼はたぶんそれを持っている。さぁ早く逃げて」
「お前、なんで泣いてんだ。鬼のくせして笑われるぞ」樵はさっきの鬼よりも愉快に笑いました。
「心臓をくれてやるから食え。そうすれば半日もかからないでこいをぶっ倒せるようになるだろうよ。お前に家族がいなくてそれだけが救いだ。いいか? 約束は守れよ。他の古木には手を出すな。俺たちにも決して手を出すなよ・・・・・・神さんの新築祝いにはその斧を奉納してやるといい」
「気持ち悪くて食えるか」樵は冗談だと思っていました。
「もし息子に会うようなことがあったら、枝ぐらいは平気で折れる男になれって、伝えてくれねぇか。クソみたいな連中の犠牲にならず済むからな」鬼は鼻をすすりながら笑いました。
「間違っちゃねぇ教訓だから自分で伝えろ。さぁ行こうぜ。森を出てお前はガキの元に戻れ」
目を閉じながら、自分には信じることしかできなかった神話のなかにある、今も変わらない森の匂いを吸い込みました。子供の頃に一度だけいたずらで枝を折ったことのある、しかし生涯誰の物も盗んだことのない鬼はその利き腕を胸の中に突っ込みました・・・・・・




