8月4日に出会った彼女 11
少しでもお酒を飲んだらスクーターであろうと乗らない方がいい、と彼女に言われsuicaを持つようになっていて、また自転車は妥協してもらったのでリサイクルショップで購入していた。出勤時間は家を出るとき10分ほど早めるだけで問題なかった。
彼女は全く自炊しないでいる自分を初めて恥ずかしい、と思っているらしいのだったが、しばらくすると四日間ほど帰省する予定があり、そのとき一品でも二品でも、味覚障害の人以外にも食べられるくらいの料理ができるようになって戻ってくるからね、と活き込んでいた。
初めてキスをしたのは、旧盆が明けてから帰省する前夜の別れ際だった。知り合っておよそ二週間後の細やかで大きな進展だ。彼女の手の指の長さや、シャワーを浴びていない日のぼくの頭の匂いなどを互いにすっかり知っていたので、向かい合って目を閉じることは当然お互い意識していたが、涼し気な見た目よりも遥かに子供こどもして接する彼女は、これまでぼくからの合図を待っていたのだと思う。でもぼくはぼくでこの歳になるまで恋人と呼べる相手はいなく、キスやなんだは時間内にそそくさ済ます「風俗店」以外での経験がなかった。広場のベンチや噴水の縁でときどき黙ったまま横顔を見つめられる時があり、今か? と感じていたけれど、一瞬の躊躇の間に彼女は舌を鳴らしてぼくの頭を小突いた。そして今日のぼくの頭皮の匂いを嗅いだ。そういうとき彼女は腕を組んできたり、長い脚をブラブラさせて話の続きを、大概は一方的に喋った。
ほとんど背丈の変わらないぼくの肩に腕を回し、寄りかかるように歩くこともある彼女は、そのようにしていつものように改札まで見送りにきた。毎度彼女が離れると熱帯夜にも涼しさを感じられるのだった。
「毎日毎日、朝から晩までLINEしまくってあげるから、覚悟しなさいよ」彼女は細い目をもっと細めて睨んだ。
「マン両君によろしく伝えといてね」ぼくは彼女の脅し顔が好きだ。もちろん冗談であることが条件だが。
「LINEを晩だけにして欲しければ、いい加減にキスくらいしなさいよ」目の細さは冗談の続き気味だったけれど、ハッキリと告げた。
いつも見ていた彼女の唇の薄さを確かめる余裕もない、葉の上に降る雨粒が葉脈に沿って滑るようなキスだった。
今日8月31日の朝、二人はぼくのアパートで迎えた。昨夜から24時間で借りているヴィッツで馬笹村へ行くのだ。
帰省したとき、頭の中だけで寓話を完結させていた彼女は豊かな髪を金髪に染めていて、その頭の寝癖が今朝もすごいことになっていた。まさか自分の人生で「この日の朝」にこれほど笑うことがあるなどと思ってもいなかった。
・・・・・・この日、毎年方々から沢山の子供たちと親御さん、更には少なくない数の教師も集まるというが、今年はどちらも特別に多いのだろう。
ぼくは馬笹村のひまわりのことは彼女から教えてもらうまで知らなかった。
駅前の噴水で、この世界にいた彼女を初めて見たとき、騒がしい高校生が水に落ちたにも拘わらず反応しないあの娘は、一体スマホで何を見ているんだ、と思ったものだが「馬笹村のひまわり」についての記事だった。「無印」たちと別れた後、お酒が抜けてしまうくらいバクバクしながらこっそり噴水へ戻ったとき、一番にそのことを尋ねたものだった・・・・・・
8月31日の朝がどれほど嫌なのかは、少なくとも一度だけは経験した。高校を卒業するまで通学路を変えることにした前日の朝のことだ。でも現役の「彼ら」の「朝」からすれば全く大したモノではなかったろうし、「夜」ともなれば本当の「カウントダウン」が始まる場合もあるのだろう。当然だがぼくには「彼ら」を説得し得る言葉など一つもない。ただ、今年の夏にした経験をもとに確信していることを語ることは出来る。たとえフラフラ生きていようと青春が終わりかけるときに思いもしなかった「出会い」があっからだ。この「幸運」はたぶんぼくの身にだけ起きる現象ではなく、誰のどんな青春だろうともどこかで一度くらいは起こる、あるいは起きている気がする。なぜか? それはぼくが特別な人間ではなく、特別な青春(14~24.5歳までの期間として)を過ごしたわけではないだろうからだ。言っちゃぁなんだが、教室の隅には必ずぼくのような男子がいて、もちろん女子もいる。その後ぼくらはフラフラと歳を取り続け将来の展望はいつも先送り。そういう若者はぼくだけではないはず。つまりぼくだけがラッキーだったとはどうしても思えない。
思春期になると身体が急成長することでホルモンのバランスも崩れ、いわゆる反抗期というモノにより実は自己防衛をする心は荒々しく揺れるが、年若いエネルギーに満ちた心は自分のあずかり知らないところで「運命の人」の心をキャッチしやすくなるのか、あるいはキャッチした心の持ち主が「運命の人」となるのかをするのだ。そしてそれは、主に青春期の間で必ず履行される。もちろん「運命の人」は異性に限らないし、生涯を共にする相手に限った人物ではない。いつかは誰だって自分が最後にたどり着くどこかの「風景」に必ず含まれる、忘れ難い素敵な人物なだけなのだ。だからきっと望む者にも望まぬ者にも一度は訪れる。問題はそれに気が付くかどうかじゃないのか? それと少しの開き直りも必要かもしれない・・・・・・もし「君」がいなくなってしまったら、どこかにいる「相手」も違う「誰か」の横をただ通り過ぎるだけになってしまうかもしれない。
「ねぇ、きっと誰かを毎年待っていて、今年迎えに来てくれたんじゃないかな?」
彼女は最初のSAで朝食の焼き立てパンを食べているとき言った。
「誰かって、誰を?」
「人間の子供たちよりも大切な誰かよ」
「現地では大きな声じゃ言えない仮説だね」
「あそこに来る子供たちはみんな立派な大人になれるのよ」
彼女はSAを出ると、夏の始まりに思いつき、それを帰省していた時に頭の中だけで仕上げた「影のない巨木」の続きを結末まで語り続けた・・・・・・




