8月4日に出会った彼女ー彼女の一人称 7ー
さて、散々に言ってしまったオス猫のことだが、瀬田は自身のカードで会計を済ませ佐伯と私から3000円しか徴収せず、柳からは一人分の4500円をもらい残りは自分で持った。ホテルに行かずどちらかの部屋で行うことになったのだろう・・・・・・反射的に思ってしまう私は、毎度のこと底意地の悪い自分に傷つく。
彼らは照明が落ちて静かなアーケード街を並んで先を歩き、私は少し離れて、かなり緊張しながら一人で歩いた。手の中のメモが汗で湿るのが分かった。柳は浅く引っかけたプーマの裏で器用に(あるいは周りに迷惑でもあるのだろうけど)つるりしたタイルの地面を打ち、暗く高い屋根に「パンッ、パンッ」響かせながら後ろをついてきていた。
私はとにかく前方に注意しながら機会を伺った。ときどき前の二人が「配達くんパンパンうるさいっ」と言って振り返るのだから。すると柳はすっとぼけて「何がっすか?」と聞き返す。しばらくすると再びサンダルを鳴らした。しびれを切らした私も、前の連中にかまわないで、との念を込め、彼らと一緒に振り向き本気で睨み付けてみた。どこかの時点で完全に開き直っていた彼はすばらしく涼し気に微笑み、うっかり気温が下がったのかと思ったほどだ。
アーケードの出口が見えてきて、耳を澄まさなくても駅に入ってくる電車の音は聞こえた。私はガード下の駐輪場に自転車を止めていたので、そろそろ別れ時だ。最後にもう一度、瀬田へごちそうさまでした、と礼を言わなければならない気の重さをすっかり忘れてしまうほど気は急いだ。
明日も休みだけれど、明後日になったら本館地下の荷捌き所へ直接会いに行けばいいだけだよ、と誰でもない、もう一人の私でもない、ここいるこの私が言い始めた。
先頭の二人がアーケードを出るとき彼らは振り向いた。どうやら最後の挨拶でもしようとするのだろう。
「は~い集合っ」瀬田が私たちを手招いた。もう「猫」だ、なんだと思う、思っていられる余裕など私にはなかった。
後の柳が小走りした。「パンッ、パンッ」のピッチが速まる。瀬田と佐伯が笑いながらうるさいっ! と言う声の方が余程うるさく、まばらだった通行人が振り向いた。
私は腕を後ろに組んで手首だけ上下に振り、やけくその合図をした。息を止めて左手の中で湿るメモを落としてみた。
瀬田は袈裟懸けするショルダーバックの中に何かを探していて佐伯はスマホを見ていた。もちろんそんなことどうでもよかった。問題なのは投下した私の「個人情報」に柳が気づかず、全く知らない人が拾ってしまったとしたら、少しばかり恐怖であることだ。いやかなり恐ろしい・・・・・・人知れずに どう回収すればいいのか考える暇はなかった。
小走りの柳はあっという間に左横をすり抜けた。そのとき私は、まだ仕事慣れしていない初々しい神様の手を見たのだ。見習いのスリのように、透明な右手がブルズの右ポケットへ忍び込み、彼のスマホを地面に放り落した。
尖る音が地面から発せられ私の足元に転がってきた。私を追い越し、調子づいていたサンダルの小刻な音源もその反響も止むと、時間まで止まった。
前方で待っている二人が今夜最後の大笑いをして佐伯は涙を拭うほど笑った。私は恐れずに神様の舞台へ出て行き、尻もちをついて笑う演技をしながら左手で彼のスマホを拾い、右手では落としたばかりのメモを手探った。汗で湿っていたおかげで直下に落ちていた。私はうれしいのか驚いているかで涙が出そうだ。
地面に座り込んだ私の前に柳がしゃがんだ。画面に筋が入ったばかりの彼のスマホと一緒にメモを渡す。今度は彼の時間が止まったようだ。
「もう一杯だけどうかな?」
舞台で笑う演技をする私は唯一の台詞を小声で呟いた。声を震わせないように。しかし不覚にも涙が溢れた。それでも私は笑い続けた。
挨拶を終えると三人はアーケードの出口にある信号を渡り改札へ向かった。彼らは三人になると横に並んで歩いた。私はガード下にある駐輪場に自転車を取りに行った。そして広場へ戻った。
夏の夜、止まった噴水の傍のベンチで祈るようにスマホが鳴るのを待っているなんて、全くなんて素敵な夜なのだろう・・・・・・




