第二章 二話
「あれえ? パルディア姉様、神聖軍に皇家の人が混ざってます。珍しいですね」
きょんと瞳をまるくして、童女は首を傾げた。
神聖軍の黒い軍装の中にひときわ目立つ存在。レジス=クルセイド皇国の皇族の紋章である『昇竜・降竜』の二竜が剣のように交差した文様を刺繍した紫紺のマントを身に纏った青年が、その中に居るのである。
法皇府の管轄である神聖軍に国皇家の人間が関わることは滅多に無い。法家と皇家では法家の方が圧倒的に勢力が強く、またシューダが皇家の干渉を嫌ってもいたからだ。
そんなシューダが妥協し、国皇家の介入を許したとは考えにくかった。
「えーと、あれは確か皇家の第二皇子シェンユェ・リオネス様ですよ。水神アトゥイ=レジス様の化身だって、一時は盛んに噂された皇子」
見えない従姉のために、キュアは一生懸命に状況を説明してみせる。
皇子シェンユェのことは、パルディアも知っていた。
第二皇子はまるで水神レジス様の化身だ。そんな噂がされていたのは三年くらい前だった。
ちょうどパルディアがあの"レジス"と出逢い、そして別れた頃だ。
だからその噂を聞いて、もしかしたら皇子があのレジスかもしれないと思ったこともある。
毎年国皇府が開催している馬術大会に彼が出場するという噂を聞き、居ても立ってもいられなくなって、祖父に初めて嘘の神託をつたえてその姿を見に……いや、生命の音を確かめるために開催場にも行ったのだ。
しかし ―― 違った。
高潔で躍動感のあるシェンユェの生命の音は、レジスのものとはまったく違う。レジスの気配はもっと人を安心させる、ゆうるりと包み込むような優しい旋律だったのだから。
「……レジ……ス」
誰にも聞こえないくらい細い声で、パルディアはその名を呼んだ。
あれからもう三年も経ったというのに、忘れるどころかレジスへの想いは強くなる一方だった。
そんな自分がおろかだとも思う。けれどもう一度ここに来てくれるような。そんな儚い希望も捨てきれずにいた。
三年前、彼が姿を消したあと床に倒れこむように泣き叫んだ彼女の指に、ふと触れるものがあったのだ。
それは飾り紐の付いた小さな鈴だった。先程まで傍に居てくれた青年が身に着けていたものだと、すぐに分かった。
彼と同じ、優しい生命の匂りがした。
ぐうぜん紐がほどけて床に落ちたのだろうか。主人の元を離れて今は自分の手の中にある、小さな鈴。
これがここにある限りは、自分とレジスをつなぐ細く脆い縁は切れていないのだと、パルディアはずっと自分にそう言い聞かせてきたのだ。
振れば涼やかな音色をたてるその鈴は、いつのまにか微かな音さえしなくなっていたけれど ―― それでもパルディアは鳴らない鈴を身に着けたまま、片時も手放そうとはしなかった。
いつか、彼がこれを取りに戻ってくると信じていたかった。
「どうしたの、姉様?」
考えに沈み込んだようなパルディアに、キュアは声をかけた。とても淋しそうな顔だと思った。
そんなに神聖軍に皇家の人間が加わっていることが悲しいのだろうか? 事情を知らないキュアは不思議そうに。心配そうに従姉の顔を見上げた。
「あ、ごめんなさいキュア。なんでもないの」
幼い従妹が自分を気遣っているのを感じ、パルディアは強いて微笑んだ。こんな小さな子にまで心配かけるわけにはいかない。
「そろそろ、戻りましょう。おじい様に外に出たことを知られては大変だもの」
作り笑顔とは思えぬ優しい表情でキュアを見やり、パルディアは言った。そうして深い息をつくと、何気なく見えない瞳をふと遥か遠くに流した。
「 ―― !?」
刹那、パルディアの頬がびくんと震えた。
驚きと戸惑いの悲鳴が、小さく口唇から漏れる。とくんと、心臓が鳴った。
今、微かに空の向こうに感じられた音。それは、レジスの生命の気配だ。
三年前とつぜん現れ、けれども自分の不用意な言葉で去ってしまった、大切な人 ―― 。
「……キュア。今、私が向いている方角には、何がある?」
震える声を隠そうともせず、パルディアは童女の肩を掴んだ。そんな感情も露わなパルディアを見たのは初めてで、キュアはちょっと驚いた。
でも姉様は普段あまり感情をあらわさないから、もっといつもこうでもいいのにと思いながら、キュアはパルディアの視線の先へと顔を向けた。
「あっちはサラムの大河です。ちょうど大陸行路につながる太鼓橋がかかっている方で、たぶんあの道を進むとリュースの街があったはずだから……えっと、そのまま国境を越えたらセルト王国だと思います」
手をかざすように景色を見やり、キュアは自分の覚えている地理の知識を総動員して一生懸命に説明をする。
あまり地理に自信はなかったけれど、よく晴れた青い空のおかげか、かなり遠くまで眺望できたので良かったとキュアはほっと胸をなでおろした。
「セルト……風の国ね。ふふ……レジスらしいのね」
キュアの言葉を聞きながら、パルディアは小さな笑みをもらした。自由の国だというセルトには、彼のような存在は似合っているかもしれないと思う。
「飛んでいけたら良かったのに」
パルディアは泣き笑いのような表情で呟いた。
自分もこの天井の絵画に描かれた鳥のように、水面に足を取られて羽ばたくことが出来ない。
たとえほんの微かであったにしても。三年ぶりに、こうして狂おしいほどに愛しい気配を感じることが出来たというのに。
決して、自分は彼のもとには行かれないのだ ―― 。
「パルディア姉様?」
「……何でもないわ。キュア。ただ、少し淋しいだけ」
ふわりと、柔らかな巫女服に纏われた細い腕がキュアを抱き寄せた。
しゃがみこむように小さな身体を抱きしめて、パルディアは童女の栗色の髪に顔を埋める。
姉様は泣いているのだと、キュアはわかった。けれども、泣いている理由はどうしても分からなかった。




