第十二話
「甘いんだねえ。王様は」
「……?」
まるで音楽でも奏でるような雅やかな声に、シルクスたちは顔を上げた。
「でもさ、その甘さは他人を駄目にする甘さだとおもうな」
窓辺に寄りかかりながら、ティスリーヴが微笑を浮かべてこちらを見ていた。その微笑が、どこか作り物めいて氷像のように見える。
優しい響きを持ったなめらかな口調とその表情とのギャップが、彼があたかも告罪天使であるかのような錯覚を与える。
「どういうことかな?」
シルクスは年齢の成せる技か余裕のある重厚な笑みを頬に刻み、綺麗すぎる青年に目を向けた。
一瞬、その場の空気が様々な感情を持って張り詰めたように感じられた。緊張。侮蔑。静かな怒り。けれど ――
「悪いことしたら、駄目だよって叱るのがしつけなんだよ」
にっこりと、今度は子供のような無邪気な顔でティスリーヴは笑った。
「だからおれも、こうして他所様のお宅に入り込んだお叱りを受けるために残ったんだし」
「…………」
あまりに予想外の態度と返答に、ぷっつりと皆の緊張の糸が切れた。
いったいこの青年は何なのだろうか。奇行すぎるティスリーヴの言動に、誰もが言葉を発するのも忘れたように呆気にとられた。
そんな面々を見て、ティスリーヴは愉快そうに肩をゆすって笑う。
「じゃあ、おれはそろそろ帰らせてもらうね。もう叱られてる時間はないよ。今まで待っていたんだから文句は無しだ。……まあ、どうしてもって言うなら今度おれの家まで叱りにおいで。トールドットの森には、おれの家しかないからすぐ分かると思うよ」
仮にも一国の王に対して利く口ではないが、ティスリーヴは軽くウィンクをして言い放つ。
そうして言うが早いが、ひょいっと窓枠に手を付き外に身を躍らせた。
「あっ! ちょっと!」
慌てたロンが外に身を乗り出すのと、くるんと猫のように回転した青年が地上に降り立つのは、ほぼ同時だった。
「まだフォンシュ・シンキの話を聞いてないんですから!」
城に入ったという泥棒の話。それが自分がこんな早朝に呼ばれた理由だったはずだ。その部屋にどういう訳か寝て居たという彼の話を、何も聞かずに帰すわけにはいかない。
「何にも知らないって。おれはただ、自分の寝室に居たつもりだったんだからさ。じゃーね」
ティスリーヴはちょっとロンを仰ぎ見て、そしてひらひらと手を振った。
「 ―― なっ!?」
大きな眼鏡に隠されたロンの黒い瞳が、こぼれんばかりに見開かれた。
信じられない光景が今、目の前に広がっていた。
世界の至宝とも謳われる庭師が造園した、セルト王国が誇る王宮庭園。
自然と人工が繊細に溶け合い生まれた優しいそれに、在るはずのない深い森が広がっていた。
その森の奥へと、青年はためらう様子もなく消えて行くのだ。
「待ってください!」
思わずロンは、追い駆けようと窓に手をかけた。
「おまえには無理だ」
今にも窓の外に身を躍らせようとしていたロンは、しかし大きな手に阻まれた。飛び降りられなかったロンの代わりに彼の眼鏡だけが地上に落ち、粉々に砕け散る。
「馬鹿者が。おまえもああなっているところだ」
シルクスだった。
無茶を叱る厳しい眼差しが、しっかとロンを捉えていた。
けれども恐らくシルクスもティスリーヴが去った不思議な光景を見たのだろう。ロンの無事を確保した王は何かを確認するように、再びゆっくりと庭園に視線を向けた。
庭園は、既にいつもの優雅な風景に戻り、さらさらとのどかな噴水の流れさえ心地よさげに聞こえてくる。
「……陛下。今のは錯覚でしょうか。それとも?」
ロンは茫然とシルクスを見上げた。黒い瞳が不安げに揺れ、まるで何かを怖れているように見える。
シルクスはちらりとそんなロンを見やり、きっぱりと「錯覚だ」と応えた。
その断定に、ロンは何故かほっとした。
眼前に広がる森を見た時、一瞬、自分の立つ足場が瓦解していくような、深い穴に落ち込んでいくような、得体の知れない不安が心を埋め尽くした。
それがシルクスのひとことで、すっと楽になった気がする。
「でも、逃げられてしまいましたね。唯一の手がかりだったのに」
遥か眼下に散らばる無残に壊れた自分の眼鏡を見ながら、ロンは残念そうに頭を振った。
「ふむ。まあ確かに、身の軽い奴だったな」
ぱらぱらと額に落ちかかってきた前髪を軽くかき上げながら、シルクスは高所から飛び降りて無傷で逃げ去った青年を揶揄するように、口許だけで笑う。
「ティスリーヴ様は泥棒なんかじゃないからね! ロン、絶対だよ! ちゃんと家の場所を教えて行ったじゃない。そんな事言って逃げる泥棒が居るわけないでしょ!」
憧れの君にかかった容疑を黙認するわけにはいかないとばかりに、フィアセルは両の拳を握り締め、しっかと国王とロンを交互に見やった。
もし本当に彼がそのフォンシュ・シンキとやらを盗んだのなら、さっさと逃げればいいのだ。それをあんな所で眠りこけ、挙げ句は自宅の場所まで告げて行く泥棒が居るものかと、必死の弁護作戦を展開する。
「わかっているよ。"あれ"は意外と大きな物だからね、彼が隠し持っていた可能性はない。それに……おそらく盗まれたのではなく、自分から姿を消したのだよ」
シルクスは心地よい低音でそう語ると、精悍な頬に柔らかな笑みを浮かべた。
盗まれたのではないと判断していたからこそ、彼は衛兵を責めたりせず、終始ラルスの心理的負担を除くような淡々とした態度を取り続けていたのだ。
もちろんそうならないように対策は立てていたものの、破られたということは準備が不十分だった自分の責だろうとシルクスは思う。
「自分から居なくなったって……さっきフォンシュ・シンキは宝珠だとおっしゃいませんでした?」
フィアセルは目を丸くして国王を見上げた。無機物である珠がそんな自分の意志を持って消えたりするものなのだろうか?
髭の衛兵ラルスも、ぽかんと口を開けてシルクスを見た。ロンは何かを考え込むように深く俯いている。
「ふむ。まあ、アレが無くなってしまったのは予定外だが、起きてしまったことは仕方ない。君をロンに連れてきてもらった理由を話すとするか」
ばさりと深紅のマントをはためかせ、シルクスは大きな椅子に腰掛けた。そして皆にも座るように促す。
戸惑いながらも三人がそれぞれ席に付くと、シルクスはテーブルに片肘を突きながら、白い部屋着を着たままの少女に視線を向けた。
「これから話すことは、場合によっては国の存亡にも関わる重大なことだ。よって他言は無用。そのことを、よく覚えておいて欲しい」
そう言ったシルクスの声はいつになく苦々しく、そして緊張しているようでもあった。
*****
軽やかに弾むように木々の合間を駈けていた青年は、ふと、何かに気付いたように立ち止まった。
神懸かり的な美しさを有する繊細な表情が、どこか不愉快そうに歪む。
「なんで……居たんだ……。あちら側に付いてるってことなのか?」
誰かに話しかけるように、けれども誰もいない前方を見やったまま、青年は吐き捨てるように呟いた。
「私にも分からないわ。ようやく見つけたと思ったら、あっちに居るなんて。どういうつもりなのかしら」
静かな女の声が降りそそぎ、木蔭から伸びた細く白い指が青年の髪をそっと揺らす。柔らかな黒髪がさらりと宙に舞い、彼は木蔭に視線を向けた。
「……ひどいじゃないか、森姫。おれのこと呼び寄せておいて、自分だけ先に帰るんだからな。おかげで睡眠不足だ」
綺麗すぎる青年は、拗ねた子供のように唇を尖らせた。
「怒らない怒らない。一緒に移動するのはまだ無理だったのよ。でもちゃんと迎えに来たでしょう?」
くすくすと、楽しそうな笑声が木霊のように響き渡る。けれども、その姿は木蔭にあって傍目には分からない。
「それにしても、まだ眠っているのが至福の時なの? 夢の中よりも現実の方がずっと楽しいのに」
姿の見えない女性の声は、更にころころと笑う。
「ちぇ、勝手な奴。森姫には分かんないよ」
青年は深い息を吐き出してから、気を取り直したようにゆうるりと深い森の中を歩き始めた。




