3/4節『そして温もりをありがとう』
深夜の綾絹荘に戻った充は、一度は寝る支度を整えたものの、どうにも寝付けず、夜の散歩でもしようかと部屋の外へ向かった。
玄関の扉を開けながら、充はミヤから告げられた言葉を思い返していた。
充の生まれ育ったこの世界が造り物――模造品であるという事実を。
「『異観』のある場所には、まだ魔力が残っている可能性があって……」
「それで私に観光案内を頼んで、そういう場所を巡ってたってことかぁ。旅先でしょっちゅう魔法の花を咲かせてたのも、魔力の充填をしてたんだね」
「あ……あの……魔力漏れは……素で……」
「ありゃ」
「取材旅行も本当で、いつも夢中になるくらい楽しませてもらっていて……。ただ、それと一緒に世界の維持もできたらとも考えて……こっそりと」
ミヤが語った世界の真実と、これまでの旅行のもうひとつの意味。
これまでの日本観光が、世界を崩壊から救う旅だった――という事実。
それは問題ない、と充は頷く。
むしろ、自分の中の少年心が熱く燃え上がった。
「別に、最初から全部言ってくれても、喜んで協力したよ?」
「でも……あの、充さんは、自分の産まれた世界が造り物だって聞いて、ショックは受けないですか……?」
「あー……うーん、どうだろう」
だが、もうひとつ。
世界の真実を知った充の心情に対する、ミヤからの心配。
こちらについては、内容を頭の中で復唱しながら、充は首をひねっていた。
一般論として考えれば、ミヤの心配も納得できるものではある。
自分が愛してきたもの全てが偽物であった、となれば。
なるほど、この世に絶望するに足る衝撃の事実なのかもしれないが――。
充は考えごとをしながら階段を下り。
一階のエントランスホールに立った彼は、そこで、予想外の人影を見つけた。
「あれ……大家さん?」
ホールに置かれたソファに座る、年嵩の女性。
「あらあら、沙々木さん。こんばんは」
充に気付き、にこにこと手招きをするその人物は。
「お婆ちゃん」の呼び名で親しまれる、綾絹荘の大家であった。
ティーポットと分厚いアルバムが置かれたテーブルを前に笑う大家を見ながら。
充は、招かれるまま、彼女の向かいのソファに座った。
この人がここでお茶を飲みながらアルバムを見ているのはよくある光景だが。
こんな夜中まで起きているのは珍しい――充がそのようなことを考えていると。
「ちょっと夜に目が覚めちゃってねぇ。寂しくお茶してたのよ」
「そうだったんですか」
その間にも、大家はシワだらけの顔を嬉しそうに緩めながら。
予め何客も用意しておいたティーカップをひとつ、充へと差し出した。
そしてすぐさま、そこへ湯気を立てるお茶が注がれる。
充は遠慮なく、それに口をつけた。
青畳とリンゴを合わせたような甘い香りが、ほどよく身体を温めてくれる。
カモミールティーよ、と彼女は笑った。
それから暫く。
味わうようにゆっくりとお茶を啜っていた充であったが。
やがて、カップを置き、これは丁度良い機会といえるだろう、と。
「大家さん、ちょっといいですか」
人生の先輩に向かい、相談を持ちかけた。
自分が今、胸に抱えているもの。頭を悩ませているもの。
それは、スケールの大きさに実感が湧いていないだけの深刻な問題であるのか。
それとも、笑い飛ばしてよいものなのか。
この人に聞いてみたい――そう思ったのだ。
「あらやだ。沙々木さんから人生相談? お婆ちゃん、張り切っちゃうわよ」
にこにこ顔のまま、充の言葉に頷き、二の句を待ち構える彼女に。
充は、例え話なんですが、と話を始めた。
「大家さんは、自分が昔から大切にしている絵があったとして、いつもその絵を眺めては元気をもらったりやる気をもらったりしていたとして……」
「いい話ねぇ」
「でも、ある日、その絵が実は贋作だったということを知ってしまったとするじゃないですか」
「あらぁ」
「大家さんなら、その絵をどうします?」
「まあまあ」
その質問に、人生の先輩はくすくすと笑った。
「それをお婆ちゃんに聞くなんて、沙々木さん? 貴方、初めから答えなんて出ちゃってるんでしょ? お婆ちゃんに背中を押してもらいたいってことかしら?」
笑う彼女に、充も同じく笑って頷いた。
他ならぬ、かつて彼女が語った「告白」を聞いた自分がこの質問をしたのだ。
さすがにお見通しらしい。
「お婆ちゃんのシワシワの手でいいなら、めいっぱい押してあげるわ」
茶目っ気たっぷりの調子で大家はそう言うと。
骨ばったシワだらけの手で、アルバムから一枚の写真を取り出した。
まずはこれを見てちょうだい、とその写真が差し出される。
「この人は学生時代をここで過ごしてた人でね? 今でもこうしてお婆ちゃんのところに連絡をよこしてくれるのよ。『今の自分があるのは綾絹荘のお陰です』って。ほら、綺麗な奥さんとかわいい赤ちゃんと一緒に写ってるでしょ? 子供が産まれましたって知らせてくれたの」
その写真には、にこやかな夫婦と、母親の腕に抱かれた赤ん坊が写っていた。
正に幸せな家族写真そのものだ。
「お婆ちゃんの人生を懸けて言ってあげるわ」
そこに写る人に誓うように、彼女は言った。
「それが最初は偽物だったとしても、偽物として始まったものだとしても」
それが誤った出会いかただったとしても。
誤った思いから始まった関係だったとしても。
「そこに積み重ねられてきたものは本物なんだし、そこから生まれたものだって本物なんだから」
そこで得られた思いは本物であり。
その思いから出発した綾絹荘は、確かに未来を創ったのだから。
「だから、安心してその絵を飾り続ければいいのよ。お婆ちゃんならそうします」
その言葉はきっと――自分の娘の身代わりに育ててしまった少女と、その少女が残してくれた感謝と、そこから彼女が築いたこの綾絹荘とに向かっての宣誓でもあっただろう。
自信を持って言い切った人生の先輩の、シワに埋もれた両目を見つめ。
その返答を、噛み締めながら。
「ありがとうございます。大家さんのお陰で、私も元気をもらえました」
「あらあらぁ、どういたしまして」
充は深々と礼をした。
そして、やはりそうだ、と胸中で思う。
この世界が偽物の模造品だったとしても――それがどうしたというのか。
迷宮の癖に税金やら出入国の管理やら、生活感があり過ぎるが。
ミヤと出会う前は、一時期、厭世的な気分に浸ることもありはしたが。
それでも、自分が生まれ育った世界には、やはり大切な恩があるのだ。
ミヤと出会って、綺麗な景色が見られる場所だと再認識もできたのだ。
胸にわだかまっていた僅かな靄も晴れた。
ありがとう、大家さん――心の中で、再度、充は感謝を述べるのであった。
――と、そこで終われば話は早かったのだが。
「でも、なにかしらねぇ。沙々木さんを悩ませていたこと。偽物と本物……」
そこまでに留まらず、大家は例え話の原因を考え始め。
そして、彼女の豊かな想像力が、話を思わぬ方向へと引き伸ばした。
「もしかして沙々木さん、今のバイト生活じゃなくて、正規雇用者になってくれって言われたとか?」
「え……?」
突然の言葉に、充は思わず聞き返す。
どこからその発想に至ったのか――充からすればそう思うしかない発言をした彼女は、大丈夫よぉ、とそのまま話を続けた。
「もうね。今の日本は終身雇用なんて古い話だし、役職を持っても経費を使い放題なわけでもないでしょ? 旨味がないわよ。昇給なんて雀の涙。社会保険や厚生年金だって、バイトでも受けられるようになってきたし、産休や育休だってバイトで取れる時代よ?」
「あ、はい」
目を丸くする充を前に、大家のおしゃべりは止まらない。
「お金持ちになりたかったり、一生を懸けてやりたい仕事が見つかったなら、自分で起業すれば良いだけの話なんだから。『この人の下で仕事をしたい!』とか『この人たちと仕事をしたい!』とか、そんなのがないんだったら正規雇用にこだわる必要なんてないわよ」
「ああーっと……大家さん、就活情報に詳しいですね」
「そりゃあお婆ちゃんは綾絹荘の大家さんですもの。沙々木さんと久保さん以外は学生ですから。ここの子たちが困らないようちゃんとチェックしてるわよぉ」
「ああ、道理で。あの……ところで大家さん」
このままでは話の収拾がつかなそうだ、と。
相槌を打ちつつ、大家がティーカップを口に運んだ隙を見て、充は口を挟んだ。
「どうして、私が正規雇用者になれと言われたって思ったんです?」
充としては、当然の疑問を口にしたまでのことであった。
だが、それに対して大家は、あらどうしましょ、と困ったように笑う。
「今日、沙々木さんはずっと部屋にいらっしゃったでしょう?」
これを言っちゃったらはしたないかしら、と苦笑しながら――。
そっと顔を寄せ、耳打ちするように彼女は言った。
「沙々木さん……彼女さんの匂いが移っているわよ」
「うぁっ!?」
それは、完全に予想外の一撃。
充はくぐもった悲鳴をあげると同時に、理解した。
なるほど、つまり今の自分は「彼女を部屋にあげて終日閉じ篭もっていた人間」と見なされているわけだ。
そこから、自分の性格も考慮された上で、いわゆる結婚を前提としたお付き合いをしていたと思われたわけである。
普段は泊りがけの旅行に出かけている間柄のカップルが、あえて日常生活の空間で一日を過ごしたとなれば。
それは関係が一歩進み、次のステップへ移行した――つまりそこで具体的な今後の共同生活の話し合いが行われていたとしても不思議はない。
となればパートナーの雇用形態についてなんらかの相談がされていたのではないか、と傍から見る者に思われてもおかしくない話であった。
「あの、それじゃ私はこれで……お茶と、相談をありがとうございました」
顔を赤く染めながら、充はたまらず立ち上がった。
これはどうしたものか、この後どうフォローしたものか。
頭から湯気が出る思いであった。
「そうだ、沙々木さん。最後に、聞いておくだけでいいのだけれど」
しかし、立ち上がった充へと、大家がもう一度声をかけた。
「もしお婆ちゃんが倒れたら、沙々木さんが綾絹荘を継いでくれないかしら?」
「大家さん?」
シワだらけの笑顔で告げられた、その言葉に。
突然の深刻な響きに、充はぴたりと静止した。
目の前にいる年嵩の女性は、落ち着き払ってソファに身を委ねている。
夜に独りで目が覚めると考えちゃうのよ、と彼女は続けた。
「沙々木さんならお婆ちゃんも安心して任せられるんだけど、でも沙々木さんだと若いから学生さんと歳が近いでしょう? そこだけ心配だったの。でも、ご家庭を持たれたなら、沙々木さんなら大丈夫だし、沙々木さんが見初めた奥さんなら大丈夫でしょうって思ってね」
充は立ったまま、静かに耳を傾けた。
それは、自分がいない未来を思う先達の憂慮。
自分の思いを継いでくれるかもしれない者へタスキを渡すための言葉。
それを聞き、充はいつかの冬の日を、また思い出していた。
彼女がかつて綾絹荘の過去を自分に打ち明けた日のこと。
あれは――あのときから、彼女はこれを私に伝える気があったのだ。
だから、自らの悔悟も含め、彼女は私に全てを語ったのだ。
充は思う。
自分は、ひとりの人間に、人生の全てを預けられるほどの信頼を頂いている。
これだけ自分を信頼してくれる人がいることの、なんとありがたいことか。
「お話、ありがとうございます。覚えておきます。でも、まだまだお元気でいてくださいね」
姿勢を正し、充は一礼した。
その姿を見て、まぶしそうに、嬉しそうに、老齢の女性は目を細めた。
礼をしてエントランスホールを辞した充は、その場で踵を返した。
散歩をしようかという気分も、すっかり落ち着いてしまっていた。
階段を上り、そのまま自室に戻ろうと足を運ぶ。
自室のひとつ手前、隣室の前を横切る際。
開け放たれていたそこの窓から、そのとき、声がかかった。
「みっちゃんじゃん! 今日は日帰り旅行? 部屋に引き篭もってた?」
見れば、シャワーを浴びていたらしい隣室の主、久保内匠がタオルで頭を拭きながら窓際へとやってくる。
「今日も暑っちぃよなぁ……あ?」
だが、窓際まで来た内匠が、言葉も言いかけのまま、その場で固まった。
内匠は鼻をひくつかせ、窓枠を挟んで充を見る。
充の服装は部屋着で、遠出していたのではないとすぐに判断できた。
「ちょっと待ってろみっちゃん」
タオルを放り出した内匠は、駆け足で部屋の奥へと姿を消した。
かと思えば、すぐに小走りで窓際へと戻ってきた。
そしておもむろに、その手に握ったものを充へと差し出す。
「プレゼント・フォー・ユー」
「あ、どうも」
手渡されたのは、真空パックの赤飯。
移り香のこと、すっかり忘れていた――充は頭を抱えたくなった。
「彼女を送ってきた?」
「あ、いや……」
「なるほどまだか。週末2日をかけてたっぷりと部屋に引き篭もろうってわけか」
内匠の質問へ反射的に否定の返事をしてしまい、充は更に頭を抱えたくなる。
「ここの窓は閉めとくから、彼女を送る際も安心してくれたまえよみっちゃん。覗き見してみっちゃんに恥をかかすようなことはしないからさ!」
「それ……『彼シャツ騒動』を起こした人が言う台詞?」
「あんときは『ついにみっちゃんが!』って嬉しくて興奮し過ぎました。反省してます。だから今度こそは騒がないからさ!」
神妙な顔で赤飯を手に固まる充の前で。
サムズアップをした隣人の姿が、閉められた窓の向こう側へと消え。
――本当に、明日どうやって申し開きをしようか。
暫く、その場で充は頭を抱えるのであった。
どれだけそうして固まっていただろうか。
ともあれ、いつまでも廊下で立っていても仕方ないと、充は頭を上げた。
自分のことを祝ってくれる隣人がいることに感謝をしようそうしよう。
今日は予想外の事態との遭遇が連発したが、もう後は寝るだけだ。
明日のことは、明日に考えよう。
そう頷きながら、充は自分の部屋へと入った。
だが、最後の「予想外の事態との遭遇」は、そこで充を待ち構えていた。
玄関口で靴を脱いだところで、おや、と充は耳を澄ませた。
寝室から、衣擦れの音がする。
まさか、ミヤがひとりでこちらの世界に来たのだろうか。
向こうから来るのは珍しい、と考えながら、充は寝室の戸を開けた。
「あれ!?」
だが、そこにいたのは――。
「こんばんは、充お兄さん。勝手にあがってしまい、すみません」
「りゅーちゃん! どうしてこっちに?」
王冠めいた立派な角と、濃紺色に艶めく翼と尻尾を揺らす銀髪の少女。
“竜王”エンシェであった。
“水の国”で迷宮の工事をしていた筈のこの子が、なぜここへ。
しかも、ミヤの姿も見当たらないが、ひとりで来たのか。
格好も、ひらひらとした布を巻きつけたドレスのような異世界の軽装である。
畳敷きの部屋に有角、有翼の少女が佇む様は、異質な光景であった。
困惑する充に、実は、と竜の少女が鈴の鳴るような声を返す。
「わたしのところへジーンさんが来て、充お兄さんが悩んでいるかもしれないから、世界旅行の先輩として、話をしに行ってくれないか、と頼まれて……」
「ジーンが?」
「ジーンさんが言うには、ミヤが……充お兄さんにとっての弟分がいると、見栄を張って無理するかもしれないから、わたしだけで行って欲しい、と」
「ははぁ……」
それを聞いて、充は今日のジーン様子を思い出す。
言われてみれば、自分の表情を窺う眠たげな視線の覚えがあった。
あれだけで、小さな女魔法使いは充が「異世界とは何か」との質問をミヤにしようとしていると察していたのだ。
そしてミヤと同じように、その質問の答えを聞いた後の充の心情を心配して、こうしてエンシェをここへ向かわせたらしい。
あの女魔法使いのことである。
「惚れた男の表情も読めなくてどうするの」とでもいったところだろうか。
「ありがとう、りゅーちゃん。ジーンにも今度、お礼を言うよ」
ひとまず、充は少女に感謝を告げ。
そしてそのまま、我慢できず――彼は笑い出した。
不思議そうに、エンシェが青緑の双眸を丸くする。
「ああ、いきなり笑い出して、ごめんね」
目尻にたまった涙を指で拭い、充は言った。
「今日は会う人みんな、私のことを気にしてくれていてね。自分は幸せものだなって思ったら我慢できなくなって」
それは、充を思う皆の温情への感謝。
ミヤからも、ジーンからも。
内匠からも。「お婆ちゃん」からも。
次から次へとやってきた、自分に贈られる温かな思い。
今日一日で、改めて充は実感した。
危機的な状況でこそ周囲にいる人のありがたみが分かるとはよく聞くが。
まあ、自分にとっては結局、危機的な状況というわけでもなかったが。
「みんな優しくしてくれて、ありがとうって」
しみじみと言う充に、きょとんとした顔をするエンシェ。
だが、なんとなく意を汲んだのであろう。
やがて、少女はにこりと可憐な笑顔を見せた。
そして――。
「そうですね。ミヤも充お兄さんのことを、いつも気にしています。今日のミヤは、特に、とても心配していたみたいで……今も、充お兄さんの身体に、有事の際の防御魔法がかかっていますよ。ここまでするのは、本当に珍しいです」
軽やかに、歌うように、竜の少女はそう告げた。
それを聞いた充は、額に手を当て。
「……だから今日に限って移り香かァーッ!」
大いに、笑ったのであった。




