第2話 地図にない場所まで掃除するとは聞いてない
「……行くしかないのか?」
言ったところで、状況が変わるわけじゃない。
見上げれば、俺が落ちてきた穴は遥か頭上だ。
壁には手をかけられそうな凹凸もない。ロープもない。当然、空を飛ぶスキルなんて持っているはずもない。
そして目の前には、暗い通路が一本。
戻れないなら、進むしかない。
「いや、おかしいだろ……」
今日の依頼は、初心者ダンジョンの清掃だったはずだ。
ゴミを拾って、汚れを落として、終わったら報酬を受け取って帰る。
それだけの仕事だった。
地図にも載っていない地下空間を探索するなんて、依頼内容のどこにも書いてない。
「現在地、もう一回」
『位置情報を照合します』
肩の近くを飛ぶ中継ドローンから、無機質な声が返ってくる。
『該当地点なし。登録済みダンジョンマップとの一致を確認できません』
「だよなあ……」
さっきから何度聞いても同じ答えだ。
スマートフォンの地図表示も役に立たない。
俺がいるはずの位置には何もない。
というより、そもそもこの初心者ダンジョンに、こんな深さの階層は登録されていなかった。
「救助要請は?」
『通信状態、不安定。送信を継続しています』
「繋がったら教えて」
『了解しました』
俺はため息をつき、通路を見る。
先は暗い。
ドローンのライトが届く範囲には、灰色の石壁と石床しか見えない。
モンスターの姿はない。
音もしない。
静かすぎる。
初心者ダンジョンだって無音ではない。
他の探索者の話し声。
武器のぶつかる音。
モンスターの鳴き声。
遠くを飛ぶ中継ドローンの駆動音。
何かしら聞こえる。
でも、ここには何もなかった。
聞こえるのは、自分の足音と、俺についてくるドローンの小さな駆動音だけだ。
「……行くか」
別に奥へ行きたいわけじゃない。
ここに座っていたところで助かる保証がないだけだ。
俺は清掃用のバッグを肩に掛け直した。
落下したときにぶつけた腰がまだ痛む。
幸い歩けないほどじゃない。
モップ。
ブラシ。
ゴミ袋。
洗剤。
その他、清掃用品一式。
いつもなら頼もしい仕事道具だ。
今はものすごく心細い。
「せめて剣くらい持ってくればよかったかな……」
いや。
持ってきたところで使えないか。
俺は探索者ではあるが、戦闘を専門にしているわけじゃない。
使えるスキルだって《浄化》だけだ。
だから、危険なモンスターが出るような依頼は受けない。
今日だって、そのつもりだった。
初心者ダンジョン。
安全確認済み。
清掃依頼。
なのに、どうしてこうなった。
考えても仕方がないので歩く。
五十メートル。百メートル。
それでも通路は終わらなかった。
「長いな……」
『未登録領域のため比較対象がありません』
「役に立たないなあ」
『発言を業務記録へ保存しますか?』
「しなくていい」
『了解しました』
機械相手に何をやっているんだ、俺は。
ほんの少しだけ気が紛れた。
さらに進んで――足を止める。
「……またか」
床の隅に、黒いものがあった。
最初に見つけた、あの染み。
俺が《浄化》を使った直後に床が抜け、そのままここまで落とされた原因。
たぶん。
原因だと断定はできないけど、少なくとも無関係とは思えない。
しゃがみ込まず、少し離れたところからライトを向ける。
やはりただの汚れには見えなかった。
煤のようでもあり。
油のようでもあり。
それなのに光をほとんど反射せず、黒だけが石床に貼りついている。
「危険物反応は?」
『既知の有毒物質、魔力性危険物、モンスター由来物質との一致なし』
「……つまり?」
『不明です』
俺は黙った。
不明。
つまり、こいつが何なのか、ドローンの登録データにもないということだ。
「……そっちの方が嫌なんだけどな」
安全だと言い切られるよりは信用できる。
だからといって、安心できる話ではまったくなかった。
俺は黒い染みから距離を取り、その横を通り過ぎる。
関わらない。
今度こそ触らない。
掃除もしない。
さっきは仕事中だったから《浄化》した。
でもここは依頼区域ですらない。
「見なかったことにしよう」
そう決めて先へ進む。
十歩。
二十歩。
黒い染みが、またあった。
「……」
今度は床だけじゃない。
壁の下部にも、細い筋のような黒が走っている。
さらに先。
また一つ。
その先にも。
進むにつれて、明らかに増えていた。
「嫌な感じだな……」
足元を確かめながら慎重に歩く。
踏まなければいい。
そう思った直後だった。
ぺちゃ。
「……ん?」
靴底に、妙な感触があった。
足を上げる。
黒いものが糸を引いていた。
「うわっ!」
反射的に足を振る。
落ちない。
黒いものは泥とも粘液ともつかない状態で、靴底にこびりついている。
「いつ付いたんだよ……!」
踏んだ覚えはない。
というか、さっきまで床には何もなかったはずだ。
ブラシで擦る。
落ちない。
洗剤も効かない。
「……やっぱりか」
ここまで来れば試すものは一つしかない。
右手を靴底へ向ける。
「《浄化》」
淡い光が広がった。
黒いものだけが、音もなく消えた。
「……」
靴は元通りだった。
付着していた跡さえない。
俺はしばらく自分の靴を見つめる。
《浄化》は汚れを落とすスキルだ。
泥。
油。
血。
こびりついたモンスターの体液。
そういうものを綺麗にする。
だから清掃仕事では便利だ。
逆に言えば、それだけのスキルだった。
「これ……汚れなのか?」
『質問対象を特定できません』
「お前には聞いてない」
『了解しました』
床を見る。
黒い染み。
壁を這う黒い筋。
さっき靴に付着した、粘液のようなもの。
見た目は少しずつ違う。
なのに《浄化》は効いた。
そして、この地下へ落ちる直前に消した黒い染みにも。
「……全部、同じもの?」
答える奴はいない。
ただ、一つだけ分かる。
俺の《浄化》は、こいつを「落とせるもの」と判断している。
それが何を意味するのかまでは、分からない。
今は出口を探す方が先だ。
俺はもう一度歩き始めた。
黒いものは避けた。
床だけじゃない。
壁にも増えている。
ところどころ天井にまで広がり始めていた。
さっきまで灰色だった通路が、少しずつ黒に侵食されているように見える。
しかも奥へ進むほど、その割合が増している。
「こっちで合ってるのか……?」
出口へ近づいている感じがまるでしない。
むしろ、何かの中心へ向かっている。
そんな気がする。
引き返すか。
立ち止まり、振り返る。
長い通路。
その先に、俺が落ちてきた場所がある。
戻ったところで壁を登れない。
救助が来るなら、あそこで待つ方がいいのかもしれない。
でも通信は繋がっていない。
救助要請が届いているかも分からない。
『通信を一時確立』
「え?」
突然、ドローンが告げた。
「救助要請!」
『送信します』
小さな電子音。
俺は思わずドローンを見る。
数秒。
『送信失敗。通信が切断されました』
「……マジか」
期待させないでほしい。
「何か届いた?」
『送信完了は確認できません』
「そうか……」
ただ、まったく繋がらないわけではない。
ほんの一瞬でも通信できた。
なら、場所によってはもう一度繋がる可能性がある。
「進むしかないか」
結局そこへ戻ってくる。
俺は足を動かした。
やがて通路の様子が変わり始めた。
石壁が見えない。
最初は染みだった黒いものが、もう壁の大部分を覆っている。
床も同じだ。
辛うじて灰色の石が見えている場所を選んで歩く。
「これ以上増えたら通れないぞ……」
そして。
その心配は、すぐ現実になった。
「……嘘だろ」
通路が塞がれていた。
壁が崩れたわけじゃない。
黒いものだ。
巨大な膜のようなものが、床から天井まで通路を完全に覆っている。
表面がゆっくりとうねっていた。
明らかに染みではない。
靴に付いた粘液とも違う。
「これはさすがに汚れじゃないだろ……」
『進行可能経路を確認できません』
「見れば分かる」
触る。
論外。
殴る。
もっと論外。
他の道。
ない。
俺は黒い膜を眺め、それから右手を見る。
「……試すだけだぞ」
一歩近づく。
近くで見ると余計に気持ち悪い。
膜の内部を、黒よりさらに暗い筋がゆっくり移動している。
生き物みたいだ。
それでもモンスター反応はない。
「《浄化》」
光が黒い膜へ触れた。
ジュッ――。
「え?」
黒い膜が消えた。
全部じゃない。
光が当たった部分だけ。
まるでそこだけ切り取られたように、丸い穴が開いている。
「……効くのかよ」
向こう側には通路が続いていた。
俺は開いた穴を見る。
人が通れるほど大きくはない。
もう一度。
「《浄化》」
穴が広がる。
同時に、身体から力が抜けた。
「っ……」
思わず壁に手をつく。
いつもの感覚と違う。
普段の清掃でも《浄化》を使い続ければ疲れる。
けれど、こんなに一気に消耗することはない。
手のひらがじっとり汗ばんでいた。
息も少し荒い。
「なんだよ、これ……」
黒い膜を見る。
さっき消した場所の縁が、ゆっくり蠢いている。
塞がる。
そう思った。
「冗談だろ」
休んでいる暇はなさそうだ。
「《浄化》」
三度目。
穴が人一人通れる程度まで広がる。
頭がくらっとした。
普段の清掃で《浄化》を使ったときとは、消耗の桁が違う。
でも、通れる。
「今のうち……!」
清掃バッグを抱え、黒い膜へ触れないよう身体を滑り込ませる。
ドローンも続いた。
抜けた直後、振り返る。
開けた穴が、ゆっくり縮まり始めていた。
「……絶対、普通の汚れじゃない」
なのに《浄化》は効く。
分からないことばかり増えていく。
俺は膝に手をついて息を整えた。
それから顔を上げる。
「……ん?」
通路の先が明るい。
人工照明ではない。
青白い光が、奥から漏れている。
ここまでずっと同じような通路だった。
初めての変化だ。
「……行きたくないなあ」
でも後ろの穴は、もうほとんど閉じている。
「ほんと、そういうところだぞ……」
誰に文句を言っているのか自分でも分からない。
俺は青白い光へ向かって歩いた。
十数メートルほど進む。
突然、壁が途切れた。
「……は?」
そこには巨大な空間が広がっていた。
天井は高く、ドローンのライトでも端まで照らせない。
円形に近い広間。
壁も床も、黒いものに覆われている。
今までの通路とは比べものにならない。
黒い筋が無数に伸び、床を這い、壁を伝い、すべてが広間の中央へ集まっている。
そして、その中心。
青白い光を放つものがあった。
「……なんだ、あれ」
巨大な結晶。
そう見えた。
人の背丈ほどはある。
半透明の青白い結晶が、床から突き出すように存在している。
綺麗だった。
黒いものさえなければ。
結晶の表面には、無数の黒い筋が絡みついていた。
血管のように。
根のように。
黒いものは結晶から広がっているようにも、逆に結晶へ集まっているようにも見える。
ドクン。
「……え?」
低い音が響いた。
ドクン。
もう一度。
広間全体が、ほんのわずかに震える。
思わず一歩、後ろへ下がった。
清掃バッグの中で、道具同士が小さくぶつかる。
「心臓……?」
そんな馬鹿な。
結晶だぞ。
生き物じゃない。
それなのに、次の鼓動を待っている自分がいた。
ドクン。
腹の底まで響く。
「ドローン。あれ、分かるか?」
『照合します』
珍しく返答まで間があった。
『登録データ内に完全一致する対象はありません』
「近いものは?」
『形状および魔力反応から、ダンジョンコア関連構造体との近似性を検出』
呼吸が止まった。
「……ダンジョンコア?」
『可能性を提示しています。断定はできません』
「ここ、初心者ダンジョンだぞ。何年も探索者が出入りしてる場所の地下に、そんなものが……?」
『回答可能な情報がありません』
「……だよな」
さっきまで「変な地下通路に落ちた」で済んでいた話が、急に別物になった気がした。
もう一度、中央を見る。
黒い筋。
通路で見た染み。
靴に付いた粘液。
道を塞いでいた膜。
全部ここへ繋がっている。
そして。
全部に《浄化》が効いた。
ドクン。
青白い結晶が脈打つ。
その表面を覆う黒いものも、それに合わせるようにわずかに蠢いた。
俺は自分の右手を見る。
この状況で。
俺が持っているのは武器じゃない。
攻撃スキルでもない。
使えるのは、最初から一つだけ。
「……まさかな」
結晶を覆う黒いものを見る。
それから、自分の手を見る。
もう一度、結晶を見る。
「これも、掃除しろってことか?」




