◆4-13 イグニス・フォージの真実
***
「その時さ、徒弟くんを何人か置いて行ってくれたわけ。うちにやってきたのが――」
「まさか……」
「コーエンと、セドリックだよ」
部屋の中に、重苦しい沈黙が下りた。
エレミアは相変わらず笑っている。馬鹿みたいに赤い唇を吊り上げて。
オルビスは、何か言おうと口を開いたが、言葉が出てこなかった。あの灰桜の女性の顔が、思い浮かんだだけだった。
「あ、山向こう。少し晴れてきた。めずらし。グレイスなのに、ここ」
「あ、ああ……」
オルビスは正直、外の景色など見る気にもなれなかった。
今まで共に働いてきたはずのエレミアが、全く違う世界の、違う人間に見える。
グレイスの雨のようにくすぶっていて、赤い唇だけが妙に鮮明。
「ねえ、お腹すいた」
「……は?」
「何か出してよ」
「ねえよ」
「じゃあ、何か食べに行かない?」
*
イベットは、暇だし寒いし腹が立ってきたので、無理やり爺さんの仕事を手伝った。
爺さんの店は、セントラルのマルシェを三十分の一くらいに縮めたような品揃えだった。
乾燥野菜、干し肉、ジャム、ワイン、希釈された花油など。
新鮮な野菜や肉、衣料品は売っていない。もちろん、薬や化粧品などもない。
まあ、珍しくない。ハノイットはあまり農産物が取れないから、基本は乾燥加工していることが多い。セントラルは恵まれていると、昔メルノが言っていた。
「姉ちゃん、すごいなあ」
爺さんは、イベットの書いた帳簿を感心したように見つめた。
「整理しただけです。殴り書きはどんぶり勘定と言うんです。これくらい細分化しないと」
野菜は野菜、肉は肉、カテゴリーを分けて集計しやすいようにするのだ。
ウィズダムの基本。アリアナさん仕込みよ。
「あ、姉ちゃん」
爺さんが、イベットの肩を叩いた。
「今、二日前の利益額を……」
「いいから、ほら」
イベットは、帳簿から目線を上げると、ペンを取り落とした。
オリーブアッシュの髪の男と、見知らぬ女の後ろ姿が、花動車の停車場の向こうに見えた。東の方面に歩いて行く。
「おじいさん、利益額。また今度で」
イベットは上着をマントのように翻して羽織ると、全速力で走った。
これは――絶対そうだ。
声が届く位置まで追いかけると、全力で叫んだ。
「オルビス・マクラーゲン!ねえっ!」
二人が振り返った。
「え……!?」
オルビスは異国人でも見るように、上から下まで視線を走らせた後、ようやく声を出した。
「イベット!?」
「それ以外、誰がいるのよ、マクラーゲン様」
「何で、ここに……えっと」
イベットが食い気味に迫ると、オルビスは軽く目を逸らした。
すると、隣にいた見知らぬ女が小首をかしげた。
「オルビス。この子、だあれ?」
肩の下あたりまで伸ばした、ダークブラウンのまっすぐな髪がさらりと揺れた。
細い顎に尖った鼻。大きな口はつややかに赤い。
切れ長の瞳は狐みたいで――見つめられるとなんか力が入る。
――やだ、なんか大人っぽいわね。この女。
イベットは、拳を握った。
「かあわいい」
「……へ?」
その女は、イベットとオルビスを交互に見ると、口だけ笑った。
「オルビスのこと、追っかけてきたのお?」
「はい!」
イベットは、即答した。
「あなたたちを追いかけて来ました」
オルビスと、キツネ目女が顔を見合わせた。
キツネ目女が僅かに目を細めた。
「マクラーゲン様」
イベットは、琥珀色の目でオルビスの目を見つめた。
逸らさせてなんか、やるものか。
「コーエンが失踪しました。マクラーゲン様は、コーエンに何をしたんですか。答えてください。ここで」
しん、と辺りが静まった。
「失踪?コーエン・アルミナイトが?」
オルビスはオリーブアッシュの瞳を僅かに揺らし、片眉だけひそめた。
動揺した時の、オルビスの顔だ。こいつ、コーエンがいなくなったこと知らないのか?
横にいるキツネ目女も、笑ってはいなかった。
「靴納めの儀の後、帰ってこなくなりました。これを残して」
イベットは、鞄の中から白リリーの端切れを取り出した。
それを見た瞬間――動いたのは、キツネ目女だった。
「それ――ッ」
キツネ目女は、イベットの手から白リリーを抜き取ろうとした。
イベットは、驚いて身を引いた。
肩から鞄が滑り落ち、地面に落ちた。そして――
鞄から転がった。
小瓶が。
コーエンが、初めて来たときに持っていた空の小瓶が。
キツネ目女はその小瓶を見て、呆然とすると、突然膝から崩れ落ちた。
「ごめんなさい」
イベットは、慌てて小瓶を拾って鞄の中に戻した。
「……え?」
「セドリック……ごめんなさい。コーエン、スケッチブックを……ごめんなさい、ごめんなさい」
キツネ目女は、泣き叫ぶでも笑うでもなく、ただ唇を震わせて、ごめんなさいと言った。
イベットはどうしてよいか分からなくなって、オルビスの方を向いた。
彼も予想外だったようだ。
キツネ目女の横に身をかがめ、「……おい、エレミア」と声をかけたが、女は返事をしなかった。
イベットは、一歩近づいた。
「……エレミア、さんと言うんですか」
「……そうよ」
「話、しませんか」
*
「おじいさん、干し肉ください!!ありったけ!ワインも!」
お店の爺さんは、また目をしょぼしょぼさせた。
イベットは、我が家のように店に上がり込むと帳簿台に次々と干し肉を置いて行く。
「豚肉、鹿肉、塩味濃い奴ね。ワインはザクロの微炭酸タイプ。あ、帳簿書くならここね。計算しなくていいわ。私覚えてるから価格」
そう言って、お金をジャラジャラ置いて行く。
爺さんは、イベットの奥の二人にようやく気付いた。
「あの時の青年と……まさか、エレミアちゃん、かい?」
「久しぶり、爺さん」
「今までどこに……」
「セントラル」
爺さんは、落ちくぼんだ目を静かに閉じた。
「姉ちゃん、お代はいらないから、持っていきなさい」
「……え?」
イベットは、お金を数える手を止めた。
「いいから。雨も上がったし、山上の広場にでも行ってきなさい。雨上がりのこの時期は、グレイスの星がきれいだよ」
*
「信じられない、足、ドロドロ……」
エレミアは靴の底を見て顔をしかめた。
「靴職人三人で、靴を汚すとは……」
オルビスも引き気味に自分の足元を見つめる。
「帰って、きれいにしましょう」
イベットは、向こうの空を見た。ゆっくり、ゆっくり、日が落ちていく。
薄暗い雲の隙間から、橙色と薄紫の帯がたなびく。
イベット、オルビス、エレミアの三人はアーセナル街を抜け、イグニス・フォージよりさらに上まで来た。爺さんが教えてくれた広場は、空き地に毛が生えたような場所で、半分塗装の禿げたベンチがあるだけだった。大人三人で腰かけると、かなり窮屈だった。
「ここ、何する場所だったんだ?エレミア」
オルビスが、エレミアに聞いた。
「セントラルのリリー奉納の日に、アーセナル街でも、祈るのよ。そういう場所」
「リリー奉納の日……何を祈るんですか?エレミアさん」
「――ものづくりの喜びを」
エレミアは、泥のついた靴を地面にこすりつけた。
「エレミアさん、続きを聞かせてくれますか」
イベットが促すと、エレミアは向こうの空を見ながら、ぽつりと話し出した。
「……徒弟としてうちに来たコーエンは、天才だった。どんな作業もすぐ覚えるし、細かい作業も緻密だし」
イベットは、初めて聞くコーエンの昔話に、少しむず痒くなった。
「……そういう、奴です」
「一番、大人たちを驚かせたのは――危険な作業を一切怖がらなかったこと。だからみんな、花通液の混合をコーエンに押し付けるようになった」
オルビスの肩がピクリと震えた。
「花通液の混合を――子供に?」
オルビスは、嫌悪感を隠せていなかった。片眉を顰め、瞳が揺らいでいる。
イベットは、彼に問いかけた。
「オルのおうち、花通液の商会だったよね?何か――だめなの?」
「弾薬用の花通液は――危険だ。本当に、危険だ」
「……え?」
イベットは、彼がこんなに『嫌そう』な顔をするところを、見たことがなかった。
「そう。危険ね。日の光が当たれば均衡が崩れる。配合を間違えれば爆発するか――銃になったときに暴発する。しかも、攪拌数や、混合温度によって、仕上がりが異なってしまう。みんな手順書を血眼になって見るのよ。それを――コーエンは、完璧にやってのけた。指先の感覚で」
イベットは、エレミアに訴えかけるように言った。
「なんで誰もやめさせないの、そんな」
「作業が早いと重宝されるの。分かるでしょ? しまいには、あの十年式リリー銃の混合花通液までつくっちゃった」
イベットは、固まった記憶の断片が、隅々から溶け出していくような、妙な感覚がした。アーネストが見せてくれた薬室の液体はやっぱり。
「十年式、リリー銃は……コーエンが」
「うちが儲かるほど――コーエンは、真っ暗な作業場から出られなくなった。いつ爆発するともしれない混合液の調合を、毎日、毎日」
イベットは、胃の中がムカムカしてきた。
コーエンが暗闇を異常に怖がっていたのは、きっとそのせいだ。
「でも、セドリックがいたから」
「……セドリック?」
「そっか、オルビスにしか話してなかったか、だる」
エレミアはオルビスの方を見た。どうやら彼に説明しろと言っているらしい。
オルビスは、代わりに口を開いた。
「亡くなった――徒弟さんだって」
「なく、なった……?」
喉の奥に、乾燥した空気がまとわりついた。
エレミアは、地面から足を離し、プラプラと彷徨わせた。
「セドリックはさ。どんくさくて、察しが悪くて、よく叱られてた。でも……コーエンの仕事が終わるのをいつも待ってた。蔵の外で。よく三人で夜食の干し肉かじった」
だんだんと星が瞬いてきた。いつの間にか、辺りは濃い藍色になっている。
「何で、爆発したんだ、イグニス・フォージは」
オルビスが、とうとう切り出した。
「……その日、セドリックが、コーエンの代わりに調合をやったの。無断で。私はそれを見て――見ぬふりをした」
イベットが息を吸ったが、オルビスの方が早かった。
「何で。そんなことになったんだよ」
エレミアは、笑った。赤い唇を小さく震わせて。
「……コーエンの、母さんの命日だったから。いつも何も求めないコーエンが、初めて、私とセドリックにお願い事をしたから」
エレミアはそう言うと、ぐるりと視線を巡らせた。木とベンチだけ。ただ、星と空が近い。
「ここでさ、キンポウゲを供えたかったんだって」
「キンポウゲ……」
コーエンから、両親の話など、一度も聞いたことがなかった。
寂しくて腹を立てたこともある。話すことができなかっただけかも、しれないのに。
「コーエンがここから工房に戻った時、セドリックは安心したんでしょうね。お帰りって、蔵のドアを開けたの。そしたら、コーエンが叫んだ。『暗幕!』って」
オルビスの顔に恐怖の色が走った。
「光——」
「私とコーエンの目の前で……」
イベットは、全身が寒くなった。
「爆風がすごかったけど、場所が良かったから、私たちは無事だった。でも、セドリックは――片腕がなかった。二人で、必死で止血したけど、次から次から、血があふれてくる。工房も燃えてるし、地獄だと思った」
オルビスが膝の上で拳を握りしめたのが分かった。
「コーエンがね、セドリックを母親の所に連れて行くって言いだしたの。もう何が何だか分からなかった。気づいたらいなくなってて――それから、何も戻ってこなかった。コーエンも、セドリックも、工房も。父さんは首つった」
冷たく湿った夜風すら、肌に染みて、痛いと感じる。
「なあ、エレミア」
オルビスが、ベンチから立ち上がってエレミアの方を向いた。
少しだけ間をおいて言った。
「スケッチブックを――なぜ俺から盗った?」
イベットには、なぜその言葉がオルビスの口から出てくるのかが分からなかった。
エレミアは、少しだけ表情を緩めた。
「……言わなかったっけ。私、レオニダス公爵と、グレイス侯爵の『施し』で生活してきたって」
「……頼まれたってことか?どっちかから」
エレミアはゆっくり頷いた。
「レオニダス家のシグリッド様は……コーエンが、あの『神童キャンベル』だっていう証拠を求めてた。理由は知らない。でも、私は拒んだ。そしたら……」
「俺、か?」
イベットは堪えきれずに立ち上がると、オルビスの腕を掴んだ。
「ねえ、オル教えて。もしかしてそれ……コーエンの、スケッチブックのこと?」
思わず手に力が入る。
だって、知っている。コーエンが大事に持っていたものくらい。
見せてもらえなくても。言われなくても。それが大事なんだってことくらい、知っていた。
オルビスは、イベットの腕を掴み返すと、俯いたまま告げた。
「ごめん。イベット。俺だ」
今度は、イベットの目を正面から見て、言った。
「コーエンの、スケッチブックを最初に盗んだのは、俺だ」
イベットは言葉を失った。唇だけが小さく震え、声にならない。
「オルビスだけじゃない。最後は、ワタシ」
エレミアが、小さくため息をついた。
「私がシグリッド様の依頼を断ったから、お鉢がオルビスに回ったんだよね。さすがに『なんかマズイ』って思った。でも………さすがに、十年も前のこと。何も見つかりっこないって、思ってた」
「お前、知って……」
「でもさ、気づいたら私、ウィズダムの前で張り込んでた。そしたらオルビスが……蒼白な顔して出てくるんだもん。何かあったって思うよね。気になって後ろから追いかけた」
イベットは知らなかった。
あの視察の日、そんなことになっていたなんて。もっと早く、気づいていれば――
エレミアは、少しだけ笑った。
「びっくりしたよ。あんたが、『懐かしいもの』持ってるんだもの……コーエンが後生大事に持ってた、スケッチブック」
イベットは、低い声で零した。
「それで、どうしたんですか。エレミアさんは」
エレミアの吊り上がった目に、ほの暗い憎悪が渦巻いた。
「無性に、腹が立ってきた。今までの全てが、このスケッチブックのせいだと思っちゃった。意味わかんないでしょ。だから――今までぐちゃぐちゃにされた分、何かを、ぐちゃぐちゃにしてやりたかった」
イベットは自分の身体に、ドクドクと熱い血が流れるような気がした。
顔がほてる。下手したらあふれ出してしまいそうだ。
イベットは立ち上がった。
歯を食いしばって、息を大きく吸った。
――雨上がりの、匂いがする。
青くしっとりした匂いに、澄んだ冷気がひとさじ。
「――歯、くいしばってください」
パアンっ!!
派手な音が響いた。
エレミアは、何が起こったのか分からないように、頬を押えている。
いつものように笑わず、赤い唇を少しだけ震わせていた。
「もうっ、もうっ、もうっ!!!、世の中、ふざけ、るな!」
エレミアを張った傍から、目から大粒の涙がこぼれだしてきた。
止まらない。次から、次から。
イベットは、ガシガシと目元をぬぐうと、着ていた上着を地面に広げ、爺さんの店で買った肉とワインを片っ端から広げ始めた。
「何してるの、あなた」
「干し肉、食べましょう」
「……は?」
「夜食、です」
イベットは、そう言って、一人で肉を齧った。
エレミアもオルビスもあっけにとられていた。
エレミアは、一瞬だけ目元をぬぐうと、鹿肉を齧った。
「……辛」
オルビスも、肉を齧ると、「辛いな」と言った。
みんな目元が赤かった。




