◆1-3 コーエン・アルミナイトの大抜擢
***
「ちょっと、聞かれました? 第二王女のエリカ・ハノイット様がご婚約なされるらしいわよ! 近々、王城エリアでお祭りも開かれるとか!」
張りのある声がアトリエ二階まで突き抜けた。
反応炉を動かしていたコーエンは、手を止めるより先に嫌な予感がもくもくと広がった。
このうるさい声は、コーエンの知る限り、思いつくのは一人だ。
小窓から階下を覗くと、案の定。
サグ・マーケットのナターシャである。
口元に一応手を添えているが、音量は一切抑えられていない。むしろ増幅している。
受付でアリアナに納品物を渡しながら、早口でまくし立てていた。
誰かに話したくて仕方がなかったのだろう。
コーエンは顔を覆った。
「頼むから早く帰ってくれ……」
*
この日ほど、ナターシャの早期退場を願ったことはない。
サグ・マーケットはハノイット国の西部で有数の商社だ。
そしてナターシャは靴部門担当の古株で、仕事も人脈も申し分ない。
ただし――。
噂話に関してだけは、業界最速だった。
「歩く新聞」
コーエンは密かにそう呼んでいる。
*
「聞きましたよ。エリカ王女のご婚約。とてもおめでたいわ。」
「し・か・も・!お相手はあのレオニダス公爵家のシグリッド様だっていうじゃない。」
「シグリッド様!?あの?マテリアル・カンパニーの副総帥になられた?」
「もう、ご令嬢方は噂でもちきりよ。」
ナターシャとアリアナは、息つく暇もなく興奮している。
よくもまあ、話題が尽きないものだ。
「そういえば、エリカ様で思い出したけど…お姉さま。第一王女様はいかがされたのかしら?ご結婚は…」
「え?第一王女様?」
「いらっしゃったでしょ?私、一度だけ見かけたことがあるのよ。」
「そんなお話、聞いたことがないわよ。第一王子様の間違いじゃない?ほら、数年前にお生まれになった…」
「勘違い…?確かにいらっしゃったはずなんだけど…」
「もしかしたら…幽霊を見たのかも…」
アリアナが冗談めかして言うと、ナターシャは「あら怖い」と笑った。
そしてようやっと帰り支度を始めた。
「そろそろ時間ね。悪いわねアリアナちゃん、長居してしまって」
コーエンは心底ほっとした。そうだ長居のし過ぎだ。
―いいぞ、帰ってくれ。そのまま、まっすぐ。
「あ!いけない、一番、大事なことを忘れていた。婚約の儀式があるなら、当然“靴納めの儀”もあるでしょう?“一級職人”は誰になるのかしら!知ってる?アリアナちゃん?」
コーエンの背筋がさあっと冷えた。
なぜ帰らない。しかも叫ぶんじゃない。
手こそ止めないが、コーエンの心の中では、すでに逃避行が始まっていた。
「ナターシャ、よく聞いてくれたわね」
アリアナが突然鼻息を荒くし始めた。
これは嫌な予感しかしない。
――やめてくれ。
「今回なんと、ウィズダムから一級職人が出るのよ!」
ナターシャは「まあ!そうなの?!」と期待に声を弾ませた。
そして、アリアナは頷くと、意気揚々と言った。
「コーエン・アルミナイトがね!」
その場が、静まり返った。
ついでにコーエンのいる二階まで静まり返った。
ナターシャが申し訳なさそうに、小さくつぶやいた。
「…え、どなた…?」
コーエンは目を閉じた。
――だからそうなるだろう!?
リジェットは、一足遅れて意味を解したらしい。
「ええええええっ!?」
盛大な悲鳴がアトリエに響く。
コーエンはため息をつきながら、リジェットが絡めた糸をほどいてやった。
*
アズソールが帰ってきたのは二日前だった。
例の子供の来訪があったあとも、彼はしばらく姿を見せなかった。
結局、丸三日。
また失踪していたのである。
もっとも、アズソールの失踪は今に始まった話ではない。
アトリエの面々は慣れきっているし、アリアナに至っては、もはや小言すら言わなくなった。――棟梁としてはどうなんだ、という話ではあるが。
根っからの芸術家気質なのだ。
「新しいデザインが降りてきそうだ」とか、
「見たい景色を思い出した」とか。
そんな理由で、ふらりと姿を消す。
最長記録は十日。
そのときはさすがのアリアナも怒ったらしく、十日間口をきいてもらえなかったそうだ。きっちりやり返すから、少し怖い。
だが、アズソールは決して手ぶらで帰ってくる男ではない。
失踪のあとには、必ず何かしらの成果があった。
大ヒット商品のデザイン。
希少なリリー素材。
新しい取引先。
だから皆、文句を言いながらも最終的には許してしまう。
そして今回、彼が持ち帰ったのは――
コーエンの人生を変える知らせだった。
*
三日前。
コーエンは店舗で在庫確認をしていた。
棚の商品数と帳簿を照らし合わせていると、アトリエの鈴が派手に鳴った。
驚いて振り返ると、勢いよく飛び込んできたのはアズソールだった。
どうやら走ってきたらしい。
息は上がり、長い髪も乱れている。
それでも妙に様になるのだから、不公平な男だと思う。
黒のフロックコート。自作のリリー靴。
無駄に整った顔立ちと長い手足。
また派手な格好だなと、コーエンは思った。
*
「アリアナ! 聞いてくれ! いい知らせがある!」
「まあ、三日も行方不明だったアズソールじゃない」
アリアナはにっこり笑ったが、声は凄んでいた。
「どこへ行っていたのかしら?」
「……お?」
アズソールは工房内を見回すと、ようやく異変に気付いた。
「今日はアリアナとコーエンだけか? みんなどこ行った?」
「あなたが営業をさぼるから、代わりにフォルコは出ずっぱりよ。みんなも、忙しいの」
アズソールは視線を逸らした。
「悪かったって。でも、ちょうどよかった」
そしてコーエンを見ると、おもむろに呼びかける。
「おい、コーエン。ちょっと話が――」
アリアナは、ぱしんとその背中を叩いた。
「あなた、話を聞いていたの?仕事の邪魔するんじゃー」
そこまで言って、ふと口を閉ざした。
アズソールの表情から、何かを察したのだろう。
アリアナはしばらく黙り込んだあと、
「……わかったわ」
とだけ言った。
*
アズソール、アリアナ、コーエンの三人は、向かい合って座った。
机の上には人数分のレモン水が置かれ、妙に改まった光景である。
「コーエン、お前に大事な話がある」
アズソールは切り出した。
「…何でしょうか。」
コーエンは、苦虫を噛み潰したような顔のまま答えた。
「……なんでそんな露骨に嫌そうな顔をしてるんだ?」
「あなたが真面目な顔で頼み事をするとき、だいたい碌なことにならないでしょう」
「そうか?」
アズソールは楽しそうに笑い、レモン水を一口飲んだ。
「やっぱうめえな、これ」
のんきな酒飲みみたいなことを言っている。
コーエンは小さく息を吐いて、黙ったまま同じようにレモン水を飲んだ。
アズソールは、そのまま何事もなかったように続ける。
「お前、靴納めの儀に出ろ」
コーエンは数秒固まった。
次の瞬間、盛大にレモン水を吹き出した。
隣では、さすがのアリアナも固まっている。
「……アズソール」
最初に口を開いたのはアリアナだった。
「それはどういう意味?」
「そのままの意味だ」
アズソールは平然としている。
「近々、エリカ王女のご婚約の儀がある。お前に靴をつくってほしいんだと。」
「いやいやいや」
コーエンは思わず早口になる。
「手違いだ。人違いだ。」
「違わないらしいぞ。」
「じゃあ罠だ。」
「お前は王族をなんだと思ってるんだ」
「少なくとも俺を指名するとは思えません」
靴納めの儀。
ハノイットの職人なら誰もが知る名誉である。
王族の婚礼や戴冠式で靴を献上する職人。
選ばれた者は一級職人と呼ばれ、その名は国中に知られる。
そんな場所に自分が立つ。どう考えてもおかしい。
アズソールなら分かる。彼は、リリー靴業界でも指折りの有名人だ。
だが自分は違う。過去の行いを思い起こしても、目立って優れたところなど一つもない。
貴族相手の仕事は避ける。
宣伝もしない。
名声にも興味がない。
むしろ貴族は嫌いだった。
昨日まで褒めていたものを、今日は平然と踏みにじる。
流行や権威で価値を決める。そんな曖昧な世界のために靴を作りたいとは思えなかった。
「俺には別に実力もない。」
コーエンは反射的に手を振った。
「だから、選ばれる理由がありません」
するとアズソールは、あっさり答えた。
「お前さ、前にマテリアル・カンパニーに安全靴を納品しただろ」
「……安全靴?」
予想外すぎる答えだった。
コーエンが設計した、頑丈さと軽さだけを追求した靴。
実用一辺倒。お世辞にも華やかとは言えない。
「それをな、シグリッド様が気に入ったらしい」
アズソールは続ける。
「最近の職人は演出ばかりだってな。だがあの靴には実直さがあると」
コーエンは言葉を失った。
「その話を聞いたエリカ王女も興味を持たれたそうだ」
アズソールがにやりと笑う。
「ぜひ、その職人に作らせろってな」
そこでコーエンは、ようやく理解した。
「……もしかして、この三日の失踪」
「おう」
「王宮に行っていたということですか…?」
「ご名答!」
アズソールは得意げにウインクした。
コーエンは愕然とした。
アズソールは身を乗り出すと、「で、お前はどうする?」と聞いた。
コーエンは黙り込んだ。正直、逃げたい。できることなら今すぐ。
だが――。
「ねえ、アズソール」
アリアナが静かに尋ねた。
「断ったら、どうなるの?」
「王族からのご指名だからな」
アズソールは肩をすくめる。
「業界では生きづらくなるだろうな」
まあそれだけのことだ、と軽く言った。
アリアナは黙ったが、その顔は少し曇っている。
コーエンは小さく息を吐いた。
そして顔を上げる。
「やります」
観念した声だった。
「最初から断る選択肢なんて、ないんでしょう」
アズソールは面白そうに笑う。
「まあ、固くならずにやってみな」
そして気楽に言った。
「案外、楽しいかもしれねえぞ」
ウィズダムの人間はレモン水好きです。茶は高い。
次回、ライバル工房?の職人視点です。




