◆1‐2 三十分の挑戦状
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縫い針を通す手元が、わずかに霞んで見えた。
コーエンは十四足目のつり込み作業の途中で手を止める。
小窓から差し込む光は、いつの間にか橙に沈みはじめていた。
時計の針は、五時を指している。
閉店までは、もう一時間もない。
コーエンは首を左右に鳴らし、短く息を吐いた。
指先の感覚を、いったん整える。
「もう一足だけ作るか……」
灰紫の瞳が、静かに木型に落ちる。
その瞬間、コーエンの周囲から、音が消える。
軽く布に触れると、指先を伝って状態がわかる。
湿度、温度、素材の癖や、流れ。
布を木型へ沿わせると、針を進める方向に迷いはない。
布の皺には“逃がす位置”がある。
状態に合わせた適切な糸がある。
糸に合わせた縫い方がある。
見れば、触れれば、手が動く。
なぜ、そんなふうに縫えるのか。
時々、訊かれる。
別に理由はない。
ただ、「そこにあるもの」に従っているだけだ。
世間はそれを「職人の勘」と呼ぶ。
だがコーエンにとって、それは勘でも何でもない。
ただの現象だ。
コーエンがつり込み部屋から出ると、扉越しにイベットが帳簿に向かっているのが見えた。
店舗は薄暗く、夕方の気配が棚の影に沈んでいる。
コーエンはリリー灯の電源を引いた。
火をともすと、乳白色の光がふわりと広がる。
「わっ」
突然の明るさに、イベットが肩を跳ねさせ、
反射的に何かを引き出しに押し込んだ。
「イベット。灯、つけた方がいいよ。まだ営業してるんだから」
「ああ、コーエン。お疲れ様」
イベットはぎこちなく振り返った。
「まだ見えるし。もったいないじゃない」
「アリアナさんが言ってただろ。閉店までは惜しまなくていいって」
「習慣なのよ。どうにも貧乏性でね」
「悪いことじゃないけどさ」
コーエンは、イベットが記し終えた帳簿を手に取り、ぱらぱらとめくる。
几帳面な文字が、今日の出来事を淡々と並べていた。
イベットはじろりと視線を投げると、コーエンの手から帳簿を取り返した。
「特に変わったことはなかったわ。納品とか、受け渡しとか。そのくらい」
「そっか。店舗番ありがと。何事もなくてよかったよ」
コーエンは、レモン水をグラスに注いで、イベットに差し出した。
イベットはそれを受け取り、呆れたように眉を上げた。
「何事もなくないわよ!サンティス兄さんは反応炉が不調で大騒ぎ。リジェットとテオは巻き込まれて走り回ってる。あんたはつり込み始めたら部屋から出てこないし……」
一息にまくしたて、ため息をついた。
「……まあいいや、コーエン。で、つり込み何個?」
イベットが指をちょいちょいと動かす。
「記録つけるから」
「…十五個」
日報を渡すと、イベットは露骨に嫌そうな顔をした。
「はあ!?十五個?どうなってるのよ、あんたの手。化け物?」
「普通だと思うけど…...」
「うっわ、嫌味な同期」
「失礼だな」
コーエンは小さく笑ってから、ふと引き出しを指した。
「それより、イベット。それ何?」
紙の端がわずかにはみ出している。スケッチブックのような質感だった。
イベットは肩をピクリと動かすと、はみ出た紙の端をおもむろに中へ押し込んだ。
「…何でもないわよ!」
「さっき隠しただろ。見えてたよ」
コーエンは小さく笑った。イベットは昔から、隠すのが下手だ。
「あんた、ほんと目ざといわね」
不満そうに唇を尖らせる。
「シュベルトバイゼン伯爵の例の靴よ。もちろん私のミスじゃないわ。でもちょっと厄介なことになって――」
そのときだった。
アトリエの鈴が、りん、と小さく鳴った。
コーエンは視線を戸口へやる。
何だ?
この時間の来客はめったにないし、事前連絡もない。
コーエンは、違和感を覚えた。
席を立とうとしたイベットを、コーエンは軽く制した。
「僕が出るよ。待ってて」
コーエンは扉を小さく開くと、目を見張った。
外に立っていたのは、子供だった。
擦り切れた濃紺のローブを羽織り、顔はフードでほとんど見えない。
痩せた体が、夕暮れの街に、不自然に浮かんでいるようだった。
「アトリエウィズダムは……ここですか」
虫の鳴くような声が、頼りなくこぼれた。
コーエンは、警戒するように目を細める。
(普通、じゃない。…例の監査、か?それとも――)
コーエンは営業用の笑顔を浮かべたまま答える。
「はい。そうですが、ご用件は?」
子供の肩が小さく跳ねたが、何も言わない。
「...黙っていても分からない。用件を」
風が一筋吹いて、乾いた音をたてた。
子供のローブと、コーエンの灰色の髪が同時に揺れた。
やがて子供は、ゆっくりと手を動かした。
差し出されたのは、”靴”だった。
コーエンは大きく目を見開いた。
――なんだ、これは。
見るからに「壊れている」靴。
靴底は剥がれ、革は裂け、まるで外側から破壊されたかのように形が崩れている。
しかし、コーエンの目を奪ったのは、それだけではなかった。
その素材だ。
今の一度も見たことのないものだ。
反応残渣があるから、リリー素材だろう。
しかし、高級品とも廉価品ともわからない不思議な艶。
リリーの種類も、反応手順も、皆目見当がつかない。
「この靴を直していただけませんか。今、すぐに」
子供の声は小さかった。頼み慣れていない人間の声なのに、不思議と迷いがない。
コーエンの警戒心は消えていない。
消えていないのに。
なぜだか胸が高鳴る。
知りたい。
この靴を、知りたい。
そして気づいたら、コーエンの手は、靴を受け取っていた。
*
「イベット」
店舗へ戻るなり、短く呼ぶ。
「悪いけど、あの子にお茶かミルクを出してやってくれ」
イベットがぽかんとする。
「え?」
「あとで話す」
「ちょっとコーエン、また何を勝手に――」
「三十分」
コーエンは熱っぽく言葉を重ねた。
「閉店まで三十分だ。それまでに仕上げる。終わったら降りる」
そう言い切ると、コーエンは靴を抱えて階段を駆け上がった。
まるで風のようだった。
コーエンは、作業室の扉を開いた。
「サンティス兄さん、お疲れ様です。片付け、まだですよね?」
サンティスは汗をぬぐいながら、満足げな笑顔を振りまいた。
「おう。コーエン、今終わったところだぜ。全く、手ごわい修理だったよ」
しかし、コーエンは一瞥もせずに、サンティスの横をすり抜けた。
そのまま拡大鏡を取りだすと、靴の素材を覗く。
質感。縫い目。残渣の流れ。
帳面に数行だけ書き込むと、今度は戸棚からリリー瓶を抜く。
そして、迷いなくW-6機へ装着した。
「おいおい、お前、話を聞いてたか?今、片づけが終わったんだぞ?コーエン君?」
コーエンは、一瞬だけ止まった。
サンティスはほっとした顔をした。
しかし。
「すみません、借りますね」
コーエンは、問答無用で機械を動かした。
靴自体、強度型ではない。柔らかい。
でも、確かな”弾性”がある。
壊れ方は、まるで強い外圧を受け続けたようだ。
これを直す場合、在庫で組むならイートラ種。
だが硬すぎる。デポン種では弱い。
じゃあ、混ぜてみようか。
炉入り十分。
エージング五分。
底付け十分。
仕上げ五分。
――合計三十分。
サイズ補正をして、インソールを調整。
多分間に合う。
気付けば、口元がわずかに緩む。
初めてだ。こんな靴を見るのは。
職人たちが、リリーを扱えるのは、手順書があるからだ。
書かれているのは、方法だけだ。
何を。どうやって。どれだけ反応させるか。
その先は?
――何もない。
誰も、教えてくれない。
――知ることが、できない。
でも、この靴は違う。
この靴を作った人間は、きっと知っている。
理屈を。法則を。リリーの本質を。
ただの勘だ。
それでも――多分合っている。
これは修理ではない。挑戦状だ。
胸が高鳴ってしょうがない。
*
コーエンは靴を手に階段を降りた。
店ではイベットが子供にデザインブックを見せていた。
さっきまで強張っていた表情は少し和らぎ、二人で何やら話している。
コーエンに気付いたイベットが振り返った。
そして、彼の手にある靴を見るなり顔をしかめる。
「……本当に三十分だったのね。気色悪い」
呆れたようにため息をついた。
「ひどいな」
コーエンは苦笑した。
説明もなく巻き込んでしまったから、多少機嫌が悪いのも無理はない。
コーエンは、子供の前にしゃがみ込み、靴を差し出す。
「これでどうかな」
子供は息を呑んだ。
震える手で靴を受け取ると、その顔に、少しずつ色が戻っていく。
小さな指が、そっと革を撫でると、頬を緩める。
そうして、コーエンを見つめた。
「本当に……本当に。ありがとうございます」
小さな花が咲いたような、笑顔だった。
コーエンは少しだけ居心地悪そうに頭を掻いた。
その後、名前を尋ねても少女は答えなかった。
自分はただの使いだから、名乗る立場ではないのだと言う。
だが帰り際、少女は静かに懐へ手を入れると、コーエンに包みを手渡した。
見た目以上にズシリと重たく、危うく落としそうになった。
「これは…?」
包まれた布を開くと、大量の金貨が光っていた。
イベットも、様子を見に来たサンティスも、布いっぱいに光る金貨を二度見した。
そして、三人の口から絶叫が漏れ出た。
「ええええええ!?」
子供は笑った。
「これで……エピ様が元に戻られるから」
空気に溶けるような小さな声だった。
この国のリリー靴は、木型×リリー布×リリー反応の組み合わせで作ります。
もちろん普通の布や、革もあります。(リリーは高いから)
次回、棟梁が帰宅します。




