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『禁学の靴職人』―手順書しかない国で―  作者: 稲生おこめ
第3幕 「マテリアル・カンパニー」編
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33/48

―閑話②―

 

***

 私は、闇夜をまとった。

 濃紺の飾りのないドレスに、同じ色のストールをふわりと巻く。ひだやレースにまみれたドレスより、さっぱりと肌に冷たく心地いい。

 淡い色は押し付けがましくて嫌いだ。


 ふと、窓の外を見た。

 夜が濃い。


「今日は、朔――」


 私は、王宮の冷たい廊下を東に進んだ。

 バレエシューズはいいわね。

 無駄な音がしないもの。

 時には物陰に身をひそめ、時には真ん中を堂々と歩いた。


 しばらくして、花結晶の扉が見えた。

 私は、周囲を見回し、それをゆっくり開いた。


 びゅう、と夜風が顔に当たった。

 ストールがなびき、私の薄銀の髪が、静かな夜にまきあがった。


 夜の箱庭は、草いきれの蒼い香りがする。

 私は、東屋(ヴェルヴェテ)の方に足を向けた。


 *

 東屋(ヴェルヴェテ)には、橙の灯が朧にともっていた。

 扉を開けて中に入ると、私の目は大きな窓をとらえた。

 箱庭の花たちが、闇を背にして橙色に揺らめいている。


 そこに――男の背中があった。


 ソファに優雅に腰をかけ、片手にワイングラスを持っていた。

 その男は、ゆっくり振り返り、青い目を私に向けた。


「お待ちしてましたよ、エリカ様」


 プラチナブロンドのその男は、流れるように紳士の礼をした。

 私は、いかにも自然に、上から下まで目を走らせた。

 宵闇のようなブラウスに、同じ色のパンタル。

 公務の時と全然違う。

 でも、飾り気のない衣服すら自分色に染め上げるのだから、大したものだと思う。


「シグリッド様、お会いできて嬉しいわ」


 私は、ストールをとると、にこりと花のように微笑んで見せた。


 シグリッドは、真っ赤なワインを注ぐと、グラスをすっとこちらによこした。

 私は、彼のグラスに音を鳴らすようにすると、少しだけ口をつけた。


 シグリッドは、自身もワインに口をつけながら、柔和に問いかけた。


「今日は確か、香の会だったね。好きな香りは見つかったのかな?」

「……ええ。花の香がすきですの。東部地方のご令嬢がお持ちくださったものがすばらしかったわ」

 私は、ごく自然にそう答えた。


 ――においのきついものは、苦手だわ。私は心の中で笑った。


「東部地方か……あそこは、長雨さえなければ、豊かなところだからね。今年は、香の元材の出来が良かったのだろう」

「はい。そのように。嬉しいこと……」


 そこまで言った瞬間、気づけば私の身体はシグリッドの腕の中にあった。


「いかがされました」

「君に会いたくてたまらなかったよ」

 熱を帯びた声と呼吸が、耳元に触れる。


 ――こんなこと囁かれたら、皆、上気するわよね。


 冷静な表情になっていたかもしれない。でも、声には出さない。

 私は、「はい」と答え、彼の腰に手を回してみる。

 彼は、私の髪を梳き、肌を撫でた。


 *

 きっと、朝が近づいていた。

 彼は、私の目の前で、寂しそうに目を伏せた。

「もっと、こうしていたいのに――残酷だね。また明日、公務に戻らねば」

 私は、彼の目を見つめ返した。

 そうして、自分の衣服の中から、ひとつの小瓶を取り出すと、彼の胸に押し付けた。


「例のもの、手に入れましたわ」

 その瞬間、シグリッドの目に、冷酷な光が一筋走る。

 私は、あえてその変化に気づかないフリをした。


「これがあれば本当に、育て人は『解放』されるの?」

「ああ……きっとね」


 シグリッドは、笑った。とても美しく、とてもいびつに。

 彼は、私の頬に一つキスを落とすと、ゆっくりと立ち上がった。


「朝が来る前に――戻るよ」

「……ええ、それがいいわ」


 そう言って、彼は暁の景色に消えていった。

 私は、彼を見送ると、まだ登らぬ朝日を見つめた。


 ――悪いわね。

 あなただけのために、こうしたわけじゃないの。

 私には、私のやりたいことがある。

 決めたの。

 青い靴を履いたから。


 コーエン・アルミナイト。

 礼装にぼさぼさの髪だったわね。

 私はふっと笑った。


 私は別に、『白』でいい。

 せいぜい『白』らしく色でも変えながら、この道を歩いてやろうって。

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