◆4-6 帰れぬ研究者
***
「……今、何て」
コーエンは、聞き違いかと思ったが、確かに呼ばれた気がした。
『エズラ』と。
耳なじみのある響きだ。
それなのに、記憶の欠片が浮かんでは揺らぎ、はっきりとした像を結ばない。
異国の子守歌でも聞いているようだった。
「そうじゃ、忘れておったわ。わし、シグリッド卿から呼ばれていたんじゃ」
エルマーはまたちょいちょいと、白髭をいじった。
「ふぉっふぉ、こう髭をいじっとるとな、色々思い出すんじゃ。これだからやめられん。じゃあ、あとは頼んだぞ。エックハルト君、クラーラ君」
エックハルトは、老人の後ろ姿を呆れた顔で見送ると、気が抜けたようにため息をついた。
「相変わらず変なじいさんだ」
「そう?エルじいの冗談、結構ひねってあるのよ。先輩はほら、真四角だから、理解できなくて疲れちゃうんだよ」
はちみつ色の目をふにゃつかせて笑うクラーラを、エックハルトはじとりと見る。
「お前はじいさんと同類なだけだろう」
「しっつれい。私は若くてかわいいよ?一緒にしちゃだめよ」
クラーラは、不服そうな顔をしたが、エックハルトはきれいに黙殺した。
小さく咳ばらいをすると、時計を一瞥した。
「まあいい。今日はここまでだ」
それだけ言うと、エックハルトはコーエンに鍵を手渡した。
「失くすなよ。替えはない」
コーエンは、手の中に収まった冷たい鍵に視線を落とした。
装飾はないが、鍵刃の作りが妙に複雑。
複製するには骨が折れそうな造りだ。
「この鍵は……?」
「宿舎の鍵だ。今からクラーラに場所だけ説明させる」
クラーラは「えっ」と声をあげた。
自分にお鉢が回るとは思っていなかったようだ。
「……ええと、これ、どこの宿舎だっけ……?」
「南宿舎だ。いい加減覚えろ。お前、もうここに三年も住んでるだろうが」
「広いんだもの、カンパニーの敷地。先輩みたいに道案内は趣味じゃないし」
「ふざけるな。俺も趣味じゃない」
コーエンは、二人の話に思わず眉をひそめた。
この人たちは、カンパニーの敷地の中で暮らしているのだろうか。
そんな話、聞いたことがない。
カンパニーの研究官吏は、セントラルに別邸を構えていることが多かったはずだ。
ウィズダムも何度か館訪問に赴いたことがあったから、そのあたりの事情は知っている。
イベットなんか、「マテカン、どれだけ稼げるのよ!」と、悪態をついていたほどだ。
コーエンは、思わずぽろりと口にした。
「みなさんは......自宅に帰らないのですか」
コーエンの問いかけに、エックハルトとクラーラは会話を止めてこちらを見た。
エックハルトの感情は読めないが、クラーラの目には、あきらかな戸惑いの影が横切った。
――これは、また余計なことを聞いたか。
呆れた顔のアリアナが脳裏に浮かんできたので、コーエンは、何か言わねばと言葉を引っ張り出した。
「......あ、いえ。セントラルに別邸を持っていると聞いたもので、深い意味は」
クラーラは、少し目を見開いた後、ぷっ、と吹き出して、豪快に笑い始めた。
「そういうことね!別邸!はははっ!いいな、私も住みたいな!」
クラーラは笑い涙を浮かべながら、エックハルトに言った。
「先輩、私たちって外には本当に知られていないのね。幽霊みたい」
エックハルトは何か言いたげに眉を寄せたが、クラーラは構わず続けた。
「君も、こっち側に放り込まれたんだから、教えてあげる」
クラーラのふにゃりとした笑みの奥に、さび付いた針のようなものが見えた気がした。
「カンパニーの人間で、好きに外へ出入りできる人は、だいたい飾り物よ」
「飾り物って......?」
コーエンが問い返すと、クラーラは堰を切ったように話した。
「リリーの中枢に関わらない研究者か、パトロンとか。そのあたりの人たちのこと。君だって今まで思っていたでしょう?カンパニーの人間は、手順書を管理している偉いお役人で、華やかな暮らしをしてるって」
コーエンは、クラーラに返す言葉を見失った。
確かに、カンパニーの人間のことを、手順書を管理しているお役人程度にしか思っていなかった。
考えたこともなかった。
コーエンが見ていたのは、カンパニーでつくられた素材であって、その奥にある組織でも人間でもなかった。
「飼い殺しの研究者、とでもいうのかしら」
クラーラはエックハルトの顔を覗き込むと、「そうでしょ、先輩?」と甘えたような声で言った。
「……やめろ、冗談に聞こえない。カンパニーに来たのは、お前だって自分の意思だろ」
エックハルトは、嗜めるように言った。
だが、その言葉はどこか自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
そのまま感情を閉じ込めるように、一度息をつく。
「クラーラの話には、偏見と語弊があるから補足しておく」
エックハルトはコーエンの方に向き直った。先ほどの揺らぎはもう見えなかった。
「厳密に言うと、外に出られないわけじゃない。マザー・リリーに関わりすぎると、監視の対象になるだけだ」
「監視……ですか?」
「ああ。さっき話しただろ。俺らの任務のこと」
コーエンは、品種当ての実験をする前に、エックハルトが言った言葉を思い出した。
――マザー・リリーの生育解析。
彼が、神妙な顔だったことは覚えている。
でも、その任務が一体何なのか、何がまずいのか、聞かされる前に中断されてしまった。
「マザー・リリーは、育てられないんだ……この国で、ただ一人を除いて」
コーエンは、思わず顔を上げた。
ふいに、不吉な鈴が転がるような、あの声が蘇った。
『マザー・リリーの育成、疲れちゃった。デポンもアンテノイドも、みーんな枯らしちゃおうかしら』
「その一人って、まさか……」
思わず、喉から声がこぼれた。
エックハルトは、小さく頷く。
「月下の姫君――ハノイットの、第一王女だ」
コーエンは、頭を抱えた。
悪夢でも見ている気分になった。
この国には、とんでもない王女がいる。
そして、自分は――さらにとんでもないことをした。
彼女の靴を、直してしまったのだ。
よりにもよって。
エピフィラムがなぜ、あそこまであの靴に執着するのか分からないが、自分がなんらかの導火線に火をつけてしまったことだけは、明らかだ。
青ざめているコーエンをよそに、クラーラは補足した。
「第一王女様だけが、なぜリリーを育てられるのか、誰にも解明できないの。シグリッド様でさえ。まるで、神域のど真ん中にいるみたいな人よ」
神域と言われると、確かにエピフィラムは、そうでなければ説明できないような人間だった。
突然、緑の閃光を放ったり、花びらをこねて刃物にする一般人など見たことがない。
クラーラは続けた。
「でもね、絶対『仕掛け』があると思うの。王女様の力には」
「王女様の力に、仕掛け......?」
「そう。この世界に再現できない手順なんてないの。少なくとも、私はそう思ってる。……つまり」
クラーラは、獲物を追い詰めた時のような、熱に浮かされた目をした。
「私たち『ヨコドリ』しようとしてるの。王女様の力――王族の特権を」
「横取りなんて言葉を使うな」
エックハルトは厳しい口調で声を重ねた。
「曖昧なものが曖昧なままでは、いずれ限界が来る。この国の根幹を、一人の人間の資質に預け続けるわけにはいかないだろ」
エックハルトは何かを言い聞かせるような、諦めたような顔をした。
「この国ではマザー・リリーを手中に収めた者が最も……強い。それだけだ」




