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『禁学の靴職人』―靴職人は笑わない王女と世界を縫い直す―  作者: 稲生おこめ
第四幕 「マテリアル・カンパニー」編
27/32

◆4-3 エルマー解析室

 

 ***

 あれから、あの王女が現れることはなく、ただ時が流れて行った。


 コーエンは目を閉じる。

 持ち物はない。

 今、ここにあるのは、自分の身体だけ。

 ウィズダムのことを思った。

 思わないわけがない。


 みんな、どうしている。


 言いようのない感情が、コーエンの胸をしめつけた。


 しいて言うなら、音のしない工房に、

 一人で取り残されてしまったときのような。

 何も持たずに。


 工具も、針も。

 スケッチブックも。


 本当に、何も。


「……またか」


 乾いた声だけが、行きどころもなく零れ落ちた。


 *

 靴音。


 コーエンは伏せていた目を、うっすらと上げた。

 だんだんと近づいてくる。

 固い床を、規則正しく踏む音。


 ――頑固そうだけど、澄んでいる。


 音は、コーエンのいる牢の前で止まった。

 戸口の方に目をやると、がちゃりと鍵の開く音がし、そこから若い男が顔を出した。


 赤味がかった短髪は、すっきりと後ろに流れていて、清潔感がある。

 どこかのお貴族様のようだ。

 目尻は、弧を描くように鋭く跳ね上がっている。


 ――観察する目。


 コーエンは、見られているより、測られているように感じた。


「さっさと着替えろ。五分後には出る。これが制服だ。白衣はまだ着なくていい」


 そう言って、コーエンに衣服を投げてよこした。

 男が身に着けているものと、同じデザインだ。


 襟元を紐で止めるタイプの、薄いブルーのシャツ。

 黒のシンプルなパンタル。

 そして――白衣。


 コーエンは、白衣に触れ、布目の流れを感じた。


 質のいい合花布。

 軽いのに、強い。


 この牢は、王宮の中なのだろうか。


 アトリエでは……着ない。


 布地に触れるだけで、随分遠くに来たように感じた。


 コーエンは、一度だけ、強く、強く、歯をかみしめた。


 そうして、小さく息を吐いた。


「はい」


 コーエンは、短く返事をすると、

 着ていた服を手早く脱ぎ捨て、男から受け取ったシャツに手を通す。


 肌ざわりが、妙に冷たい。

 でも、これでいい。

 

 重たい灰色の霧に飲まれたまま、冷たい雨を浴びたような。

 ぴりりとしたかすかな刺激。


 コーエンは、息を吸った。


 観察しろ。感じろ。

 考えろ。


 なぜ、ここに来なくてはいけなかったのか。

 

 何が起こっているのか。


 ――どうすれば、ウィズダムに、帰れるのか。


 それだけが、多分、今の自分にできることだ。


「時間だ。行くぞ」


 男はちら、とコーエンに視線をやると、そのまま背を向けた。

 

「靴は」

「靴に指定はない。自由だ」

「……はい」


 コーエンは、慣れた靴に足を通す。

 つい、横目で男の靴も見た。


 ――結び目が、均等。


 コーエンは、器用な人だ、と思った。


 *

 男は牢から出ると、扉を抜けて階段を上がる。


「ここは王宮の…地下でしょうか」


 コーエンは、男の背中に問うてみた。


「違う」

「それでは…?」

「黙ってついてこい。行けばわかる」

「……はい」


 登りきると、地上につながる扉があった。

 男は閂を持ち上げる。

 ごとり、と重たい音がし、扉が開く。

 

 コーエンは、目を細めた。

 まぶしい光。

 もう、夏のそれだ。


 目を開き、ゆっくりと景色をとらえる。


 そこには、庭園が広がっていた。


 地下牢の上が、こんな景色だったとは。

 

 それにしても――ここは、どこだ。

 王宮から――アトリエ街からどのくらい離れている。

 コーエンはあたりを見回す。


 丁寧に整えられた青ツツジ。

 噴水からは、心地よい水音が聞こえ、陽光が反射して虹色のベールがかかる。

 白いベンチがぽつぽつと置かれ、たまに、制服の人間が腰を掛けている。

 ずいぶんと広い敷地だ。


 赤髪の男は、だだっぴろい庭園を突っ切ると、

 巨大な四角い建物が立ち並ぶ一角までやってきた。


 随分長くて、随分高い。

 一棟、二棟……五棟はある。

 そのうちいくつかは、大きな煙突がついており、白い煙を吐いている。


 レンガ造りのウィズダムの工房の素朴さや、

 王城の荘厳さに比べると、無機質で特徴がない。


 ただ、四角くて長い。


 見上げているうちに、男は、その四角の中に吸い込まれていった。

 コーエンは、駆け足でその後ろを追った。


 灰色の花結晶に小さい白斑点が浮かぶ、やたら長い廊下を歩く。

 奥に行くにしたがって、灯がどんどん減っていく。

 

 窓がなくなり、日差しが遠くなる。

 コーエンは、じとりと汗をかいた。


 男は、最奥の部屋の前で足を止め、扉をたたいた。

 

「エルマー室長、コーエン・アルミナイトを連れてまいりました」

「その声は……エックハルトだね。入りなさい。っふぉっ」


 赤髪の男が、扉を開いた。


 暗闇の中に、薄橙の怪しい光が蠢いていた。

 

 光の奥に――

 木。

 のような老人。

 が、白衣を着ている――


 コーエンが、生唾をごくり、と飲んだ時だった。


「ああ!エルじい、ひげ!」


 赤髪の男――エックハルトが叫んだ。


「ふぉ?」

「残渣だよ!残渣!」


 エックハルトが、入口にあったつまみを回すと、

 部屋に灯がぱっとともった。


 エルじい、と呼ばれた老木老人の白髭の部分に、粉がついている。

 そして、シュウシュウと細い煙を上げている。


「ふぉふぉふぉ」


 エックハルトは、短く舌打ちをすると、水瓶に手を伸ばそうとした。


 その時――


 老木老人が、盛大に水をかぶった。

 白髭から水がしたたり落ちる。


「あっぶないなあ、エルじい。やけどしちゃうよ。老人は温度を感じにくいんだから注意しなくちゃ」


 はちみつ色の髪を結い上げた女が、笑顔でバケツを担いでいた。


「ふぉふぉふぉ、クラーラくん、もう少しいたわれんかの?」

「あ、ごめんなさい。一番合理的だと思って」


 はちみつ髪は、大真面目に言う。


「クラーラ」


 エックハルトは、声に怒気をにじませた。


 どうやら、散水の巻き添えになったらしい。派手に濡れていた。


「あら、やだエックハルト先輩、いたの?水浸しにしちゃった。ごめん」


「……今すぐ、ふけ!」


 はちみつ髪の女――クラーラは、にへっと笑って頭をかくと、

 エックハルトの奥のコーエンに目を留めた。


「あら?見慣れない顔ね。ああ、もしかして、さらわれた一級職人さん?」

「そうだ、非常に不本意だが、シグリッド副総帥のご命令だから逆らえないだろう」


「じゃあ、カンパニーの……『エルマー解析室』にくるのね」


 クラーラは再び、にへっと笑った。


「よろしくね、職人さん」



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