◆4-3 エルマー解析室
***
あれから、あの王女が現れることはなく、ただ時が流れて行った。
コーエンは目を閉じる。
持ち物はない。
今、ここにあるのは、自分の身体だけ。
ウィズダムのことを思った。
思わないわけがない。
みんな、どうしている。
言いようのない感情が、コーエンの胸をしめつけた。
しいて言うなら、音のしない工房に、
一人で取り残されてしまったときのような。
何も持たずに。
工具も、針も。
スケッチブックも。
本当に、何も。
「……またか」
乾いた声だけが、行きどころもなく零れ落ちた。
*
靴音。
コーエンは伏せていた目を、うっすらと上げた。
だんだんと近づいてくる。
固い床を、規則正しく踏む音。
――頑固そうだけど、澄んでいる。
音は、コーエンのいる牢の前で止まった。
戸口の方に目をやると、がちゃりと鍵の開く音がし、そこから若い男が顔を出した。
赤味がかった短髪は、すっきりと後ろに流れていて、清潔感がある。
どこかのお貴族様のようだ。
目尻は、弧を描くように鋭く跳ね上がっている。
――観察する目。
コーエンは、見られているより、測られているように感じた。
「さっさと着替えろ。五分後には出る。これが制服だ。白衣はまだ着なくていい」
そう言って、コーエンに衣服を投げてよこした。
男が身に着けているものと、同じデザインだ。
襟元を紐で止めるタイプの、薄いブルーのシャツ。
黒のシンプルなパンタル。
そして――白衣。
コーエンは、白衣に触れ、布目の流れを感じた。
質のいい合花布。
軽いのに、強い。
この牢は、王宮の中なのだろうか。
アトリエでは……着ない。
布地に触れるだけで、随分遠くに来たように感じた。
コーエンは、一度だけ、強く、強く、歯をかみしめた。
そうして、小さく息を吐いた。
「はい」
コーエンは、短く返事をすると、
着ていた服を手早く脱ぎ捨て、男から受け取ったシャツに手を通す。
肌ざわりが、妙に冷たい。
でも、これでいい。
重たい灰色の霧に飲まれたまま、冷たい雨を浴びたような。
ぴりりとしたかすかな刺激。
コーエンは、息を吸った。
観察しろ。感じろ。
考えろ。
なぜ、ここに来なくてはいけなかったのか。
何が起こっているのか。
――どうすれば、ウィズダムに、帰れるのか。
それだけが、多分、今の自分にできることだ。
「時間だ。行くぞ」
男はちら、とコーエンに視線をやると、そのまま背を向けた。
「靴は」
「靴に指定はない。自由だ」
「……はい」
コーエンは、慣れた靴に足を通す。
つい、横目で男の靴も見た。
――結び目が、均等。
コーエンは、器用な人だ、と思った。
*
男は牢から出ると、扉を抜けて階段を上がる。
「ここは王宮の…地下でしょうか」
コーエンは、男の背中に問うてみた。
「違う」
「それでは…?」
「黙ってついてこい。行けばわかる」
「……はい」
登りきると、地上につながる扉があった。
男は閂を持ち上げる。
ごとり、と重たい音がし、扉が開く。
コーエンは、目を細めた。
まぶしい光。
もう、夏のそれだ。
目を開き、ゆっくりと景色をとらえる。
そこには、庭園が広がっていた。
地下牢の上が、こんな景色だったとは。
それにしても――ここは、どこだ。
王宮から――アトリエ街からどのくらい離れている。
コーエンはあたりを見回す。
丁寧に整えられた青ツツジ。
噴水からは、心地よい水音が聞こえ、陽光が反射して虹色のベールがかかる。
白いベンチがぽつぽつと置かれ、たまに、制服の人間が腰を掛けている。
ずいぶんと広い敷地だ。
赤髪の男は、だだっぴろい庭園を突っ切ると、
巨大な四角い建物が立ち並ぶ一角までやってきた。
随分長くて、随分高い。
一棟、二棟……五棟はある。
そのうちいくつかは、大きな煙突がついており、白い煙を吐いている。
レンガ造りのウィズダムの工房の素朴さや、
王城の荘厳さに比べると、無機質で特徴がない。
ただ、四角くて長い。
見上げているうちに、男は、その四角の中に吸い込まれていった。
コーエンは、駆け足でその後ろを追った。
灰色の花結晶に小さい白斑点が浮かぶ、やたら長い廊下を歩く。
奥に行くにしたがって、灯がどんどん減っていく。
窓がなくなり、日差しが遠くなる。
コーエンは、じとりと汗をかいた。
男は、最奥の部屋の前で足を止め、扉をたたいた。
「エルマー室長、コーエン・アルミナイトを連れてまいりました」
「その声は……エックハルトだね。入りなさい。っふぉっ」
赤髪の男が、扉を開いた。
暗闇の中に、薄橙の怪しい光が蠢いていた。
光の奥に――
木。
のような老人。
が、白衣を着ている――
コーエンが、生唾をごくり、と飲んだ時だった。
「ああ!エルじい、ひげ!」
赤髪の男――エックハルトが叫んだ。
「ふぉ?」
「残渣だよ!残渣!」
エックハルトが、入口にあったつまみを回すと、
部屋に灯がぱっとともった。
エルじい、と呼ばれた老木老人の白髭の部分に、粉がついている。
そして、シュウシュウと細い煙を上げている。
「ふぉふぉふぉ」
エックハルトは、短く舌打ちをすると、水瓶に手を伸ばそうとした。
その時――
老木老人が、盛大に水をかぶった。
白髭から水がしたたり落ちる。
「あっぶないなあ、エルじい。やけどしちゃうよ。老人は温度を感じにくいんだから注意しなくちゃ」
はちみつ色の髪を結い上げた女が、笑顔でバケツを担いでいた。
「ふぉふぉふぉ、クラーラくん、もう少しいたわれんかの?」
「あ、ごめんなさい。一番合理的だと思って」
はちみつ髪は、大真面目に言う。
「クラーラ」
エックハルトは、声に怒気をにじませた。
どうやら、散水の巻き添えになったらしい。派手に濡れていた。
「あら、やだエックハルト先輩、いたの?水浸しにしちゃった。ごめん」
「……今すぐ、ふけ!」
はちみつ髪の女――クラーラは、にへっと笑って頭をかくと、
エックハルトの奥のコーエンに目を留めた。
「あら?見慣れない顔ね。ああ、もしかして、さらわれた一級職人さん?」
「そうだ、非常に不本意だが、シグリッド副総帥のご命令だから逆らえないだろう」
「じゃあ、カンパニーの……『エルマー解析室』にくるのね」
クラーラは再び、にへっと笑った。
「よろしくね、職人さん」




