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◆3-5 猫毛とはなむけ


***

初夏の陽光は、ハノイットの王城を柔らかに包みこむ。庭園の木々は風にそよぎ、浮き足立つ街に、瑞々しい香りを運んでいた。


“婚約の儀”当日。


王城の回廊は、各地方の貴族たちで賑わっていた。

部屋の中央には、しっくりと仕立ての良いドレスウェアや、勲章つきの軍服に身を包んだ紳士たち。

やわらかな光が降り注ぐ窓の近くには、色鮮やかな衣装の淑女たち。

レースはたっぷりとしており、艶やかな光沢は思わず触れたくなるほどに見事である。

彼女たちは、まるでバラのように、顔を赤く上気させていた。


「知っていらして?今回の一級職人は、シグリッド様がお選びになったそうよ!」

「シグリッド様が自ら?まあまあ!」

「エリカ様が羨ましくってよ」

「シグリッド様のお声だけでも尊いのに、お姿を見られるなんて!ああ、楽しみ!」

「……ところでその一級職人…何という名前でしたかしら」

「そうね、そう。名前は……」


誰も思い出せなかった。


その頃。

名前を忘れられた一級職人、コーエン・アルミナイトは、儀式用の礼服に渋々手を通していた。

ご丁寧に、事前に王宮からアトリエ宛に支給されていたのである。


「どこが地味なんだ。くそっ、あの侍女……」


鏡に映った自分を見て、コーエンはため息をついた。

地味に誂えた、と言われていた衣装は想像以上にきらびやかだった。

膝下まである青藍のコートと同じ色のパンタル。

いたるところに王家の紋章が精緻に縫い取られ、華やかなことこの上ない。

コーエンには豪華すぎる。まるで、浮ついた貴族のようだ。

自分なんて、着古したコットンと革エプロンくらいでちょうどいいのに。


王宮からの迎えを待つため、コーエンはアトリエに足を踏み入れた。

まるで盗人のように、辺りを窺う。


「よし。誰もいないな……」

ほっと胸をなでおろした。


王族の婚約式とあって、この日のウィズダムは定休日。

泊まり込みの自分以外、工房に訪れるものはいなかった。

縫製機の音も、話し声も聞こえない。

がらんと静かで、初夏の日差しだけが静かに佇んでいる。

いいぞ。これでいい。

誰にも見られず王宮に赴き、誰にも見られず帰る。

だって、こんな姿なんて見られたら、兄さんたちにどれだけ茶化される――。


「まじかよ、コーエン!」

「お~!見違えたぞ。お前、実は見栄えのいい奴だったんだな」

「カッコいいじゃない、コーエン!」


コーエンは耳を疑った。

ついでに目も疑った。

フォルコ、サンティス、アズソール、そして、アリアナさん。

イベット以外が、突然裏口からガヤガヤとなだれ込んできた。

どうなっている。今日は休暇だろうが。


アズソールが笑う。

「お前を見送りに来たに決まってるだろう?」

「見送りって……本当に、いらないです」

「かわいくないこと言うな!初のお前の晴れ舞台だ。ドーンと送り出したいじゃねえか」

そういって、アズソールはコーエンの頭をわしわし撫でまわした。


「やめろ、アズソール、本当にやめろ」

コーエンが顔をひきつらせた時、またしても裏口に人影が現れた。

今度はイベットである。


イベットは、コーエンの姿を捉えるや否や、ばすん、と荷物を落とした。

呆然とコーエンを見つめる。

「よう、イベット。なんだ、お前、惚れ直したか?かわいいところあるじゃねえか」

アズソールが茶化すと、イベットは俯いてわなわなと震え始めた。


「……コーエン、それはだめ」

そして、勢いよく顔を上げる。

「その髪型、絶対に、ダメ!!!!」

イベットは叫ぶように吐き捨てると、疾風のごとく部屋を出て行き、謎の薬瓶を掴んで戻ってきた。


「その髪よ!猫毛!全部台無しよ!『ふわふわでかわいいですね~』じゃないのよ!」


そういって、コーエンの頭を力ずくで引き寄せると、薬瓶から液体をばしゃばしゃと手にとる。

そして、コーエンの髪をガシガシ掻き上げはじめた。


「おい、やめろ、イベット。何してんだよ!」


コーエンは何が行われているのかがわからず、

必死に抵抗する。


「じっとして!」

「かっこいいお貴族様はね、もっとこうスッキリと後ろに髪を掻き上げて...…」


そこまで言って、イベットが沈黙した。

コーエンはその隙を見て立ちあがろうとしたが、

「動かない!」と怒鳴られた。


イベットは首を傾げてから、再び液体を塗り、

髪を整える。


「なんで!?」

イベットが叫んだ。

「なんでこうなるの!?」


コーエンは即座に立ち上がって鏡を見た。

「誰だこれ!?」


そこには、哀愁が漂うヘタレ髪の妖怪がいた。

他でもない。自分である。

髪はぺたりと潰れ、貴族風の掻き上げスタイルどころの話ではなくなっていた。


ことの成り行きを唖然とみていたサンティスが、堪え切れずに吹き出す。

「すごいな!路地と路地の間に挟まった人みたいだ!」

そう言ってゲラゲラ笑うと、イベットが悔しそうに叫ぶ。

「普通は挟まらないの!!もう!」


結局。

誰にもどうにもできなかった。

コーエンは洗面台で薬剤を洗い流し、かろうじて妖怪は免れた。濡れた髪を拭きながら、ため息混じりに伝える。

「もういいよ。大事なのは僕じゃない。靴だから」

イベットは、決まりが悪そうに、

「かっこよくみせてあげたかったのよ」

ポツリと言った。


その時。アトリエの鈴がなった。

「コーエン・アルミナイト様、お時間です」

「じゃあ、行ってくるよ」


皆が見守る中、コーエンはそっと、

アトリエを後にした。


王城への道すがら、流れる景色を見るともなしに、見た。

ほんの少しだけ、寂しい思いがした。

献上靴づくりは、なんだかんだ楽しかった。

普段は見られない景色を見られたから。


明日からは、またいつもの日常が戻って来る。

やるべきことは山のようにある。


まずは量産のノルマをこなそう。

そろそろアズソールの個展準備だ。

そうだ、アトリエの作業台の整理もしよう……。


アトリエの作業台を思い起こした時、

コーエンの背筋を、小さな違和感がかすめて行った。

――あれ?

最後に見たのはいつだった。

手順書と一緒に置いていた、スケッチブック。

ここ数日は見ていない。触ってもいない。

なのに……。なぜか”そこにある”という確証が持てなかった。


コーエンは首を振る。

きっと思い過ごしだ。緊張でもしているのだろう。

どちらにしても今考えることじゃない。

帰ったら、きっといつもの場所に、あるはずだ。

そう自分に言い聞かせるように、コーエンは王城へ道を進んだ。


お読みいただきありがとうございました。

コーエンが身に着けている「パンタル」は「パンタルーン」のもじりです。

「パンタル」は存在しません。長ズボンです。

次は「靴納めの儀」です。やっと納品できそうです。

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