◆3-4 躊躇い
***
「緑色だね」
イベットが眉を顰める。
「緑色だろ。お手上げだ」
大男が肩をすくめた。
「何度見ても、緑だな!」
派手な顔の男が笑う。
作業台の上には、一枚の合花布が広げられていた。
見事なまでの緑色の。
見習い奉公の少年は、涙目になってイベットにすり寄った。
「どうしよう、イベット姉さん。これ、サグさんに明後日納品なんだよう。なのに緑になっちゃった。ほんとは緑じゃないのに。紫なのに」
イベットは困ったように少年に向き合う。
「落ち着いて。テオ、どうしてこうなったの?」
「分からないんだ。昨日はちゃんと紫だったのに。さっき保管庫から取り出したら、こうなってて」
テオは眉をへの字にまげる。
イベットは、机に置かれていた手順書と布を見比べると、ますます怪訝そうな顔を浮かべた。
「手順書と何か違うことをした?」
「してないよ!そんなこと、僕しないよ。やっぱり、コーエン兄さんにも聞いてみようかな……」
イベットたちのやり取りを遠くに聞きながら、オルビスも布を手に取ってみた。
ひどい有様だ。
緑色の中に、少しだけ紫色の名残がある。
まるで、まだらに残ったシミだ。
申し訳ないけど、正直みすぼらしい。
こんな状態なら、諦めた方が早い。
――緑から紫に変えるなんて小細工、できるわけがない。
だって、そんな手順書は、ここにないのだから。
「…オル?聞こえてる?」
突然の声に、オルビスは、はじかれたように、布を手から離した。
「え?」
イベットが、様子を伺うような顔で、こちらを見つめていた。
「ごめんね、その。難しい顔してるように見えたから。こっちのことに巻き込んで、気を悪くしたかと……」
「いや。違うよ。その……考えごとをしてただけで」
「オルは何か……ある?」
「何かって?」
「オルはなんでも知ってるし、何かいいアイデアがあるかなって」
オルビスは、視線を泳がせた。
さっさと諦めたら?
――なんて言えるわけもない。
オルビスは、口ごもった。
*
「何かあったの?」
背後から無機質な声がした。
オルビスは、とっさに声の方向を振り返る。
整えられていない灰色の髪。
やせ細った身体。
感情が映らない紫色の目。
コーエン・アルミナイトだった。
「コーエン兄さん!来てくれたの?」
テオが、ぱあっと顔を輝かせると、その横でイベットがしっかり嚙みついた。
「ちょっと、コーエン!何で来たのよ!自分の作品仕上げなさいよ!」
「何でって……さっきから全部聞こえてる。気になって集中できない」
コーエン・アルミナイトは、慣れたように小言を受け流すと、不意に、オルビスの方に視線をよこした。
「……あ。お客さん?」
そう呟くと、小さく会釈をした。
大男が、コーエンに指示を出す。
「まあ、いい。コーエン。状態を見てやれ。無理そうなら作り直しだ。それでアリアナさんに報告だ」
コーエンは小さく頷くと、例の布を手に取った。
「ひどい緑色だね」
コーエンは布目を拡大鏡で見た後、今度は片目をつぶりながら、光に透かす。
「本当は、何色だったの?」
「紫だよ。藤の花みたいな淡い紫。」
テオが答える。
「そっか……いつからこうなった?」
「朝。布を取り出した時」
テオは指をもじもじさせながら説明する。
コーエンが、布の表面を指先で挟むようにしてなぞると、スウッという衣擦れの音が聞こえた。
コーエンはしばらく考えると、口を開いた。
「テオ。保管庫の蓋、ちゃんと閉めた?」
「え、蓋?閉めたと思うけど……」
そこまで答えて、テオの顔色が変わる。
「あ」
「それだね。少し布が湿ってる。そのせいで反応が弱かったんだと思う」
コーエンは淡々と続けた。
「フォルコ兄さん、反応炉で熱だけ十五分追加お願いしていいですか」
「お、おう」
「サンティス兄さんは、それをすぐに冷やして下さい。一回反応してるから、黒くなりやすいと思います。様子見ながら調整してください」
「いいけどさ、それで元に戻るのか?」
サンティスが問いかけると、コーエンは考えを巡らすように、少しだけ俯く。
そして、顔を上げる。
「はい。戻ると思います」
*
フォルコが熱を与えた布をサンティスが冷やすと、布の状態が明らかに変わった。
緑から……淡紫色へ、ゆっくりと変化した。
「うわ、気持ち悪!ほんとじゃん」
イベットは露骨に顔をしかめたが、フォルコもサンティスも、安心したように息をついた。
オルビスは妙な感覚に襲われた。
足元が、ゆっくり沈んでいくような感覚だ。
――なんなんだ、こいつは。
まるで、ありもしない手順書を、読んでいるみたいじゃないか。
アカデミーでも、ルディックスでも、こんな奴を見たことがない。
オルビスは、いつだって努力した。
書籍は何度も読み返した。
手順書はたくさん書き写した。
夜遅くまで、知識を頭に叩き込んだ。
でも、それ以上は何もない。
職人にできることなど、知れている。
自分が必死で積み上げてきたものを、
コーエン・アルミナイトは、呼吸でもするように使っている。
誇ることもない。見せびらかすこともない。
――普通じゃない。
こいつは、何を知っている?
オルビスの胸に、ざらつく疑念が渦を巻く。
*
オルビスは静かに部屋を出た。
皆が修正に夢中になっている隙を狙って。
反応炉の前には誰もいない。
隣はキッチン。その奥が仮眠室。
仮眠室の隅には、小さな作業台。
オルビスは足を止めた。
目の端が、水のような揺らめきを捉えた。
吸い寄せられるように、作業台に近づく。
「これは……」
オルビスは息を飲み、”それ”に触れた。
作りかけの献上靴だった。
気品のある輪郭。
布地に浮かぶ幻想的な水紋。
そして、目を奪うほど鮮烈な青。
清流の青でも、空色でもない。
もっと深く。
もっと激しい。
見る角度によって色が変わる。
何ものでもない、光る、青。
オルビスは、こんな”青”を見たことがなかった。
安らぐような。奮い立つような。切ないような。
こんな”青”を知らなかった。
「なぜ、こんな、色が出せる……」
その時だった。
ふと、作業台の脇に積まれた本が目に入る。
マザー・リリーの反応便覧。
手順書。
そして、埋もれるように置かれた、
古びたスケッチブック。
オルビスは何気なく手に取る。
ページをめくり、目を疑った。
何かの模式図に系統図。
数字の羅列。
捩れた線に、にじんだインク。
反応便覧でも、手順書でも見たことがない。
「なんだ、これ……」
背筋がぞくり、と寒くなった。
オルビスには、それが何者かわからなかった。
それでも、これが得体の知れない異物であることくらい、充分にわかった。
オルビスは、ふいに上役の声を思い出した。
――コーエン・アルミナイトの技術を学んでおいで。
オルビスは苦笑した。
「学べって……そういうことか。遠回しに言いやがって」
オルビスは、吐き捨てるように独り言ちた。
ずっと違和感だった。
なぜ、視察に行かされたのか。
なぜ、ウィズダムなのか。
コーエンの、リリーへの異常な理解。
設計の速さ。
洞察力。
きっと、異質さに気づいた奴がいるのだ。
自分と同じように。
そして、探りに行かされた。
何のためかはわからない。
報告すべきか。とぼけて帰るか。
きっと、持ち出すべきではない。
オルビスは頭ではわかっていた。
それなのに、このスケッチブックが心をとらえて離さない。
これを持って帰れば手柄になるだろう。
これを持って帰れば――きっと分かる。
コーエンが、何を知っているのか。
自分は、何を知らないのか。
――怖い。でも、知りたい。
オルビスは、震える手でスケッチブックを懐に隠した。
*
「オル、何してるの」
背後から声がした。
オルビスは飛び上がりそうになった。
「あ、ああ、イベット」
掠れた声になった。
「もう一度、展示室に行こうとしたら迷ってしまって」
汗が背中を伝う。
自分が何を言っているのか分からなかった。
「献上靴を、見に来たの?」
イベットの声が低く落ちる。
オルビスは反射的に取り繕った。
「え、ああ。これは献上靴だったのか。青リリーの試作品かと思ったよ」
言った瞬間、失敗したと悟った。
イベットの目が細くなる。
「オル」
静かな声がおちる。
「ルディックスで、何を頼まれたの」
オルビスの背筋がすうっと冷えた。
「ち、違う」
琥珀色の瞳に怒りが灯る。
「これはウィズダムにとって大切なものよ。そんなこと、わかっているわよね?」
言葉が出てこない。
のどから、出てこない。
「帰りましょう。マクラーゲン様」
イベットは冷静に言った。
「せっかく来てくださったのに、今日は、色々、ごめんなさい」
その顔はオルビスの目を、見てくれない。
「出口までお送りします」
そう言って背を向けた。
オルビスは、その背中を見つめることしかできなかった。
懐に入れたスケッチブックは、妙に重たかった。




