【第4話】敵国での受難と決死の逃亡
アストリア王国の王宮は、美しくも冷徹な牢獄のようだった。
到着してから三日。歓迎の宴と称した場でも、私に与えられたのは王子の「所有物」としての冷ややかな視線だけだった。
「どうした、フィオレーナ王女。そんなに青い顔をして。我が国の酒が口に合わぬか?」
カイル王子は、わざとらしく私のグラスに強い酒を注ぎ足し、ニヤニヤと笑う。
周囲の貴族たちも、小国の王女を嘲笑うような目を向けている。私は震える指先を隠すように、ドレスの裾を強く握りしめた。
「……恐れ入ります、カイル様。少し、旅の疲れが出たようです」
「ほう。ならば、今夜は私の部屋でゆっくりと休むがいい。お前の国の父王も、それを望んでいるはずだぞ」
王子の手が、私の肩に馴れ馴れしく触れる。その指先が這い上がるたび、寒気が背中を駆け抜けた。
助けを求めて視線を走らせると、ホールの隅で控えるジークヴァルトと目が合った。
彼は無表情を貫いている。けれど、その青い瞳は鋭くカイル王子の手元を射抜いていた。甲冑の下で、彼がどれほどの怒りを押し殺しているか、私には痛いほど伝わってきた。
その夜。事態は最悪の形で動いた。
カイル王子が強引に私の寝所に押し入ろうとし、それを阻んだジークヴァルトと言い争いになったのだ。
「無礼者め! たかが騎士が、この私に剣を向けるつもりか!」
「……王女殿下は、まだ貴国の妃となったわけではありません。不当な要求から主を守るのが、私の職務です」
ジークヴァルトの声は低く、ひび割れた氷のように鋭い。
カイル王子は顔を真っ赤にし、忌々しげに吐き捨てた。
「いいだろう。ならば、その『職務』とやらを今すぐ解いてやる! この男を捕らえよ! 王女に対する不敬罪だ!」
王子の合図で、周囲から武装した兵たちが現れる。
私は叫ぼうとしたが、それよりも早く、ジークヴァルトが私の手を強く引いた。
「フィオレーナ様、失礼します!」
彼は迷うことなく私を抱き上げると、窓からバルコニーへと躍り出た。
背後で兵たちの怒号と、追いかけてくる足音が響く。
夜の王宮を、彼は私を抱えたまま、影のように駆け抜けた。
ようやく追っ手を振り切り、森の奥深くにある古びた小屋に逃げ込んだ時、月は高く昇っていた。
ジークヴァルトは私をそっと下ろすと、壁に背を預けて荒い息をつく。見れば、彼の腕や脇腹からは、逃走の際に受けた傷から血が滲んでいた。
「ジークヴァルト! 血が……どうして、あんな無茶を……」
「……すみません。あなたを、これ以上あの場所にいさせるわけにはいかなかった」
彼は苦しげに顔を歪め、血に汚れた革手袋を脱ぎ捨てた。
露わになった彼の指先が、震えながら私の頬に触れる。
「私は、最低の騎士です。あなたの縁談を壊し、命まで危険に晒した。……けれど、あんな男に、あなたを汚されるくらいなら……私は、国を捨ててでも、あなたを連れ去りたいと思ってしまった」
剥き出しになった彼の本音。
鉄仮面の奥に隠されていたのは、忠誠心などという言葉では縛れない、暗く、熱い執着だった。
「フィオレーナ様。……今はまだ、追っ手が近くにいます。無事に国へ帰り、あなたの安全を確保できたその時……私は騎士としてではなく、『一人の男として伝えたいこと』があります。その時まで、どうか私を許さないでいてください」
その言葉は、まるで自分自身にかけた呪いを解くための誓いのようだった。
「ジークヴァルト……ええ、待っているわ。私も、あなたに伝えたいことがたくさんあるの」
暗い小屋の中、私たちは互いの体温だけを頼りに、夜が明けるのを待った。




