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09 立案(3)

「何かお困りでしょうか」


 突然背後から声をかけられて、心臓が止まるほど驚いた。

 勢いよく立ち上がり振り返ると、急激な動作にめまいがして、倒れこむ。

「お嬢様!」

 ゼトアが床に座り込んだ私に手を伸ばした。

「申し訳ありません、いきなりお声をかけて驚かせてしまいました」

 ゼトアに体を支えられながら立ち上がる。

 心臓の収縮はまだ収まらない。

「お茶をお持ちしたのですが」

 申し訳なさそうにゼトアが言う。

 私が広げている書物の横に、ティーセットが置かれていた。

 カップとティーポット、それに、

「これ、クッキー・・・」

「少しでも召し上がれるといいかと思いまして」

 赤やオレンジのジャムが塗られて焼かれたクッキーが5枚ほど乗ったお皿が添えられていた。

「申し訳ありません。食事の準備は私の仕事ではないためご用意できませんで」

 ゼトアの私への対応はとても丁寧だ。ヴィスコス公爵家の中では異質なほどに。

「こんなものしかご用意できませんでした」


 私の味覚と嗅覚がないことは、すでにゼトアも承知している。その原因が、メイドたちが私に与える腐った食事であることも、知っている。

 だが、各自に割り当てられた仕事があり、その枠から外れることはできないようだ。ゼトアには、まだその枠を超えて動けるだけの権限が持たせられていないのだろう。私の食事に手を出せないことに、ゼトアは自分の弱い立場を歯がゆく思っているらしい。

 なぜ、この男は私にそこまで優しくするのだろう。

 黙り込んだ私に、ゼトアは訝しむ。

「どうなさいましたか、お嬢様」

「・・・どうして、私にやさしくするの」

 その裏にある魂胆が見えないから、ゼトアの好意らしき行動を素直に受け入れられなかった。いずれ私の「専属執事」となると分かっても、なぜゼトアがその選択をするのか、その理由が分からないのだ。

 戸惑う私の心情をすぐに察知したゼトアが、やわらかく笑んだ。

「私はこのヴィスコス公爵家に勤め始めてまだ1年足らずです。正直申し上げて、私はヴィスコス公爵家に忠誠を誓っているわけではありません。ただ、執事として雇用いただく機会があり、給金の額に納得できたから、こうして務めております」

 ゼトアは淡々と語る。本当にヴィスコス公爵家に対して、何の思い入れもないようだ。

「ここにきて初めて私が敬意を払ったのが、お嬢様のコーヒーです」

 いきなりコーヒーが話題に上り、驚いた。

 驚く私を、ゼトアは楽し気に見る。

「私がお嬢様にやさしくする理由をお知りになりたいのですね」

 ゼトアが声を潜めた。

「また、あのコーヒーを味わいたいという魂胆があるからですよ」


 本気で言っているのだろうか。

 ただ、嫌な気分にはならない。

 むしろ、私も楽しくなってきた。


「じゃあ、また豆を焙煎しないと」

「微力ながら、私もお手伝いいたしましょう」

 私たちは目を合わせて、笑った。


 ゼトアが紅茶をカップに注いでくれた。

 書庫内に、紅茶の香りがかすかに混ざる。

 マロウとゼトアのおかげで、最近は腐っていないものも摂取できるようになってきた。味は分からないが、口に入れる瞬間の嫌悪感だけでもなくなるのはありがたかった。

「クッキーはお食べになれますか?」

 聞かれて、少し考えた。バターや小麦粉を、この体は消化できるだろうか。自信はないけど、

「食べてみるわ」

 一枚とって、端っこを噛んでみた。カリッと音とともに、口の中にクッキーのかけらが入ってくる。

 やはり、味はない。

 だが、触感が新鮮だった。かみ砕くときの歯への抵抗感だけは、分かったから。

 クッキーを半分ほど食べて、私の手が止まった。すでに気持ちは満足していて、これ以上は食べる気持ちが無くなってしまった。手の中の食べ残しをどうしようかと考える。

「残して大丈夫ですよ」

 ゼトアがクッキーの乗った皿を差し出してくれたので、申し訳なく思いながら、食べ残したクッキーを戻した。

「少しずつ、増やしていきましょう」

 ゼトアの言葉に、私は頷いた。

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