08 露わになる傷跡(4)
先に視線を外したのはゼトアの方だった。
浅く息を吐き、私の腕から手を放す。
考え込むように、何やら呟いていた。
不安になり、後ろに立つマロウを振り返ると、マロウは険しい表情のまま、私を見下ろしていた。
(何っ?まだ怒ってるの?)
何に怒っているのかも分からず、困惑が広がっていく。
唯一、心が安らげる場所がなくなってしまったような気がして、指先が、足が、震え始めた。
怖くて、全身に力がこもる。
「お嬢様」
ゼトアに声をかけられ、私は体をびくりと震わせた。
「少し、よろしいでしょうか」
「・・・な、なに、を?」
「目を閉じてください。そして、私が触れた場所を答えてください」
「なんで?」
なぜ、そんなことをするの?
ゼトアは、私の承諾の答えを待っている。理由は教えてくれず、嫌だと言える雰囲気ではなかった。
私は頷くしかなかった。
何が起こるのか不安で、怖くて、瞼も震えて、だから力を込めて目をつぶった。
そのままじっと、待った。
ゼトアが私のどこに触れるのか分からないから、全身に神経を集中させて、待った。
それなのに、何も起こらない。
いい加減焦ったくなって、
「ねえ、まだ?」
聞くと、
「もう大丈夫です」と答えが返ってきた。
(まだ何もしてないのに)
私は目を開けてゼトアを見る。
ゼトアの私を見る目の奥に憐れみがちらついている。
マロウを振り返れば、マロウの顔は青ざめ、悲壮な表情を漂わせていた。
あまりにも顔色が悪いから心配になって、
「大丈夫?」と聞くと、マロウは頭を抱えるようにして項垂れてしまう。
「お前・・・」低く、唸るようなマロウの声。「いつからだ?」
何が?
ここまでマロウが動揺することって、何?
足元から暗闇が立ち上ってくるような不安が襲う。
マロウは知らなくてもいいことだった。
この厨房は、マロウは、奴らとは違う場所にいて欲しかった。
この「世界」で唯一私を受け入れてくれた場所だから。
これ以上聞かないで。
私の切望は言葉にならない。
「痛みも、感じないのか」
マロウの問いかけに、ガラガラと、足元が崩れていくような感覚に襲われた。
何も感じない私は、きっと、みんなと同じ「人」ではない。
だって、私はこの「世界」に生まれたわけではないから。
この体は「ミリア」のものだから。
私の名前を与えられた体は、どこにもない。
41歳の誕生日を迎えた私は、どこにもいない。
私の名前を知るひとは、この「世界」に、いない。
なら、私は、どこにいるの?
「・・・い、おいっ」
突然肩を揺さぶられ、我に返る。
焦ったような表情のマロウが、私を覗き込んでいた。
「バカ息子、お嬢様に気安く触れるでない!」
ゼトアの叱責が飛ぶ。
マロウが後方への飛びのいた。
マロウとゼトアがにらみ合う。
ゼトアの手には、どこから持ち出したのか、短剣が握られていた。普通よりも細く、少しだけ長い、白銀の短剣だ。厨房の薄暗い灯でもきらりと光りを放ち、手入れが行き届いた逸品だと分かる。
マロウの額から、一筋、汗が流れ落ちた。
「俺にそんなものを向ける前に、やることがあるだろう」
「バカ息子よ、どんな事情があり、どんな事態であろうと、許可もなくお嬢様に触れていい理由にはならない。お嬢様は公爵家の令嬢であり、私たちは今は平民で、ただの使用人だ。立場をわきまえろ」
「はっ、それで何を守るっていうんだ」
「・・・ほう、お前にも守りたいものができたのか」
マロウが黙り込む。
「バカ息子が」とゼトアが呆れたように言う。
「申し訳ありません、お嬢様。少々子供の育て方を間違えてしまったようです」
ゼトアはそういうと、私に深々と頭を下げた。
「そんなっ、私だって、もともと平民だし」
プレートの説明によれば、孤児で物乞いをしているところをハイルに拾われたという。
ゼトアやマウロよりも、明らかに格下の身の上だ。
「お嬢様は、このヴィスコス公爵家の公女ですよ」
「そんなこと、だれも思ってないし、認めてもないわ。私は粗悪な偽者よ」
ヴィスコス公爵家の本当の娘でもなければ、「ミリア」ですらないのだから。
「・・・誰がそのようなことを」
「みんな、言ってるでしょう」
鞭を振るうメイドたちが、そう言って笑うから。
私は平気だと見せたくて、笑った。だけど、笑うことに失敗していると、二人の表情から知れた。




