06 深夜の厨房(4)
特に何かを期待していたわけではない。
ただ、次の日も、厨房に遅くまで残っていたのは、食器や調理器具の汚れが気になったから洗いなおしていただけだ。調理人として、器具の管理も大事な仕事だからだ。
別に、深夜にまた、ミリアが厨房へ来たことに何か思うことはない。面倒ごとはごめんだと、思っているだけだ。
そんなことを考えながら、水を出してやると、ミリアは少し笑った。
大事そうにコップを持つと、ゆっくりと水を飲んだ。
その様子を、俺は少し離れて眺めていた。
その次の日も、ミリアは深夜の厨房にやってきた。
俺はのんびりと明日の料理の下ごしらえをする。包丁で川を向きながら、明日は何か、食べるものを用意しておこうと考えていた。
そして次の日、俺はばれないようにディナー用のビーフシチューを一皿分、取り分けて隠しておいた。見つかれば厳罰ものだが、ばれなければ問題ない。それにミリアだってヴィスコス公爵家の一員だ。食べる権利はある。
そうやって俺は深夜の厨房で待っていた。
厨房のドアが開き、ミリアが姿を現した時、少しほっとした。料理が無駄にならなくてよかったと思っただけだ。
水を飲み終えたミリアが、今日はからのコップをそのまま握っている。いつもと違う様子に、胸がざわついた。
(・・・なんだ?)
わずかな変化だった。
ミリアは俺に向けてからのコップを差し出す。
「・・・ありがとう」と言って、俺を見る。
ミリアの方から、俺に少し近づいてきたのだ。
俺はコップを受け取った。
「私は、ミリア」
知ってはいたが、名乗ってくれたことで、さらに距離が縮まった気がした。
「マロウだ」
ぶっきらぼうになってしまったが、俺も名乗ることが出来た。こういうことは、苦手だ。相手の歩調に合わせるように気遣うことも、初めてかもしれない。
(そうだ、言わないと)
「スープならあるぞ」
「え?」
ミリアが呆けたような顔をする。何を言われたのか理解できていないようだ。
いきなりすぎただろうか。だが、言ってしまったことは消せないから、このまま押し通すしかない。
「腹減ってないのか?」
俺に聞かれて、ようやくミリアが俺の言葉を理解できたようだ。
だが、何も言わない。戸惑ったように俺を見るだけだ。
じれったい。
「どうせろくなもんを食ってないだろう」
毎日あんな腐ったものしかメイドたちは運んでいかないのだから。それも、朝に一回だけ。
成長期に成長していない体を見れば、栄養が全く足りていないことは誰にでも分かる。
常に空腹だと、空腹であることを忘れてしまうのかもしれない。
俺はミリアの返事を待たずに、隠し残していたビーフシチューを軽く温めて、出してやった。
ミリアはシチューを見つめる。だが、手を動かさない。
今日のシチューは公爵家のディナーに出されたものだ。食材も調理も一流に作られている。俺のような平民上りは、味見すらできない代物だ。まあ、味見はしたけどな。俺ならもっとおいしく作れると思ったが、それは今言うことではない。
「食わないのか?」
食べてほしい、と思った。きっと食べたことのない料理に驚くはずだ。その顔が見てみたいと思った。
だが、ミリアは「ごめんなさい」と消え入りそうな声で言った。
うつむいたまま、もう一度「ごめんなさい」と言う。
肩が震えているのが分かった。
何をそんなに気負うのだろう。
「味が・・・分からないの」
ミリアの言葉に、俺は思考が停止した。
「・・・ただのシチューだ。特別なもんじゃない」
十分特別なシチューだが、とにかくミリアに食べさせたくて、そう言った。
ミリアはうつむいたまま、首を横に振る。
顔を上げてくれない。
「嫌いだったか?」
食べたこともないのに嫌いも何もないだろうに。じれったさに苛ついてきた。
俺がため息をつくと、ミリアの肩がびくりと揺れた。
顔を上げて、無理やり笑って見せるが、俺には泣きそうな顔にしか見えない。
「味が分からないの」
「食ってみれば分かるだろう」
「・・・何を食べても同じ。分からないの」
「何を食べても?」
あの腐ったパンや液体を食べてもか?
ミリアがうなずく。
「匂いも・・・分からないから」
俺はめまいを感じて、思わず調理台に手を付いた。
「きっとこのシチューはいい匂いがするんだろうね。でも、何も・・・私には分からないの」
「一切、味もにおいも感じないのか?」
ミリアがうなずく。
「甘みや塩気や、酸味も?」
ミリアの部屋に運ばれる液体は、きっと酸味が強いはずだ。それすら、感じないというのか?
「全部一緒、全部・・・無味無臭よ」
信じられなかった。
だが、ミリアが嘘をついているとは思えない。
俺は、人が嘘をついているか否か、見ていれば分かってしまう。その見解が外れることはほとんどない。若いころは多少騙されたことはあるが、年齢と経験を重ねるにつれて、ほとんど読み間違えることはなくなった。
だから、ミリアの言葉に嘘はないと、解る。
だが、なぜだ?
(なぜ・・・生き残るため、か)
この公爵家の中で生き残るために、体が順応したのだろう。感覚を捨てることで、わずかでも栄養を摂取できるように。
(よく感情が無くならなかったな)
14歳の少女が生きるには過酷すぎる環境の中で、ミリアは、しっかりと「生きて」いる。俺の前に立つミリアは、水を与えられたことに喜び、シチューを食べれないことに悲しんでいる。その感情は、ここで生きていく上では一番邪魔なものだっただろうに。
大したものだ、と思う。
この細く小さな体のどこに、そこまでの強さがあるのか。
俺はミリアに興味がわいた。いや、興味を抱いていたミリアに対して、もっと強い好奇心が芽生えたと言った方がいい。
「味が分からなくても、栄養は取れる。お前はもっと太った方がいい」
「・・・それ、女性に言ったらダメなやつだよ」
ミリアが笑う。作った笑顔ではないその表情に、俺の中の苛つきが少しだけ治まった。
ゆっくりと、シチューを食べるミリアを見ながら、明日は何を用意しようかと考えていた。どうせなら、俺が作ってやろう。その方がおいしいはずだから。




