06 深夜の厨房(2)
「誰だ」
男の声が、した。
心臓が跳ね上がる。危険を察知した体は、突然のことに対応できず、動けない。
厨房の中には、男が1人、いた。
私と同年代か、少し若いくらいの男だ。「ミリア」ではなく、41歳の私と同世代であろうその男は、私を見て目を見張り、怪訝そうに眼を細めた。細身で長身の男だ、顔つきに鋭さはあるが、そこまで怖いとは思わなかった。それでも、警戒は必要だ。
「あんた・・・」
言葉が途切れた。
私は声を出せず、何とか逃れようと、うつむいた。それが精いっぱいだった。
ヴィスコス家の息子と、メイドしか、知らない。
この男は「ミリア」に対してどういう立ち位置になるのか、分からない。
指先が震えていることに気づいて、手を握りしめた。弱みを見せたくなかった。そこに付け込まれれば、さらに事態は悪化するだろうから。
男の視線が、私の握りしめた手に向けられる。
男のため息が、聞えた。
「何か用か」
普通に聞かれて、驚いた。男の声は、私をさげすむことも、嫌悪することもない、普通の声音だったからだ。
何か言わなければと、視線をさまよわせながら言葉を探す。
「・・・あの」
喉が渇いているからか、声がうまく出なかった。きっとそれだけじゃないだろうけど。
「喉が渇いて・・・」
つい、思いついたことを言ってしまった。
男の様子をうかがうと、男はまた、ため息をついた。
踵を返し、厨房の奥へと歩いていく。
戻ってきたときには、手に水の入ったコップを持っていた。
そのコップを、私の近くのテーブルの上に置く。
その動作は、本当に普通で、それがここでは異質に感じた。
自分に対して普通の態度をとる人間が、ここにはいなかったから。
おかれたコップの中の水は、透明だ。濁っていない。それも、驚くべきことだった。
まじまじとコップを見つめていたら、また、男のため息が聞こえた。
おそるおそる男を見れば、目が合った。
手を出そうとしない私に、男はまたため息を吐く。ため息の多い男だ。
「飲まないのか」
聞かれて、私は慌ててコップを手に取った。男の様子を伺いながら、水を口に含んだ。
ざらつきのない、なめらかな舌触りの、普通の水だった。
なぜか、涙が出てきた。
そんな私を見つめる男は、また、ため息を吐いた。
あの夜の厨房から三日、私は毎日厨房に通った。
男は特に変わる様子もなく、私が厨房に顔を出せば、入室を拒むことはない。相変わらずため息ばかり吐いている。会話も全くしないため、私たちはまだ自己紹介すらしていない。プレートがあるから、私は男のことが分かっているが、分かっていることは内緒だ。
男の名前は、マロウ。
この厨房に勤める調理人だ。
平民出身で、今は下働きらしい。
調理人にも階級があり、実際に味付けをして料理を仕上げるのは、その資格を与えられた者だけらしい。平民がその資格を得ることは稀だという。階級社会の弊害だ。実力があっても、能力を発揮できず、結果として全体の発展を妨げる典型的なパターンだろう。
私はマロウの頭上のブレーのプレートを盗み見た。
今日になって書き加えられた一文を、もう一度読む。
『ミリアの専属シェフ及び護衛として、生涯支えた』
そう青字で書かれている。
私の味方となる男。
私が「ミリア」の中に入ったことで、マロウの未来を変えてしまった。私がいなければ、マロウとミリアは接点すら持たなかったのかもしれない。
申し訳なさと、マロウへの期待とで、私の心中は複雑だった。だから、マロウへの距離感を縮めることができずにいた。マロウの傍観する様な姿勢と、無関心な雰囲気が、居心地よく感じていて、もう少しこのままがいいと思っていることもある。
あおあいてもう一つの理由は、
『趣味:拷問』
ここがどうにも引っかかって、迂闊に近づけなかったのだ。
そして今日も、私は厨房で一杯の水を飲んでいる。
その様子を、男が離れた場所から眺めている。
今日こそは、少し近づいてみようと心に決めていた。厨房に通うようになって3日だ。そろそろ変化があってもいいだろうと考えていた。どうアクションを起こすか悩み続け、次の行動が今だに決められない。
とりあえず。
「ありがとう」
そう言って、水を飲み干したコップを差し出してみた。
受け取ってくれるだろうか。
どきどきする。
マロウは調理台に軽く体を預け、腕を組みながら私をみていた。
やはりまだ、距離を縮めるには早かったかもしれない。
私はいつも通りコップを手直な台に置こうとした。ゆっくりとした動作でマロウが近づいてきたから、驚いて体が硬直する。
マロウは私の手の中のコップを受け取ってくれた。
「・・・ありがとう」
マロウが私を見下ろす。何を考えているのか分からないが、怖くはなかった。
沈黙が、私たちの間にぎこちなさを生む。
「私は、ミリア」
ようやくできた自己紹介に、マロウは「ああ」と短く答えた。
「マロウだ」
名前を教えてもらったことが嬉しかった。笑いかけてみたが、上手く笑えていなかったかもしれない。マロウの眉間に皺がよったから、私は推し黙った。
マロウがいつものため息を吐く。
「スープならあるぞ」
「え?」
いきなり何を言い出すのだろうか。私は呆けたような声を出して、マロウを見た。
マロウの顔からはやはり、感情が伺えない。
スープをくれるというのだろうか。
「腹減ってないのか?」
聞かれて、私は首を横に振る。
お腹が空いているかどうかは正直自分でも分からない。鏡で見る限り、栄養失調ではあるだろうが、こうして毎日動けているから、必要な栄養は摂取できているだろうと思っている。
「どうせろくなもんを食ってないだろう」
そう言われて、マロウが私に出される食事のことを知っているのだと分かった。そのことに気遣ってくれているのだということも。
私の答えを待たずに、マロウが一皿のスープを出してきた。一口サイズの野菜と肉が入ったビーフシチューのようだ。湯気が立っている。腐っていないだろうことも見た目で分かった。だけど。
(何も匂わない)
厨房内に漂っているだろうスープの香りも、私には分からない。食べてもきっと、いつもの食事と何が違うのか分からないだろう。それが申し訳なくて、手を出せなかった。
「食わないのか?」
「・・・ごめんなさい」
聞かれても謝ることしかできなかった。
気を悪くさせたかもしれない。
言い訳をしたくて、だけど、マロウにどう思われるのか怖くて、マロウの顔が見れない。
「ごめんなさい」
泣きたい気分だ。
「味が・・・分からないの」




