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「あ、あの……」
「……何か?」
気が付けば、志希は紗代のことを呼び止めていた。
紗代は煩わしそうな目で志希のことを睨む。その目に恐怖を感じながらも、志希はグッと奥歯を噛み締めて耐える。
「明日香ちゃん、痛そうです。放してあげてください」
「先程もそちらの店長さんに申し上げましたが、あなた方にとやかく言われる筋合いはありません。これは家族の問題です」
「そうかもしれません。ですが、明日香ちゃんは、私の大切なお友達です。こんな連れ去るようなやり方、見過ごせません」
紗代と視線を合わせ、志希は声を震わせながらもはっきりと言い切る。
そんな志希の言葉に、明日香も「姐さん……」と涙ぐんだ。
だが、紗代の方は、呆れたと言わんばかりの顔でため息をついた。
「……連れ去っているのは、どちらですか」
「え……?」
「何なら、今ここで警察を呼んでもいいのですよ。未成年者の略取ということで」
紗代の言葉に、志希の背筋が凍り付く。それだけ、警察という言葉にはインパクトがあった。
同時に、明日香が紗代に縋りついた。
「おっかさん、やめて! あたし、帰るから! 姐さんと旦那にひどいことしないで!」
まるで悲鳴を上げるように、明日香が紗代に訴える。
紗代も本当に警察を呼ぶつもりはなかったのか、志希を一瞥した後、大人しくなった明日香の手を引いて入り口の扉を開いた。
「今後、この子に関わらないでください。次は、本当に警察へ通報しますから」
そう言い残し、紗代は明日香を連れて、店から去っていった。
店の中に再び静寂が訪れる。しかし、その意味合いは十分前とまるで逆だ。志希はまるで嵐にすべてを踏み荒らされた直後のような、呆然自失とした心持ちだった。
だが同時に、紗代が去ってくれたことに安心した自分がいる。明日香が、辛そうな顔のまま連れていかれたのに。自らの保身ばかりに頭が行ってしまった事実に、志希は苛立ちを覚える。
ただ、自分を責めてばかりはいられない。志希は、隣にいる神様のアライグマを見た。
「荒熊さん、どうしましょう。明日香ちゃん、連れていかれちゃいました……」
「仕方ないよ。親御さんが迎えに来たのに、帰さないわけにはいかないし」
「でも、あんな無理矢理……。あれじゃあ、明日香ちゃんが可哀想です」
明日香の助けを求めるような顔が、志希の頭をよぎる。
このまま何もしなくていいのか。いいわけがない。明日香を助けなければ。
そんな義憤と焦燥感が、志希の胸に募っていく。
そして志希は、意を決したように表情を引き締め、エプロンを素早く外した。
「荒熊さん、やっぱり今からでも追いかけましょう。今なら、まだ明日香ちゃんを助けられます」
「志希ちゃんの気持ちはわかる。けど、ちょっと落ち着こうか。第一、追いかけてどうするの? 明日香ちゃんを、お母さんから奪い取るつもり? そんなことしたら、本当に誘拐になっちゃうよ」
しかし、血気に逸る志希のことを窘めるように、荒熊さんは冷静に諭してくる。
荒熊さんに痛いところを突かれた志希は、踏み出しかけていた足を止めた。
確かに、荒熊さんの言っていることはもっともだ。出鼻をくじかれた志希はもどかしさを感じながらも、荒熊さんに反論できず押し黙る。
すると、荒熊さんは「あ、でもね」と妙に明るい声で続けた。
「それでも志希ちゃんが何かしたいって言うなら、児童相談所に相談するっていう手はあるよ。そうすれば、正式な手続きのもと、明日香ちゃんを助けられるかもしれない」
「――っ! それは……。確かにそうかもしれませんが、けど……」
荒熊さんからの提案に、志希は一瞬目を丸くする。さらには先程までの勢いも完全に消えて、しどろもどろに言い淀んでしまった。
荒熊さんの提案は、志希の言う漠然とした「助ける」よりも具体的かつ効果的な手段だ。しかし、手段が具体的になったが故に、志希にもその先にある結果がよりわかりやすく想像できてしまった。
児童相談所に通報すれば、大事になるのは確実だ。場合によっては、明日香は一時保護として母親から引き離されるかもしれない。
先程の紗代の明日香に対する言動は目に余るものがあったし、何かが起こる前に引き離した方がいい可能性も、確かにある。
けれど、本当に通報するべきなのだろうか。明日香は、志希が通報することを望むだろうか。さらに言えば、明日香が母親のことを本当はどう思っているのか。
志希には、そのすべてがわからなかった。明日香が母親と引き離される結果になっても通報すべき。そう言い切れるだけの自信と、結果を背負えるだけの覚悟が、今の志希にはなかった。
おそらく荒熊さんが児童相談所を引き合いに出した狙いは、これだったのだろう。
漠然としたことを言って、その結果に対する責任から目を逸らしている志希に、動くなら覚悟せよ、と伝えてくれたのだ。
意気消沈した志希は、明日香が座っていたカウンター席を寂しそうに見つめる。
「明日香ちゃん、もうお店に来てくれないんでしょうか……」
「どうだろうね。あの様子だと、案外今日中に家出してくるかもしれないよ。さっきは完全に不意打ちだったから呑まれてたけど、いつもお母さんとガチ喧嘩しているみたいだし。今頃、立ち直ってお母さんとバトル中かもね」
深刻そうに呟く志希に対して、荒熊さんはのんきに笑いながらパタパタ尻尾を振っている。
「もう、荒熊さん! 私は真面目に言っているんですよ!」
「あはは、ごめん、ごめん。でもね、志希ちゃんももう少し肩の力を抜きなよ。明日香ちゃんは、そんなに弱い子じゃないからさ」
飄々とした荒熊さんに志希は憤慨した様子だが、当の本人はどこ吹く風でのほほんとコーヒー豆を挽き始めた。




