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ブックカフェの店長はアライグマで神様でした  作者: 日野 祐希@既刊9冊発売中
第二話 親子と落語と特製カレーライス
21/47

2-1

 しかし、残念ながら志希の願いは、天に届かなかったらしい。……いや、それどころか願ったのとは真逆の形で“何かのきっかけ”が起こってしまった。


 それは、明日香があらいぐまで『時そば』を披露した翌日のことだった。

 いつもと同じ、(うら)らかな平日の昼下がり。ちょうど最後のお客さんが帰り、店に小休止の間ができた時のこと。


 店にいるのは、志希とあらくまさん、それと今日も店の手伝いに来てくれた明日香だけだ。

 志希は最後のお客さんの食器を片付け、洗い物中。荒熊さんは愛用の椅子に座って、のんびりと尻尾をプランプランさせている。


 そして、明日香は店の手伝いを終え、現物支給の今日のデザートを頬張りながら、落語家が主人公の漫画を読んでいる。つい先日入荷したものだけれど、おそらく荒熊さんが明日香のために仕入れてきたのではないかと志希は思っている。


 気心知れた者だけしかいない、静かで居心地のいい空間。

 事件は――そんな平和そのもの時間に起こった。


「明日香!」


 店の穏やかな空気を、乱暴に開けられた扉の音と、女性の怒鳴り声が切り裂く。

 志希と荒熊さんは何事かと顔を上げ、名前を呼ばれた明日香はビクリと小さな肩を震わせた。


「おっかさん……。どうして……」


 恐る恐るといった様子で後ろを振り返った明日香が、狼狽えた声を上げる。

 壊れんばかりの勢いで扉を開けて入ってきたのは、三十代半ばと思われる女性だった。怒りの形相の所為で一瞬気が付かなかったが、よく見れば明日香と似た顔立ちをしている。

 明日香が「おっかさん」と呼んでいたことからも、彼女が明日香と折り合いが悪いという母親なのだろう。


「その呼び方はやめなさいって、いつも言っているでしょう!」


 そして、明日香から「おっかさん」と呼ばれた女性は、さらに激昂した様子で明日香に歩み寄った。


 明日香はもはや涙目で、背筋を伸ばしたまま震えている。不意打ちのような形の中、これだけの剣幕で怒鳴りつけられたのだ。委縮して、何も言えないまま怯えてしまうのも、無理はない。


 実際、志希も自分が怒られているわけではないのに、まったく体が動かない。明日香をかばってあげたいのに、声を出すことさえままならなかった。

 しかし、明日香の母親の怒りはこの程度では納まらない。


「会社の人から聞いたわよ。昨日、あなたがここで落語を披露していたって。家で落語のことを言わなくなったと思ったら、こんなところで隠れてコソコソと……。ふざけるのもいい加減にしなさい!」


 明日香の母親の怒声で、志希はこの“最悪のきっかけ”がどうして生じてしまったのかを覚った。


 どうやら昨日いらっしゃった一見さんたちは、明日香の母親の同僚だったようだ。何という間の悪い偶然だろう。

 明日香が同僚の娘だと気が付いたあのお客さんたちは、店でのことを明日香の母に話したというところだろうか。志希が見た限り、あの方々は明日香の落語に感心していた様子だったから、それは告げ口などではなかったのかもしれない。もしかしたら、純粋に明日香のことを褒めていたのかも……。


 しかし、明日香の母親は、明日香に落語をやめさせたがっていると聞く。伝え方はどうあれ、それは彼女をただいたずらに怒らせる結果となって、こうして今に至ってしまったわけだ。

 明日香の母親は、黙ったまま震えている明日香の肩を乱暴につかむ。


「黙っていないで、何か言ったらどうなの! 本当にあなたは、余計なことばかりして――」


「お母さん、ストップです。ちょっと落ち着きましょう」


 今にも泣き出しそうな明日香を叱責する母親に、冷静な声が待ったをかける。

 声の主は、荒熊さんだ。荒熊さんは、普段と違って毅然とした態度で怒り狂う明日香の母親と対峙する。

 すると、母親の怒りの矛先が、明日香から荒熊さんに変わった。


「あなたが、この店の店長ですね。私、明日香の母親の真崎(まさき)紗代(さよ)と申します。早速ですが、あなた、一体どういうつもりですか? こんな小さな子供を毎日のように入り浸らせて。非常識にも程がありますよね」


「それについては弁明のしようもありません。本当に申し訳ありません。――けれど、ひとまず落ち着いてください。明日香ちゃんも怯えていますし」


 明日香の母――紗代に謝りつつも、荒熊さんは冷静に話し合おうと訴える。

 そんな荒熊さんの泰然とした態度に気圧されたのだろう。紗代の怒気が、目に見えてしぼんだ。


「……確かに、少し冷静さを欠いていました。しかし、あなたに諭される筋合いはありません」


 それでも、紗代は荒熊さんの目をしっかりと見つめて言い返してきた。神様である荒熊さんに言い返せる辺り、相当芯の強い女性なのだろう。今はそれが、悪い方向で出てしまっているようだが……。


「明日香、行くわよ」


 そして紗代は、明日香の手を引いて店を出ていこうとした。これ以上、この店にいたくないらしい。

 だが、明日香は抵抗するようにその場を動こうとしない。今の紗代と一緒に帰ることを嫌がっているようだ。


「いい加減にして。これ以上、迷惑を掛けないでちょうだい」


 すると紗代は、抵抗する明日香の手を苛立たしげに強く引っ張った。

 明日香も大人の力には勝てず、引きずられるようにして連れていかれる。

 その時だ。明日香が、縋るような瞳で志希たちの方を見る。

 瞬間、志希の頭の中で何かが弾けた。

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