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やがて夢の時間は終わりを告げ、世界が再び真っ白な光に包まれる。気が付けば、志希たちはすっかり暗くなったあらいぐまにいた。
「戻ってきたんですね」
「うん。記憶の世界はあれで終わりだ。長く留まり過ぎると、こっちに戻ってきたくなくなっちゃうからね」
荒熊さんの言葉に、志希も無言で同意する。あの世界は、一種の理想郷だ。だからこそ、不用意に留まり過ぎれば、そのまま抜け出せない底なし沼にもなってしまう。
「源内さんは……」
志希が見れば、源内は本を手にしたまま、呆然と立ち尽くしていた。心ここにあらずといった感じだ。
「あの、源内さん……?」
「ん? ――あ、ああ、志希ちゃん」
志希に声を掛けられた源内が、ようやく意識を取り戻したように動き出す。
「大丈夫ですか? ご気分が悪かったりは……」
「ああ、大丈夫だよ。体の方は問題ない。まあ、何というか今もまだ夢見心地といった気分ではあるけどね。志希ちゃん、あれは一体……」
「すみません。それは企業秘密ということで……」
源内からの追及を、志希は答え辛そうにはぐらかした。
荒熊さんから、神様の力ということは他言無用と言われている。深く話すことはできない。
源内も、そこら辺の事情を汲み取ったのだろう。
「そうか。なら、いいんだ。深くは追及しない。二人のおかげで、かけがえのない経験ができた。それだけで十分だ。本当に、ありがとう」
お礼だけ言うに留め、源内はそれ以上“秘密”を探ることはしなかった。
それならば、今度は志希のターンだ。おずおずと、源内に問い掛ける。
「源内さん……。新しい生活への不安、少しは和らぎましたか?」
「ああ、そのことか。それなんだがね、妻に話したら盛大に笑われてしまったよ。『どうせ残り少ない人生なんですから、悩むだけ損ですよ』ってね。その上、『孫と暮らせるなんて羨ましい。不安だなんだと言うなら、代わってもらいたいです』と散々拗ねられてしまった」
志希の質問に、源内は苦笑しながら答える。
奥さんのことを話す源内の雰囲気は、とても明るい。何というか、憑き物が落ちたといった感じだ。
「その上、『あっちで土産話を待っていますよ』とまで言われてしまった。これはもう、全力で楽しむしかないだろうね」
「その言葉、きっと奥さんも喜んでいると思いますよ」
荒熊さんが相槌を打つと、源内は「だといいけどね」と朗らかに笑った。
そして、源内は名残惜しそうにカフェの中を見回して、いつも座っているカウンター席に腰を下ろした。
「荒熊さん、ひとつお願いをしてもいいかな」
「僕にできることなら、何なりと」
そう言いながら、荒熊さんはカウンターの中へ移動する。源内のお願いがなんであるか、わかっているというように。
源内も、荒熊さんが愛用の椅子に登ってちょこんと座るのを待ち、ゆっくりと口を開いた。
「ではひとつ、お願いだ。ブレンドコーヒーを淹れてもらえないだろうか。あと、できればスコーンを梅ジャム付きでもらえるとうれしい」
「もちろん、喜んで。――志希ちゃん、スコーンの方の準備をお願い」
「はい! 任せてください」
荒熊さんに呼ばれ、志希も張り切ってスコーンの準備に取り掛かる。
スコーンをオーブンで温めながら、冷蔵庫から梅ジャムを取り出す。すると、コーヒーを淹れている荒熊さんが、後ろ手にブイサインをしているのが目に入った。
なるほど、と思いつつ、志希は梅ジャムをいつもよりスプーン二杯分多く盛りつける。新しい門出を祝して、お店からのサービスということだろう。
スコーンの準備を終えてコーヒーを受け取りに行くと、ジャムの小皿を覗いた荒熊さんが小声で「グッジョブ!」と言ってくれた。
「どうぞ、ブレンドコーヒーとスコーンです」
「ありがとう、志希ちゃん」
志希にお礼を言った源内は、まずコーヒーの香りを十分に楽しんで一口。そしてスコーンを手に取り、梅ジャムをたっぷり塗って頬張る。
梅ジャムの味を堪能した源内はスコーンを皿に置き、ほう、と満足げに吐息を漏らした。
「やはり、この梅ジャムと荒熊さん特製ブレンドコーヒーの組み合わせは最高だ。この味を忘れることは、きっとできないだろうな……」
ポツリと呟いた源内は、カウンターの中で並び立った志希と荒熊さんへ視線を向ける。
「明日からは引っ越しの準備が忙しいから、もうここへ来ることはできない。けれど来年、梅ジャムがおいしい季節になったら、またこの店に来るよ。――今度は、家族を連れてね」
「ええ、お待ちしていますよ」
「私も、楽しみにしています!」
再びこの店を訪れることを約束する源内に、志希たちは歓迎の意を伝えるのだった。
* * *
コーヒーとスコーンを心ゆくまで味わった源内は、「今日はありがとう。それでは、また」と、もう一度礼を言って帰っていった。
実にあっさりとしたお別れとなったが、だからこそ逆に、志希はこれが今生の別れではないのだと実感することができた。
「荒熊さん、今日は私のワガママに協力してくれて、どうもありがとうございました」
「気にしない、気にしない。店の常連さんの背中を押して上げるのも、神様兼店長の役目だからね」
源内の見送りを終えた志希が感謝を伝えると、荒熊さんはいつも通り飄々とした様子でヒラヒラ手を振っていた。本当にこの店長は、気のいい神様だ。
源内が帰ると、志希は荒熊さんとふたり、急いでバー開店の準備だ。いつもより短い時間で慌ただしく準備を済ませ、開店時間と同時に未成年である志希は二階へ引っ込んだ。
ひとまず自室に戻り、制服から部屋着に着替える。そのままベッドに腰かけると、一日の疲労でコテンと布団に転がりたくなった。
「……いけません。まだ、晩ごはんを作っていないですし、お風呂も沸かさなければ……」
布団の誘惑を断ち切り、「よいしょ」と口にして立ち上がる。
と、その時だ。不意に両親の顔が、志希の視界の端に入ってきた。
「…………」
志希は無言のまま、両親の遺影を置いた棚の前に立つ。きちんとしたものを買えるほどのお金はないので、ふたりには申し訳ないが志希は棚の上に布を敷いて、そこを仏壇の代わりとしていた。
「お父さん……。お母さん……」
父と母、それぞれの遺影に向かって呼びかける。ふたりはそれぞれの写真の中で、穏やかに笑っていた。そしてふたつの遺影の間には、二人の位牌と形見である結婚指輪が置いてあり、指輪が蛍光灯の光を反射して輝いている。
志希は本棚から両親からもらった絵本を取り出して抱き締め、遺影の中の母を見つめた。
「お母さん……。私、少しはお母さんへの罪滅ぼしができたでしょうか」
志希は、まるで答えを求めるように、か細い声で遺影の中の母に問い掛ける。
しかし、それに答える者がいるはずもなく、志希の問いは部屋の中に溶けて消えていった。




