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瞼の向こうに光を感じた次の瞬間、源内は温かな風が頬を撫でるのを感じた。
「源内さん、もう目を開けて大丈夫ですよ」
志希の声でそう言われ、源内は閉じていた目をゆっくりと開――こうとしたところで、眩しさから一度すぐに眇めてしまった。
眩しさの正体は澄み渡った空に浮かぶ太陽だ。日も暮れかけた夕方のアライグマにいたはずの源内は、いつの間にか真っ昼間の屋外に立っていた。
いや、この場所には見覚えがある。そこは、妻と毎年花見をしていた公園だった。
「志希ちゃん、荒熊さん、これは一体……」
一緒にいたはずのふたりに問い掛けようとするが、そこに彼女らの姿はない。つい先程、志希の声を聞いたばかりだと言うのに。
これはどういうことか、と源内は志希たちの姿を探そうとする。
その時だ。再び一陣の風が吹き抜けていく。そして源内は、その風に乗って鼻腔をくすぐる、懐かしい香りに気が付いた。
「まさか……」
信じられないという顔で、後ろを振り返る源内。
そこには――枯れてなくなったはずの梅の木が、咲き誇るという言葉を体現するように梅の花を満開にして立っていた。
いや、それだけではない。
「――あなた」
ずっと近くで聞いてきた、そしてもう聞けないと思っていた声が、源内の鼓膜を震わせる。
源内を呼んだ声の主は、梅の木の下にあるベンチに座っていた。源内がプレゼントした、あの本を持って。源内が好きだった、あの笑顔を浮かべて……。
源内は、そこで初めて自分の手から本がなくなっていたことに気が付いたが、そんなことは関係ない。
「梅歌……」
源内がその名を呼ぶと、妻はうれしそうに「はい」と返事をした。
「さあ、いつまでもそんなところに立っていないで、こっちへ来てくださいな」
妻に呼ばれ、源内はたどたどしい足取りでベンチへ歩み寄る。何度となく妻と一緒に腰かけ、ふたりで梅の花を見上げたベンチに……。
源内が隣に座ると、梅歌はそっと彼の頬に手を触れた。
「少し老けましたね。皴が濃くなりました。私が死んで、何年が経ちましたか?」
「もう二年になるよ」
「そうですか……。すみませんね、あなたを一人残すことになってしまって」
「君が謝ることじゃないよ。誰も悪くはないのだから」
「本当にあなたは……。少しくらい恨み言をぶつけてくれた方が、私としても気が楽なんですけどね」
「それは無理だよ。もう胸がいっぱいで……、こうしてもう一度君と話せていることへの感謝しか出てこない……」
源内の肩が震える。その目から、大粒の涙が溢れ出す。
子供のように泣きじゃくる夫をあやすように、梅香は源内の手を握る。
「私もですよ。これがどんな奇跡であれ、またあなたと、この梅の木の下でお花見することができました。私は、本当に幸せ者です」
「ああ、そうだね……。本当に幸せだ……」
源内は妻の手を握り返しつつ、今の幸せを深く噛み締めるように頷いた。
* * *
源内たちから少し離れたところに身を隠し、志希と荒熊さんはふたりの様子を見ていた。ふたりは今、仲睦まじく梅の木の下で万葉集を読んでいる。志希が望み願っていた光景が、そこにはあった。
「源内さんの願い、無事に叶ったみたいですね」
「うん、そうだね」
志希の呟きに、荒熊さんも同調する。
その声を聴きながら、志希はあの夜の荒熊さんとの会話を思い出した。
『僕ね、実は神様パワーで人を本の記憶の世界に送り込むことができるんだよ』
『本の記憶……ですか? それは一体……』
『人間と同じで、本も自らが過ごしてきた時間の記憶を持っている。僕はそこに干渉し、人を連れて入り込むことができるんだ。――もっとも、連れていけるのは、その本に対する思い入れが深い人って条件はあるけどね。あと、神様パワーを使う条件としてお供え物が必要だけど……まあ、それは源内さんからもらってきたカフェの御代を代用するってことでいいんじゃないかな』
あの夜、荒熊さんは志希に、自身の力をそう説明してくれた。
ちなみに、入り込む記憶の場面は、荒熊さんの方で調整が可能とのことだった。
『源内さんは、奥さんにプレゼントした万葉集を、毎年梅の木の下で読んでいたと言っていた。その本さえあれば、梅の木が枯れる前の公園へ源内さんを連れていくことができるはずだ。当然、そこには源内さんの奥さんもいるだろう』
『なるほど! それなら、源内さんの願いを叶えられますね!』
荒熊さんの提案に、志希は目を輝かせて色めき立った。
しかし、ひとり盛り上がる志希へ、荒熊さんは『ただし』と続けた。
『これはあくまで、ただの記憶の再生でしかなく、記憶に登場する物や人物へ干渉することができない。例えば記憶に登場する人と触れ合ったり、話したり――要するに意思疎通することができないんだ』
『つまり、あくまでホームビデオを観ているような感じにしかならない、と……』
『そうなるね』
頷く荒熊さんの前で、志希は表情を再び曇らせてしまった。同じ場所にいることができたとしても、それでは源内さんの願いを叶えたとは言えないだろう。
やはり、何も手はないのか……。そう思って、志希が諦めかける。
しかし、そこで荒熊さんが力強く志希の手――というか、指を握ってきた。
『だから、そこで志希ちゃんに力を貸してもらう。志希ちゃんのそのバカでかい霊力をお供え物という形で僕に提供してもらい、その力を上乗せして僕が記憶の世界に干渉できるようにする』
荒熊さんの力強い言葉に、志希は自分の目が大きく見開かれていくのを感じた。
『あとは、源内さんに会わせる前に、干渉できるようになった記憶の中の奥さんへ、少し事情を説明してあげればいい。奥さんが源内さんの言う通りの人なら、それでうまくやってくれるんじゃないかな』
その程度の時間操作、記憶の世界でならお茶の子さいさいだからさ、と荒熊さんは気楽に笑ってくれた。
その気楽さに、志希はこれ以上ない頼もしさを感じたのだ。
『どうかな、志希ちゃん。君と僕、二人の力を合わせれば、どうにかできるかもしれない。やってみる気はあるかい?』
そう言って、荒熊さんは差し伸べるように自分の手を差し出した。
ただ荒熊さんに頼るだけじゃない。自分にもできることがある。そう言ってもらえたことがすごくうれしくて、それに何より力が湧いてきて……。
『はい!』
だから志希も、自信を持って荒熊さんの手を握り返すことができたのだ。
そんなことを思い出しながら、志希は仲良く談笑する源内夫婦を見つめ、「フフッ」と笑う。
「荒熊さんが言った通りでしたね。さすが神様です」
「当然です」
志希が賞賛すると、荒熊さんはフフンと腰に手を当て、胸を張った。
この世界が構築されて干渉が可能になると、志希と荒熊さんはすぐに源内さんの奥さんに事情を話した。すると奥さんは、『ありがとうございます。あとは任せてください』と笑ってくれた。
そして、今ここに至った。荒熊さんが予想した通りの展開になったわけだ。
「私、自分の霊力とか、特に気にしていなかったんですが……。あの笑顔を見ることができたのですから、お父さんとお母さんに感謝しないといけませんね。『素敵な贈り物をくれて、ありがとう』と」
志希は、独り言とも荒熊さんへ言っているとも取れる調子で言葉を紡ぐ。
荒熊さんはその言葉に何か答えたりすることはなかったが、志希は彼が隣で微笑んでいるのを感じた。




