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「私と妻が出会ったのは……そう、五十年と少し前。私がまだ二十歳を少し過ぎた頃のことだったよ」
そう言って源内が語ったのは、半世紀以上前のとある春の日の出来事だ。当時、勤めていた会社の花見大会に出席するため、源内は隣町の公園へ行ったらしい。
「その日は、桜が満開を迎えた直後でね。たくさんの人が晴れた空の下、咲き誇る桜を肴に騒いでいた。――ただ、そんな中でひとりね、桜並木を外れたところにポツンと立っている梅の木を見上げ、その花を愛でている女性がいたんだ」
それが妻だった、と源内は微笑む。
「私はその人のことが気になってしまってね。声を掛けたんだ。『梅の花、好きなのですか?』とね。そうしたら彼女は、『ええ、とても。だって、私の名前の由来となった花ですから』と微笑みながら答えてくれた。もうその瞬間、一目惚れだったよ」
源内の頬が、朱色に染まる。少し照れているらしい。
そんな源内の初々しさが、志希には微笑ましかった。
源内の話の続きを聞くと、それから彼は奥さんに猛アタックを仕掛けたらしい。奥さんの方も源内の情熱に負け、二人は付き合い出したそうだ。そして数年後、晴れて二人は結婚し、夫婦となった。
「妻と付き合い出してからはね、毎年、出会った梅の木の下で花見をするようになった。満開の桜ではなく一本だけの梅を見に行く私たちは、さぞかしおかしなカップルだっただろうね」
当時の自分たちのことを思い出したのだろう。源内がクスクスと忍び笑いを漏らす。
「そうそう、銀婚式の時には、妻に万葉集を送ってね。製本家に表紙を改装してもらった特注品で、妻は大層喜んでくれて……。それからは、花見に毎年その本を持っていくようになって、二人で読むようになったんだ。今にして思えば、より一層おかしなふたりになっていたかな」
「そんなことないです! 全然おかしくないですよ!」
おどけた口調で言う源内に、志希はグッと拳を握り締め、勢い込んで言い募った。
「源内さんと奥さんの話、本当に素敵です。まるで、物語の出来事みたいで……。私、感動しました!」
「いやいや、お恥ずかしい限りだ」
感じ入った様子の志希に困った笑顔でそう返しながら、源内はコーヒーカップを手に取る。しかし、いつの間にかカップのコーヒーは空になっていた。
「どうぞ。素敵なお話を聞かせていただいているお礼です」
荒熊さんが、すかさずおかわりのコーヒーを源内さんに出す。話を聞きながら準備していたらしい。さすがは神様。視野が広くて……何というか、抜け目ない。
「ありがとう。お言葉に甘えて、いただくよ」
荒熊さんからの厚意を受け取り、源内はコーヒーで乾いた喉を潤した。
その隣で、志希がうっとりした様子で呟く。
「それにしても、源内さんと奥さんをつないだ梅の木ですか……。何だか私も、その木を見てみたくなりました」
「僕も同感だね。ちょうどシーズンだし、今度、隣町へ行ってみようか」
「いいですね! お弁当を持ってお花見に行きましょう、明日香ちゃんも誘って! 私、腕によりをかけて作ります!」
お花見話で盛り上がり始める志希と荒熊さん。志希は「よろしければ、源内さんも一緒にいかがですか?」と源内にも話を振る。
しかし、そんなふたりに向かって、源内はゆっくりと首を振った。
「残念だが、それは無理だよ。その梅の木は……五年前に枯れてしまったから」
「……え」
源内から告げられた言葉に、志希は戸惑いと共に身を固まらせる。
「私も詳しくはわからないが、病気にやられてしまったらしい。今では、切り株しか残っていない」
そう語る源内は、ひどく悲しげだ。梅の木が枯れてしまったことは、それだけ源内にとってもショックな出来事だったということだ。
そして、それは当然、源内の奥さんにとっても辛く悲しい出来事だったということで……。
「妻も、残された切り株を見て、とても悲しんでいたよ。まるで、半身を亡くしたみたいだと……。そして、まるで梅の木の後を追うように、二年前に癌で他界してしまった」
そう告げて、源内は思い出語りを締め括った。
志希は、もはや何も言うことができずに、沈んだ面持ちで黙り込む。
自分が調子に乗って「梅の木を見てみたい」なんて言った所為で、源内に辛い話までさせてしまった。本当に、自分の軽率さが恨めしい。
そして、そんな志希の感情は、またもや源内に伝わってしまったようだ。源内は志希に向かって「気にしないでいいよ」と労わるように言った。
「こんな風に言っていいのかわからないが、私としては二人に最後まで話を聞いてもらえてよかったよ。二人に昔のことを話したら、何だか心が軽くなった。最近は新しい生活のことを考えて気が重くなることも多かったから、余計に晴れやかな気分だ」
「新しい生活……ですか?」
俯いていた志希は視線を上げて源内の方を見つめ、その言葉を繰り返す。
源内はひとつ頷いた後、「いい機会だから、これも言っておこうか」と言葉を継いだ。
「実はね、隣の県に住む息子夫婦から、一緒に暮らさないかと誘われてね。私ももう歳だし、その申し出を受けることにしたんだよ。だから、もうすぐこの店にも通えなくなる」
引っ越しは来週末の予定だ、と源内は穏やかに語った。
「それは……残念です」
「私もだよ。この店は、私のお気に入りだからね」
残念そうに尻尾と耳を垂れる荒熊さんへ、源内が微笑みかける。
だが、その微笑みには、すぐに影が下りた。
「ただ――正直に言うとね、私は新しい生活を始めることが少し怖いんだ。妻もいなくなった今、私は一人で新しい生活に馴染めるだろうか、とね。だから、最近は余計に妻のことを思い出すのだろう。『叶うものならもう一度、あの公園で妻と梅の花を見ながら万葉集を読みたい』なんて考えてしまうほどだから、情けない限りだ」
「……情けないことなんて、少しもないですよ」
荒熊さんと源内の会話を聞いていた志希が、首を振る。
大切な奥さんを亡くして半世紀ぶりに一人になって、息子さん夫婦のところとはいえ、住み慣れた町からも離れていこうとしている。それを不安に思うのは、人として当然のことだ。情けないはずがない。
「ありがとう。志希ちゃんは、優しいね」
志希の気遣いを受け取った源内が、いつもの穏やかな笑みを見せる。
「ともあれ、この店に来られるのもあと少しだけど、これからもよろしく頼むね」
そう言うと、源内はお勘定を置いて帰っていった。
その背中に、志希は寂しさを感じるのだった。




