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第166章「夏祭りへ」

「休み明けの模擬試験の成績が悪かったらクラス落ちするからな」

「残りあと半年、この夏を制した者が受験を制するんだ。気を抜くな!」

 

 講義は講師の厳しい言葉で締めくくられた。

 思わずふうっと息が漏れた。

 テキストを鞄にしまって受講生たちが一斉に席を立つ。


 稔も混じって講義室を後にする。


「うーん……」


 大きく体を伸ばす。

 一日座っていたから、動かさないわりには身体がくたくた。

 運動した充実感のある疲れとは違う不健康な疲れだ。


「なあ、志望校決めたか?」

「模擬試験、怖いよ。成績落ちてたらママに怒られちゃう……」


 周囲は同じように遅くまでの講義で疲れた子どもたちの顔が並ぶ。

 みな一様に窪んだ眼だ。

 進学塾の夏期講習は長い。

 気づけば、もう夏休みは残り少ない。

 6年生。そして受験生である御手洗稔の夏は、涼しい冷房の聴いた講義室で大半を過ごした。

 外へ出た途端にむわっと襲ってきた夜の湿っぽい暑さにようやく今が夏であることを思い出した。


「あれ?」


 帰路につく稔はいつもと様子が違うことに気づいた。

 この時間、夜の道路はほとんど人気が無いのに今日はやたら人がいっぱい歩いている。

 家路につく人々の流れ。

 綿飴を手に親に手を引かれて歩く小さな女の子。

 すぐに近所で開催されていたお祭り帰りの人々だとわかった。

 そして、その賑わいの中でひときわ目立つ集団が稔とは反対側の歩道を歩いていた。

 お面を斜めにかぶり、手には金魚すくいの袋。ヨーヨー袋、綺麗な巾着袋。そして綺麗な浴衣姿。


「あ、楢崎……」


 忍とさやかたちの女子グループだった。

 会話は雑踏で聞き取れないが、なにやら楽しそうにおしゃべりしながら歩いている。

 そして胸が鳴った。

 花や模様が施された浴衣と、櫛で綺麗に纏められていた盛り髪。

 そして足の花下駄。

 夏らしく涼しげで艶やかだった。

 浴衣姿の女子たちがーー。いつになく綺麗に見えた。

 そしてまぶしかった。

 夏を楽しむ華やかな女子たちは、まさに今を楽しみ、かけがえのない時間を仲間と過ごす少女時代の一コマ。


ーうらやましいー


 その時の稔は、自分もあの女子たちになりたいとまでは思っていない。ただ、羨望の想いを抱いたのは確かだった。

 楢崎忍と視線があった。隣のさやかも気づいた。


「あ、稔君?」


 声が耳に届いた。

 だが直後に稔は逃げたのだった。

 別に理由はない。ただ、なんとなく晴れやかな姿で楽しそうにしている女子たちの姿を見て、ギャップを感じてしまった。

 見られたくない。

 本来は受験という目標に向かって頑張っている自分が何故かみじめに感じた。

 疲れ果て夏も秋もない、空調の利いた部屋で一日座りっぱなし。

 なんのために勉強しているのか、胸にぽっかり穴があいていくような感覚を覚えてしまった。

 走って帰った。

 途中、妙に気持ちが収まらない稔はコンビニで買い食いをした。

 むしゃくしゃした気分を覚えた。





 運命の悪戯、いや三日月先生の悪戯かもしれない。

 それから時を超えーーさかのぼりーー。

 まさかあの時の女子たちに混じって自分が浴衣を着て参加することになるとは稔はまさか思わなかっただろう。


「ん……ちょっときついよ」

「動いているうちに緩んできちゃうから我慢しなさい」


 強めに閉められた帯に少し顔をしかめた。


「遅刻しないかな……」

「さやかちゃんとは5時に待ち合わせでしょ。まだ大丈夫よ」


 鏡の前で母と共に格闘する美乃理はちらりと時計をる。

 時計は4時30分を指している。


 合宿から帰ってようやく美乃理は本当の夏休みを過ごした。

 母の実家に帰省し、三日ほど過ごした。

 そしてまだ残る宿題の片づけに取りかかり、それが終わるとまた毎日新体操部の練習三昧の日々に戻る。大会も控えて練習はさらにヒートアップする。忙しいが充実感は受験の比ではない。

 だがその前に夏休み最後のイベントがあった。

 地元花町神社で定例の夏祭りだ。

 御神輿。屋台。打ち上げ花火等々、様々な催し物が行われる近隣でも盛大なお祭りであった。

 毎年8月の下旬に行われるこの祭りは、町の人々にとっても夏休み最後のイベントであった。

 そして美乃理といつもの仲良しグループ、忍やさやかたちと、お祭りを楽しむのは小学生以来の恒例であった。

 小学卒業以来地元の中学に進学した子たちと、久しぶりに会える。

 もちろん美乃理は楽しみだ。

 一方で、その準備が大変だ。

 このお祭りには、浴衣を着て参加するのが決まりとなっていたのだ。


 さやかからもメッセージで今年の美乃理ちゃんの浴衣期待しているよ!と着ていたために、余計に逃げられない。

 もちろん快諾の返事はした。

 美乃理は、よく知っている。

 女子の同調圧力はなかなかに手強い。

 ちょっと周囲と違う、浮いている。それだけで意地悪をされたり無視が始まってしまう、そういう光景を美乃理は別の女子グループで目の当たりにしてきた。

 涙目で、誰々さんが、~ちゃんが……口をきいてくれない。嫌みや悪口を言われた、など。

 もちろんさやかも忍もそういった仲間外れや意地悪をしたりすることはない。

 だが女子にとって周囲との一体性を重視することの大事さは美乃理も認識していた。

 とにかく美乃理は今、夏祭りのために着る浴衣を準備中であった。


「はい、完成」

 

 母がぽん、と肩を叩く。

 やっと解放された。

 実のところ祭りの予定を一ヶ月前から聞かれてこの日のために準備を始めていた。浴衣、髪飾りはどうしようかと、すでにノリノリだった。

 娘の浴衣の着付けをするのは母親冥利につきるといったところだ。


「もう面倒だな……」


 そして鏡に映った自分を眺めた。

 そこにはいつもと違う自分がいる。

 浴衣姿であった。

 夏らしい水色と鮮やかな赤青ピンクの花があしらわれた柄につつまれ、きちんと帯に締められて、涼やかな少女が映っている。


「うん、まあいいかな」


 いつもと違う雰囲気の自分に気恥ずかしさと、なかなか悪くない……というが自分がいる。


 出発前はいつも準備に忙殺されてしまう。

 そして、もともと無頓着な美乃理を案じて母が着付けをかってでている。

 普段ファッションに執着しない美乃理が一生懸命衣装に気合いを入れているために手伝う母も、気合いが入る。


「ほら、動いちゃだめよ。着崩れしちゃうから」


 美乃理が数少ない自分でできる髪型、ポニーテールを作る。

 長い髪を丁寧にまとめて、白地にピンクの玉模様のシュシュで止める。


 歩きにくい花下駄を履く。

 普段と違い足の指の間に鼻緒が食い込む。


「じゃあ、行ってくるよ」


 そんなこんなでようやく家を出発。 

 念のために連絡役のさやかに今家を出た、とメッセージを送っておいた。

 カラン、コロンと特有の足音を立てて歩く。

 履き慣れないものだけに、歩みは遅い。

 それに浴衣も動きやすいものではない。

 なので歩みは当然遅くなる。


「はは……ぎりぎりかな」


 確かに華やかな衣装ではあるが、当人は不便。同じ華やかでも動きやすいレオタードとは違う。

 普段と同じ服装で構わない男子が少しうらやましい。


 歩いて祭りの会場に向かう中、思わず美乃理は夕暮れの天を仰ぎながら誰かに向かってささやいた。

(ねえ、稔。君はどう思う?……)

 時折、美乃理は稔をもう一人の自分という別人格に位置づけ、問いかけや対話を胸のうちでする。

 稔の頃の男子の意識もあるが、女子としての意識も主張している、せめぎあっているのが今の美乃理だ。

 自分を客観的に見つめるために行ういくつかの方策の1つである。

(笑うかな……綺麗っていうのかな)

 女子としてもう何年も過ごしている。

 新体操をやっている。

 こうやって女子としての時間を楽しんでいる。

 そして今日もーー。稔に語りかけた。

(あの時にできなかった、夏を精一杯楽しんでくるから)

なんとなくここで夏祭りのエピソードをしたくなったので入れました。

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