第3話 ロラン・グラーフ辺境伯
「ルシアーナ様」
私の部屋の扉をノックする音が聞こえた。侍女長の声だった。
私は椅子からむくりと起き上がった。
精霊たちにも顔を見られたくなくて、椅子に横になっていたのだが、どうやら私は寝てしまっていたらしい。
もう夜なのか、部屋はすっかり暗くなっていた。窓の外に降る白い雪だけが明るく見えた。
それにしても、侍女長の用事はなんだろうか。
「……はい、どうかしましたか」
「旦那様が帰ってきました。ぜひ一緒にご夕食をと」
白々しい。愛人を囲っておきながら、どの口が言っているのか。それとも辺境伯は、何人もの女性を愛せるタイプなのかしら。
だから、愛人のアネットもあんな感じだったってこと?
同じ妻として、仲良くしましょうねってこと?
私は御免だ。
「さっきのアネットさんも、夕食の席にはいるの?」
「……はい」
扉の向こうから聞こえる侍女の声は、どこか歯切れが悪かった。
やっぱりそういうことなんだ。
悔しさを通り越して、なんだか腹が立ってきた。
「私は部屋で食べます。辺境伯にも、そう伝えて」
——言った。言ってやった。
王太子殿下の婚約者をしていた時は、こんなわがまま絶対に言えなかった。
言えば、世話役の侍女や先生に叩かれたし、殿下にも怒鳴られたから。
私は、間違ってない。王命に従って、この土地には来た。
あとは好きにさせてもらう。
侍女長は、「承知いたしました……」と力ない返事を返した。こつんこつんと階段を下りる音がして、次第にそれも聞こえなくなった。
「良かったのか、ルー?」
ウンディーネが私の隣に座っていた。
「いいの」
「でも赤毛だよ? 一等綺麗だよ?」
今度はシルフィードだ。私の目の前を右へ左へと飛ぶ。
「いいったら、いいの!」
私はそのままベッドにダイブして、目と耳を塞いだ。
「せっかくの赤毛なのに」とか「もったいないよな」とかいう二人の声も無視だ。聞きたくない。
しばらくすると、部屋の戸をノックする音が聞こえた。
また侍女長だろうか。
「ツェラー嬢」
その声に私は飛び起きた。
若い男の声だった。
「辺境伯様ですか?」
「あぁ、そうだ。食事を持ってきたんだ……その、部屋に入ってもいいか?」
辺境伯が自分で持ってきたっていうの?
私は慌てて走り、部屋の戸を開けた。
長い前髪の隙間から、恐る恐る辺境伯の顔を見上げた。
すらっとした体躯。身にまとっているのは、貴族とは程遠い襟元に紐を通しただけのシャツにウールのカーディガンを着ただけのラフな装いだった。夕日のような橙の瞳に、まるで林檎のような茜色の髪。
驚いたことに、辺境伯は私が想像していたより、ずっと若かった。
どこかあどけなさの残る顔。
毎日魔物退治に明け暮れていると聞いたから、もっと武骨で……少なくとも私より十は年上だと思っていたのに、私の前に立つ男は、たぶん私とそんなに歳は違わないだろう。
これでは純朴な……羊飼いとかの方が似合いそうだ。
彼の容姿は、王都で聞いた血みどろ辺境伯の呼び名からかけ離れた姿をしていた。
「ツェラー嬢……?」
背の高い辺境伯は、まるで困った大型犬のように眉を下げて私を見下ろしていた。
「あ……初めまして、ルシアーナ・ツェラーでございます。ご挨拶が遅れて、申し訳ありませんでした」
「初めまして……」
私の言葉に辺境伯は、少しだけ肩を落としたが、すぐに食事の乗ったトレーを持って部屋に入ってきた。
辺境伯の後ろには、もう一枚トレーを持った侍女長も続いて部屋に入ってくる。
私の部屋のテーブルには、二人分の食事が並んだ。
「え……辺境伯様も一緒に食べるのですか?」
「いけなかったか?」
質問に質問で返されてしまった。
「……いえ、驚いただけです」
愛人とも食事をして、正妻とも食事をするってこと?
まめな方なのね……
私が椅子に座ろうとすると、辺境伯が私の椅子を引いてくれた。
思わず辺境伯を見てしまう。
「変だったか? こういうのは、よく分からないんだ」
「いえ、ありがとうございます……嬉しいです」
こんなことされたのは、初めて……いや、ほだされてはいけない! この男は、どの女にもこうするに違いないんだから。
その後、私と辺境伯は、何を話すでもなく静かに食事をした。
沈黙が気まずい。何か気の利いた話でもした方がいいんじゃないかという気がして、たまに辺境伯を見ると、彼はなぜか私から目を背けてしまった。
食事が終わると侍女長が静かに食器を片付け始める。
話すこともないのにこの方は、なんのためにここに来たのだろう。
私が席を立つと、辺境伯も慌てたように席を立ちあがって、私の前に立った。
「あの、ツェラー嬢」
「はい?」
「結婚式の日取りだけど――」
私はその言葉で、一瞬頭が真っ白になった。
この人は、王太子殿下より質が悪い。
殿下は、まだ婚約破棄してくれた。だけどこの人は、本当に私と結婚する気でいるんだ。愛人を囲っておきながらだ。
「君の意見が聞きたい」
私の意見。なら答えは決まっている。
「この雪が融けた時に」
食器を片付けていた侍女長がひゅっと息を呑む音が聞こえた。
私は知っていた。このグラーフ領は、一年中雪の融けない常冬の土地であることを。
「……そうか」
辺境伯の顔は見たくなかった。
「分かった……雪を融かせばいいんだな」
「え」
彼はそれだけ言うと、部屋を出て行ってしまった。




