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魔王軍、元人事担当に土下座する

 辺境都市アークライトでの仮採用から、三日が過ぎた。


 レオン・ハルバードは、役場の片隅に置かれた小さな机で、書類を眺めていた。


 机の上には、赤、青、白の札が並んでいる。


 赤は今日中。


 青は明日。


 白は今週中。


 最初は役人たちに嫌な顔をされた分類だったが、三日も経つと、誰もが自然に札を見るようになっていた。


「レオンさん、商業許可の赤です」


「こちらへ」


「農地変更の青、第二棚でいいですか?」


「はい。明日の午後にまとめて確認します」


「冒険者ギルドの白が増えてます」


「今日処理しなくていいものは、増えても問題ありません」


「増えても問題ない……」


 若い役人が、その言葉をかみしめるように呟いた。


「なんだか、すごい言葉ですね」


「そうでしょうか」


「今まで、書類が増えたら全部終わりだと思ってました」


「分類されていない書類が増えると終わります」


「怖い言い方をしないでください」


「事実です」


 若い役人は顔を引きつらせながら、書類を棚へ運んでいった。


 役場はまだ忙しい。


 書類は減っていない。


 人手も足りない。


 ただ、以前のような焦げ臭い空気は少し薄くなっていた。


 誰かが怒鳴る前に、誰かが水を飲む。


 誰かが倒れる前に、誰かが椅子を引く。


 誰かが全部抱えようとしたら、ミリアが睨む。


 それだけで、組織は少し呼吸を取り戻す。


 レオンは、壁に貼った簡易勤務表を見た。


 役場職員。


 城門兵。


 治療院連絡係。


 冒険者ギルド窓口。


 全員の横に、短い休憩時間を書き込んである。


 そして一番下には、自分の名前もあった。


 レオン・ハルバード。


 昼休憩。


 その文字を見て、レオンは眉をひそめた。


 まだ慣れない。


「レオンさん」


 横から声がした。


 ミリアだった。


 書類を抱えたまま、じっとこちらを見ている。


「今、自分の休憩を消そうとしたでしょう」


「まだ消していません」


「消そうとしたのね」


「検討していました」


「却下」


「早いですね」


「あなた相手には早めに言わないと、いつの間にか消えてるから」


 ミリアは机の上に書類を置いた。


「昼は休むこと。これは雇用条件」


「承知しています」


「本当に?」


「……はい」


「間が長い」


 ミリアが疑うように目を細める。


 レオンは素直に羽ペンを置いた。


 その時だった。


 役場の入口が、乱暴に開かれた。


 重い扉が壁にぶつかり、大きな音を立てる。


 役人たちが一斉に顔を上げた。


 入口に立っていたのは、黒い鎧を着た魔族だった。


 背は高い。


 角は短く、目つきは鋭い。


 腰には魔王軍の紋章が刻まれた剣。


 背後には、護衛らしき魔族が二人。


 役場の空気が、すぐに凍った。


「レオン・ハルバードはどこだ」


 黒鎧の魔族が言った。


 その声は、役場にいた人々を萎縮させるには十分だった。


 若い役人が書類を落とす。


 ミリアがレオンの前に出ようとした。


 だが、その前にレオンが立ち上がる。


「私です」


 黒鎧の魔族が、レオンを見た。


 そして鼻で笑った。


「いたか。ずいぶん小さな机に収まったものだな」


「役場の備品ですので」


「皮肉のつもりか」


「事実です」


 レオンは一礼した。


「どちら様でしょうか」


 黒鎧の魔族は胸を張った。


「魔王軍第六伝令隊長、ガルド。魔王ゼルギウス陛下の命により来た」


 役場にざわめきが広がる。


 魔王。


 その名だけで、人間の町に緊張が走る。


 ミリアは短剣の柄に手をかけた。


「魔王軍が、この町に何の用?」


 ガルドはミリアを一瞥する。


「人間の小娘に用はない」


 ミリアの眉がぴくりと動いた。


 レオンは静かに口を挟む。


「こちらはミリア・アークライトさん。この町の領主の娘であり、現在の私の雇用主です」


「雇用主?」


 ガルドが笑う。


「魔王軍の者が、人間の町で雇われるとはな」


「昨日までは魔王軍の者でした。現在は違います」


「貴様の都合など知らん」


 ガルドは一歩前へ出た。


「レオン・ハルバード。魔王陛下の命である。直ちに魔王城へ戻れ」


 役場が静まり返る。


 レオンは、机の上の勤務表をそっと押さえた。


「お断りします」


 ガルドの表情が固まった。


「……何?」


「お断りします」


「聞こえなかったわけではない!」


「では、もう一度申し上げる必要はありませんね」


 若い役人が、思わず小さく吹き出しかけた。


 ミリアが肘で止める。


 ガルドの顔が赤くなる。


「貴様、魔王陛下の命に逆らうつもりか!」


「私はすでに解雇されています」


「だから何だ!」


「命令系統から外れています」


 レオンは淡々と言った。


「私に対する魔王軍からの業務命令は、現在無効です」


 ガルドが口を開けたまま固まった。


「無効……?」


「はい」


「魔王陛下の命だぞ」


「私の現在の雇用主は、この町です」


「魔王軍が困っているのだぞ!」


「でしょうね」


 レオンの返答は、静かだった。


 静かすぎて、役場の空気が少しだけ変わる。


 ガルドは歯を食いしばった。


「わかっているなら戻れ!」


「わかっているから戻りません」


「どういう意味だ!」


「私が戻れば、その場は多少回るでしょう」


 レオンは言った。


「ですが、それだけです」


 ガルドは苛立ったように剣の柄を握る。


「口答えをするな。貴様は魔王軍に拾われた身だろう」


 その言葉に、ミリアの目が険しくなった。


 だが、レオンは表情を変えなかった。


「はい。拾われました」


「ならば恩を返せ」


「十年返しました」


 ガルドの手が止まる。


 レオンは続けた。


「これ以上は、恩ではなく依存です」


 役場の誰も動かなかった。


 ガルドはしばらくレオンを睨みつけていたが、やがて低く言った。


「……後悔するぞ」


「後悔は、すでにいくつかあります」


「ならば」


「ですが、戻らないことは後悔しません」


 ガルドは、もう言葉を探せなかった。


 彼は乱暴に外套を翻す。


「この返答、陛下に伝える」


「お願いします」


「貴様の態度もな!」


「正確にお願いします」


 ガルドは扉を乱暴に開け、出ていった。


 護衛たちも慌てて続く。


 役場に沈黙が残った。


 しばらくして、若い役人がぽつりと言う。


「……魔王軍って、思ったより書類の話が通じないんですね」


「通じる方もいます」


 レオンは座り直した。


「少数ですが」


 ミリアはレオンを見る。


「大丈夫?」


「はい」


「顔色、あまり大丈夫じゃないけど」


「元上司から連絡が来ると、誰でも多少は顔色が悪くなります」


「それはそうね」


 ミリアは少しだけ笑った。


 だが、その笑みはすぐに消えた。


「また来る?」


「来ます」


 レオンは言った。


「今度は、もう少し重要な人たちが」


 その予測は、夕方には当たった。


 日が傾き、役場の窓から赤い光が差し込む頃。


 町の見張り台から鐘が鳴った。


 一回。


 二回。


 三回。


 敵襲ではない。


 だが、緊急を告げる鐘。


 ミリアが窓へ走る。


「何?」


 見張りの兵士が叫んだ。


「魔族です! 魔族の一団が、東門に!」


 役場がざわつく。


 レオンは立ち上がった。


 東門では、すでに避難誘導が始まっていた。


 商人と農民は、門の内側にある広場へ回されている。


 荷車は左の倉庫前へ。


 子どもと老人は領主館側の通路へ。


 冒険者たちは、普段なら武器確認に使う右側の列を、そのまま防衛線へ切り替えていた。


 剣を抜く者。


 弓を構える者。


 魔法杖を握る者。


 門前に残っているのは、兵士と冒険者だけだ。


 人の流れは、混乱していない。


 怯えはある。


 だが、逃げ場が見えている。


 レオンはその光景を見て、ほんの少しだけ息を吐いた。


 三日前に作った線が、辛うじて生きている。


 その防衛線の向こうに、四つの影があった。


 炎獄将軍ヴァルガ。


 氷霜参謀イリス。


 影刃暗殺卿ナハト。


 夢魔宰相リリス。


 魔王軍四天王。


 人間の町にとっては、悪夢のような顔ぶれだった。


 だが、実際の彼らは悪夢というより、悪夢を見たあとに出勤してしまった人たちだった。


 ヴァルガは包帯だらけだった。


 片腕を吊り、鎧のあちこちに焦げ跡と凹みがある。


 それでも立っているのが、むしろ異常だった。


 イリスは目の下に濃い隈を作っていた。


 抱えている資料の束は、薄くなっている。


 正確には、資料を抱える腕力が残っていないため、半分を後ろの小さな氷精に持たせていた。


 ナハトの周囲には、部下が一人もいなかった。


 影は濃い。


 だが、いつもより静かだった。


 リリスは美しい笑みを浮かべていた。


 腕には、黒い布で作られた腕章。


 そこには銀糸でこう刺繍されている。


『魔王城・互助労働血盟 代表』


 レオンはそれを見て、わずかに目を細めた。


 本当に、一日前倒しで作りやがった。


 ミリアが隣で目を細める。


「……何あれ」


「行動が早い方です」


「早いにも種類があると思うけど」


 兵士の一人が震える声で言う。


「ミリア様、攻撃命令を」


「待って」


 ミリアはレオンを見た。


「どうする?」


「話します」


「本当に?」


「はい」


「相手、四天王よ」


「元同僚です」


「その言い方で急に近所の人みたいにしないで」


 レオンは一歩前へ出た。


 防衛線のさらに前。


 隔離された門前の空間に立つ。


 ミリアもすぐ横に並んだ。


「私はついていく」


「危険です」


「あなた一人で行かせる方が危険よ。主にこの町の信用的に」


「それは否定できません」


 二人は門の最前線に立った。


 四天王たちは、魔王の本隊より先に到着していた。


 おそらく、わざとだ。


 黒い馬車がここへ来るまでの、ほんの数分。


 魔王が降り立つ前に、どうしても言わなければならないことがあったのだろう。


 最初に口を開いたのはヴァルガだった。


「レオン」


 声がかすれている。


 いつもの腹の底から響くような声ではない。


 それでも、彼は無理に背筋を伸ばしていた。


「戻ってきてくれ」


 門前の空気が揺れた。


 炎獄将軍ヴァルガが、頭を下げた。


 人間の兵士たちが息を呑む。


 レオンも、すぐには答えなかった。


 ヴァルガは続ける。


「俺が悪かった。お前の言う通りだった。俺が出ればいいと思ってた。俺が倒れなければ、前線は持つと思ってた」


 彼は笑おうとした。


 だが、うまく笑えなかった。


「倒れた。普通に」


 リリスが横から言う。


「普通に、というより、前線指揮所で立ったまま気絶しました」


「細かいことはいいだろ」


「細かくありません。大問題です」


 ヴァルガは言い返そうとして、咳き込んだ。


 レオンは眉をひそめる。


「将軍。座ってください」


「いや、俺は」


「座ってください」


 レオンの声が少しだけ強くなった。


 ヴァルガは反射的に近くの石に腰を下ろした。


 ミリアが小さく呟く。


「今の、すごく自然に従ったわね」


「癖です」


 ヴァルガが気まずそうに目を逸らした。


 次に、イリスが一歩前へ出た。


「レオン」


 彼女の声は、普段よりずっと弱かった。


「あなたの資料、全部正しかった」


「読んだのですか」


「三割ほど」


「三割」


「残りは、会議に持っていかれました」


「会議が資料を奪うのは末期ですね」


「はい」


 イリスは小さく頷いた。


「会議が、結論を出すためではなく、責任の置き場所を探すための場になっています」


「そうなると長いです」


「長いです」


「止める人は」


「いません」


 イリスは一瞬だけ目を伏せた。


「あなたが、いません」


 その言葉に、レオンは返事をしなかった。


 ナハトが、音もなく前へ出た。


 彼は相変わらず無表情だった。


 だが、その影は薄い。


 まるで、いつもの半分しかそこにいないようだった。


「部下が」


 ナハトは言った。


 それだけで黙る。


 レオンは待った。


 ナハトはさらに数秒沈黙したあと、続けた。


「いない」


「はい」


「全員、退職した」


「提出方法は」


「枕元」


「短剣で?」


「全員」


「……そうですか」


 ナハトは袖の中から、羊皮紙の束を取り出した。


「これは、予備」


 レオンは受け取らない。


「私に渡されても困ります」


「処理を」


「しません」


 ナハトの影が少しだけ揺れた。


「処理を」


「しません」


「……そうか」


 ナハトは羊皮紙を下げた。


 その横で、リリスが一歩前に出る。


 彼女は微笑んでいた。


 けれど、その笑みは第1話の時のような死んだ笑顔ではなかった。


 疲れてはいる。


 目の下に薄い隈もある。


 だが、どこか晴れやかだった。


「レオン」


「リリス様」


「あなたの予測より一日早く、血盟ができました」


「さすがです」


「褒められている気がしないわ」


「褒めています」


「ちなみに参加者は、今朝の時点で二百を超えました」


「増えていますね」


「陛下は、忠誠心が足りないとおっしゃったわ」


「言いそうです」


「だから教えて差し上げたの」


 リリスは優雅に微笑んだ。


「忠誠心だけで勤務表は白くなりません、と」


 ミリアが横で小さく頷いた。


「それは正しい」


「でしょう?」


 リリスが楽しそうにミリアを見る。


「あなたがミリアさん?」


「ええ」


「レオンを拾ってくれてありがとう」


「拾ったというか、倒れていたので」


「よく倒れるでしょう?」


「ええ。昨日も自分の休憩を消そうとしてたわ」


「やっぱり。レオン君の悪い癖ね」


 二人の生暖かい視線に、レオンは静かに目を逸らして咳払いした。


「……話を戻します。皆さんがここへ来た理由はわかっています」


 ヴァルガが顔を上げる。


「なら」


「戻りません」


 即答だった。


 四天王たちの表情が止まった。


 ミリアも、レオンを見る。


 レオンはまっすぐ四天王を見た。


「私は、魔王軍には戻りません」


 ヴァルガが立ち上がりかける。


「レオン!」


「座ってください」


「……おう」


 ヴァルガは座り直した。


 イリスが小さく言う。


「理由を、聞かせてください」


「私が戻っても、同じことが起きるからです」


 レオンは答えた。


「今の魔王軍は、人を使い潰すことを前提に動いています。私が戻れば、しばらくは回るでしょう。ですが、それは壊れる時期を先送りにするだけです」


 ナハトが言う。


「では、どうすれば」


「仕組みを変えるしかありません」


「陛下は、変えない」


 短い言葉だった。


 だが、それが答えだった。


 リリスは腕章に触れる。


「だから、私たちは来たの」


 ヴァルガが拳を握る。


「俺は、部下をこれ以上潰したくねえ」


 イリスが目を伏せる。


「私は、会議で人が壊れていくのを見たくありません」


 ナハトが無表情で言う。


「部下が、戻らない」


 リリスが静かに微笑む。


「そして、私は無料カウンセラーではありません」


 ミリアは彼らを見た。


 人間領の恐怖の象徴。


 魔王軍四天王。


 そのはずなのに、今ここにいるのは、ただ限界を超えた部門長たちだった。


 レオンは少しだけ息を吐いた。


「なら、戻るべきなのは私ではありません」


「どういうことだ」


 ヴァルガが聞く。


「皆さんが、自分で陛下に言うべきです」


 四天王たちが黙った。


 リリスの笑みが薄くなる。


 イリスは資料を抱える手に力を込めた。


 ナハトの影が揺れた。


 ヴァルガは視線を落とす。


「それができりゃ、ここまで来てねえよ」


「はい」


「はいって、お前な」


「だから、私は戻りません」


 レオンは静かに言った。


「私が戻れば、皆さんは言わなくて済んでしまう」


 その言葉に、四天王たちは動けなかった。


 痛いところを突かれた顔だった。


 ミリアはレオンを見た。


 いつもの淡々とした声。


 けれど、その奥に、わずかな痛みがある。


 十年支えた相手を突き放すのは、簡単ではない。


 それでもレオンは、突き放している。


 戻ることが、支えることではないと知っているから。


 その時だった。


 門の向こう、東の街道に、黒い馬車が現れた。


 魔王軍の紋章。


 黒曜石の車輪。


 周囲を囲む魔族兵。


 四天王たちの顔が、一斉に強張った。


 ヴァルガが歯を食いしばる。


 イリスの指先が震える。


 ナハトの影が濃くなる。


 リリスの笑みが消える。


 たった数分。


 彼らに許された本音の時間は、そこで終わった。


 レオンは、馬車を見た。


「……陛下」


 ミリアが低く言う。


「あれが、魔王?」


「はい」


 黒い馬車が門前で止まる。


 扉が開いた。


 魔王ゼルギウスが降り立つ。


 巨大な黒角。


 漆黒の外套。


 周囲の空気を沈ませるほどの魔力。


 町の兵士たちが、一歩後ずさる。


 冒険者たちの手が剣に伸びる。


 子どもが遠くの広場で泣き出した。


 それほどの存在感だった。


 ただ立っているだけで、戦場のようになる。


 魔王は、まず四天王を見た。


 次に、ミリアを見た。


 最後に、レオンを見た。


「レオン」


 低い声だった。


「戻れ」


 謝罪ではなかった。


 懇願でもなかった。


 命令だった。


 少なくとも、魔王自身はそのつもりだった。


 レオンは、一礼した。


「お断りします」


 魔王の眉が動く。


「聞こえなかったか」


「聞こえました」


「ならば戻れ」


「戻りません」


 魔王の魔力が、わずかに膨れ上がる。


 人間の兵士たちが震える。


 ミリアは短剣を握った。


 レオンは動かない。


「なぜだ」


 魔王が問う。


「私が戻っても、同じことが起きるからです」


「同じこと?」


「はい」


 レオンは魔王を見た。


「魔王軍の問題は、人事担当がいないことではありません。人を使い潰しても当然だと思っていることです」


 魔王の目が細くなる。


「戦争だぞ」


「はい」


「休暇などと言っている場合か」


「私がいないから壊れたのではありません」


 レオンは、魔王の背後にいる四天王たちを静かに見た。


「最初から壊れていたんです」


 魔王の眉が動く。


「何を」


「その目で、彼らを見てください」


 レオンは言った。


「どれほど強大な魔力があろうと、彼らの肉体はただの生身です。限界を超えれば、石のように倒れる。彼らに必要だったのは、陛下への忠誠ではなく、ただの休息です」


 魔王は動かなかった。


 動けなかった、と言ってもいい。


 包帯だらけのヴァルガ。


 立っているだけで限界のイリス。


 部下を失ったナハト。


 血盟の腕章をつけたリリス。


 彼らは全員、魔王の前にいた。


 数字ではない。


 報告書でもない。


 顔だった。


 魔王が見ようとしなかった顔だった。


「貴様」


 魔王の声が低くなる。


 魔力がさらに重くなる。


 ミリアが一歩前へ出ようとした。


 だが、レオンが手で制した。


 レオンの背中は、わずかに強張っている。


 怖くないわけではない。


 それでも、退かない。


「忠誠は、睡眠の代わりにはなりません」


 その言葉が落ちた瞬間、空気が凍った。


 魔王の目が鋭くなる。


 四天王たちは、息を呑む。


 魔王は低く言った。


「お前は、魔王軍への恩を忘れたのか」


 レオンは一瞬だけ黙った。


 その沈黙は、短かった。


 けれど、誰も声を挟めなかった。


「忘れていません」


 レオンは答えた。


「だから十年、支えました」


「ならば戻れ」


「戻ることは、支えることではありません」


 魔王の拳が握られる。


「お前を拾ったのは、私だ」


「はい」


「人間にも魔族にも居場所のなかったお前に、場所を与えたのは私だ」


「はい」


 ミリアが、レオンの横顔を見る。


 その表情は静かだった。


 静かすぎた。


 魔王は続ける。


「その恩を、こうして返すのか」


「恩があるからこそ、言っています」


 レオンの声は少しだけ低くなった。


「今の魔王軍は、陛下がかつて作ろうとした軍ではありません」


 魔王の表情が変わった。


 怒りだけではない。


 何か、触れられたくないものに触れられた顔だった。


「黙れ」


「黙りません」


「黙れ、レオン」


「昔の陛下は、兵の名前を覚えていました」


 四天王たちは動かない。


 リリスの目が、少しだけ伏せられる。


「負傷兵の見舞いにも行きました。ゴブリン兵の子どもが生まれた時、祝いの品を出したこともあります」


「黙れ」


「私は、その陛下を信じました」


「黙れ!」


 魔王の魔力が弾けた。


 門前の砂埃が舞い上がる。


 町の兵士が尻もちをつく。


 ミリアがレオンの腕を掴みかける。


 しかしレオンは、まだ魔王を見ていた。


「だからこそ、戻りません」


 レオンは言った。


「今の魔王軍に戻ることは、あの頃の陛下を裏切ることになる」


 魔王は何も言わなかった。


 いや、言えなかった。


 しばらく、魔王の荒い呼吸だけが聞こえた。


 ミリアが、レオンの隣に立つ。


「レオンさんは、うちの町に必要な人です」


 魔王の視線が、ミリアに向いた。


 それだけで、空気が重くなる。


 だがミリアは引かなかった。


「まだ仮採用だけど」


 レオンが小さく言う。


「そこは今言わなくても」


「大事でしょ。正式採用にするかは勤務態度次第だから」


「勤務態度」


「休憩を消したら減点」


「厳しいですね」


「あなたにはこれくらいでちょうどいい」


 緊張しきった空気の中で、リリスが小さく笑った。


 ヴァルガも、疲れた顔で少しだけ笑う。


 イリスの肩から、わずかに力が抜ける。


 ナハトは無言だったが、影が少しだけ薄くなった。


 魔王は、その様子を見ていた。


 自分の前では見せなかった顔。


 疲れ切ってなお、少しだけ息をついた四天王たちの顔。


 魔王の目が、一瞬だけ揺れた。


 その時、町の見張り台から、鐘が鳴った。


 一回。


 二回。


 三回。


 今度は、先ほどとは違う。


 敵襲の鐘だった。


 見張りの兵士が叫ぶ。


「西街道より軍勢! 人間軍です!」


 ミリアの顔が変わる。


「人間軍?」


 兵士は叫び続ける。


「王国旗を確認! 先頭に勇者の紋章!」


 さらに別の見張りが、息を切らせて叫んだ。


「勇者軍です! 前線で崩れた魔王軍本隊を追撃してきた模様!」


 魔王軍の兵士たちがざわつく。


 見張りは、東門の外へ視線を走らせながら続けた。


「勇者軍、東門前にいる魔王軍の魔圧を感知! 西街道から町の外周を回り込み、こちらへ接近中! ものすごい速度です!」


 役場へ向かっていた冒険者たちが足を止める。


 広場に避難していた町の人々がざわめく。


 魔王軍の兵士たちも剣を抜きかける。


 ヴァルガが立ち上がろうとする。


 イリスが資料を抱え直す。


 ナハトの影が伸びる。


 リリスの笑みが消える。


 魔王ゼルギウスの魔力が、再び膨れ上がった。


「勇者か」


 低い声だった。


 レオンは西側の城壁上を見た。


 遠くから白い旗が回り込んでくる。


 やがて、その先頭が東門へ向かう外周路に姿を現した。


 金色の剣を背負った若い男。


 勇者カイル。


 その後ろには、聖女、騎士団、弓兵、補給部隊。


 人間領の英雄たちが、まっすぐ東門前へ向かってきていた。


 ミリアが息を呑む。


「どうして、こんな時に」


 レオンは目を細めた。


 勇者軍の隊列を見る。


 歩幅。


 馬車の揺れ。


 補給荷車の数。


 聖女の顔色。


 弓兵の肩。


 騎士団長の右腕。


 見える。


 見えてしまう。


 戦えないはずの自分が、また両軍の疲弊を頭の中で数え始めている。


 誰を下げるべきか。


 どこで止めるべきか。


 どの部隊から休ませるべきか。


 どうにかしようと、手が自然に羽ペンを探していた。


 本当に、治らない悪癖だった。


 レオンは、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


「……今日は、休憩が取れそうにありませんね」


 ミリアが即座に、その背中を軽く叩いた。


「あとで倍にして取らせるから。一人で抱えようとしたら、本気で減点だからね」


「……はい」


 レオンは少しだけ、肩の力を抜いた。


 魔王軍。


 四天王。


 魔王ゼルギウス。


 人間の辺境都市。


 そして勇者軍。


 最悪の顔ぶれが、東門前に揃ってしまった。


 外周路の向こうで、勇者カイルが剣を抜いた。


 魔王ゼルギウスが、静かに前へ出る。


 その間に立つ形で、レオンは一歩だけ踏み出した。


 剣はない。


 魔法も構えない。


 ただ、状況を見る。


 誰が疲れているか。


 誰が壊れかけているか。


 誰が、もう戦えないのに立っているか。

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