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クビになった人事担当、人間の町で再就職する

 レオン・ハルバードが目を覚ました時、部屋の中は明るかった。


 窓の外から、朝の光が差し込んでいる。


 見知らぬ天井。


 木の梁。


 白い布団。


 枕元には、水差しと硬いパンが置かれていた。


 レオンはしばらく天井を見つめた。


 そして、ゆっくりと瞬きをする。


「……朝か」


 朝だった。


 ただの朝だ。


 会議の資料を確認しなくていい朝。


 第一軍団の出撃表を作らなくていい朝。


 暗殺部隊の任務伝達書を補足しなくていい朝。


 夢魔外交局の相談予約を組み直さなくていい朝。


 何もない朝。


 レオンは、布団の中で固まった。


 何をすればいいのかわからなかった。


 枕元に置かれていた手帳に、視線を向ける。


 昨日までなら、開かなくても予定がわかった。


 誰が限界か。


 どの部隊を休ませるべきか。


 どの会議を潰すべきか。


 誰の退職届を預かっているか。


 だが、今は違う。


 手帳を開いても、今日の欄は真っ白だった。


 その白さを見た瞬間、胸の奥が冷えた。


 自由になったのだと思う。


 けれど同時に、あの場所から切り離されたのだとも思った。


 ヴァルガは、今日も前線に出るのだろうか。


 イリスは、また会議資料を抱えているのだろうか。


 ナハトの部下たちは、命令の意味を理解できているだろうか。


 リリスは、笑えているだろうか。


 もう、自分の仕事ではない。


 そう言い聞かせるたびに、空白は広がった。


 人は、自由になると困るらしい。


 少なくとも、十年間ずっと他人の予定を埋め続けてきた男にとって、自分の予定だけが真っ白な朝は、かなり恐ろしいものだった。


 レオンは体を起こそうとした。


 しかし、上半身を少し動かしただけで、全身が鉛のように重い。


 腕が上がらない。


 足に力が入らない。


 頭の奥がぼんやりしている。


「これは……」


 レオンは自分の状態を冷静に分析した。


 過労。


 睡眠不足。


 栄養不足。


 精神的負荷。


 おそらく軽度の脱水。


 結論。


「労務管理上、非常によくない」


「自分で言うことじゃないでしょう」


 扉の方から声がした。


 見ると、ミリア・アークライトが腕を組んで立っていた。


 昨日、城門前で倒れたレオンを保護した、この辺境都市の領主の娘だ。


 金に近い茶色の髪を後ろでまとめ、動きやすそうな服を着ている。


 腰には短剣。


 目つきは鋭い。


 領主の娘というより、現場を走り回る管理者に近い。


「起きたなら、まず水を飲んで」


「ありがとうございます」


 レオンは水差しに手を伸ばそうとした。


 だが、腕が途中で止まる。


 ミリアはため息をついた。


「そこから?」


「申し訳ありません」


「謝らなくていいから。はい」


 ミリアは水を注ぎ、レオンの手に渡した。


 レオンはゆっくり飲む。


 水が喉を通るだけで、体の中に少しだけ命が戻った気がした。


「あなた、どれだけ働いてたの」


「正確な勤務時間は記録していません」


「記録好きそうなのに?」


「他人の勤務時間は記録していました」


「自分のは?」


「後回しに」


「最悪ね」


「おっしゃる通りです」


 ミリアは呆れた顔をした。


「昨日も言ったけど、あなた、今日も寝てなさい」


「しかし」


「しかし?」


「城門の混雑が気になります」


「は?」


「受付台が二つあるのに、一つしか動いていませんでした。門番の方も疲れていましたし、荷物の確認が滞っていました。あのままだと昼前には商人の列が三倍になります」


 ミリアの眉がぴくりと動いた。


「……あなた、倒れる直前にそんなところ見てたの?」


「見えたので」


「怖いわね」


「よく言われます」


「でしょうね」


 ミリアは部屋の隅に置かれていた椅子に座った。


「確かに、城門は混んでる。でも今日は市の日だから仕方ないの。商人も農民も冒険者も一気に来るし、兵士は足りないし、書類も多いし」


「受付台が空いていた理由は」


「担当の兵士が昨日から熱を出してる」


「代替要員は」


「いない」


「応援は」


「出したいけど、役場も足りない」


「役場はなぜ足りないんですか」


「税の締め日と、冒険者ギルドの依頼整理と、治療院への補助金手続きが重なってるから」


「重なっているのに、分散していない」


「何?」


「いえ」


 レオンは水を置いた。


「今のは独り言です」


「独り言にしては嫌な核心を突いてたわよ」


 ミリアは目を細めた。


「あなた、本当に何者?」


「昨日も言いました。魔王軍を解雇された人事担当です」


「それ、聞くたびに怪しさが増すのよ」


「自覚はあります」


「またそれ」


 その時、部屋の外から慌ただしい足音が聞こえた。


 廊下を走る音。


 誰かが叫んでいる。


「ミリア様! ミリア様!」


 扉が勢いよく開く。


 入ってきたのは、若い役人だった。


 顔色が悪く、手には書類の束を抱えている。


「城門が詰まりました!」


 ミリアは立ち上がる。


「また?」


「はい! 商人の荷車が三台、検査待ちで止まっています! 後ろに農民と冒険者が並んでいて、口論になりかけています!」


「兵士は?」


「二人です!」


「二人?」


「一人は門番、一人は昨日から熱を出していた者が無理やり出ています!」


 ミリアの顔が険しくなる。


「熱があるのに出したの?」


「本人が大丈夫だと」


「大丈夫じゃないでしょう」


「ですが、人が」


「わかった。私が行く」


 ミリアは扉へ向かおうとした。


 その時、レオンが口を開いた。


「その方は帰した方がいいです」


 ミリアが振り返る。


「そんなのわかってる。でも代わりがいないの」


「役場にいる税務担当のうち、午前中に窓口対応が不要な方を一人回してください」


 若い役人が目を丸くする。


「なぜ税務担当がいると」


「先ほど、税の締め日と言っていました。締め日なら役場に税務担当が複数いるはずです。ただし、全員が同時に窓口へ出る必要はありません。確認作業と受領作業を分ければ、一人は外せます」


 ミリアは黙った。


 若い役人も黙った。


 レオンは続ける。


「商人の荷車と農民と冒険者を同じ列に並ばせているのも問題です。検査内容が違います。荷車は積み荷確認、農民は通行証確認、冒険者は武器確認。処理時間が違うものを同じ列にすると、必ず詰まります」


「じゃあ、どうしろっていうの」


「列を三つに分けてください」


 ミリアが眉をひそめる。


「そんな単純なことで?」


「はい。単純なことです」


 レオンは布団の上で、指を三本立てた。


「商人は左。農民は中央。冒険者は右。荷車は後ろの広場に一時誘導。武器確認は門の内側ではなく外側で行う。揉める前に、用途ごとに流れを分けるだけです」


 若い役人がぽかんとしている。


「でも、誰が誘導を」


「門前で暇そうにしている子どもがいました」


 ミリアが目を見開く。


「あの子たち?」


「荷物運びの待機でしょう。正式な検査は無理ですが、札を配るくらいならできます。商人に赤札、農民に青札、冒険者に黒札。列の整理だけなら十分です」


「子どもを使うの?」


「危険な仕事ではありません。大声を出す大人の間に立たせるのは危険ですが、列の最後尾で札を渡すだけなら安全です」


「報酬は?」


「現物がいいでしょう」


「現物?」


「領主館の炊き出しで、肉入りのスープと白パンをお腹いっぱい食べられる。そう伝えれば十分です」


 若い役人が小さく呟く。


「私もやりたい……」


 ミリアはしばらくレオンを見ていた。


「……あなた、今、寝たまま城門の整理をした?」


「案を出しただけです」


「それを寝たままやるのが変なのよ」


 ミリアは若い役人に向き直る。


「今の通りにやって」


「は、はい!」


「税務担当から一人出して。熱のある兵士は医務室へ。荷車は広場に回す。札は孤児院の子たちに頼んで。報酬は領主館の炊き出し。肉入りスープと白パンをお腹いっぱい」


「承知しました!」


 若い役人は走って出ていった。


 ミリアはレオンを見る。


「あなたは寝てなさい」


「はい」


「ただし、起きたら少し話を聞かせて」


「何の話でしょうか」


「あなたの、その変な仕事の話」


 ミリアはそう言って、部屋を出た。


 扉が閉まる。


 レオンはしばらく、閉じた扉を見ていた。


 もう人事はしない。


 そう決めたつもりだった。


 けれど、目の前で誰かが壊れそうになっていると、口が勝手に動いていた。


「……悪い癖だな」


 レオンは小さく呟き、再び布団に沈んだ。


 その日の昼。


 城門の混雑は、半分以下になった。


 赤札、青札、黒札を持った人々が、それぞれの列に並ぶ。


 商人の荷車は広場に回され、農民は通行証だけを確認され、冒険者は門の外で武器を見せる。


 熱を出していた兵士は医務室へ送られた。


 代わりに税務担当の中年役人が、汗だくで札を確認している。


「なぜ私が門前に……」


 彼はそうぼやいたが、三十分後には妙に手際よくなっていた。


 札を配る孤児院の子どもたちは、肉入りスープと白パンを食べられると聞いて張り切っている。


「商人さんは赤札ー!」


「農家の人は青札ー!」


「剣持ってる人は黒札ー! 黒札持って右ー!」


 門番は目を丸くした。


「流れてる……」


 詰まっていた列が、流れている。


 ただ列を分けただけ。


 ただ受付の場所を変えただけ。


 ただ熱のある兵士を帰しただけ。


 それだけで、怒鳴り声が減った。


 待ち時間が減った。


 兵士の顔色が少しだけ戻った。


 ミリアは城壁の上からそれを見ていた。


 隣には、先ほどの若い役人がいる。


「ミリア様」


「何?」


「あの人、本当に元魔王軍なんですか」


「本人はそう言ってた」


「魔王軍って、もっとこう、槍とか斧とか持って攻めてくるものでは」


「私もそう思ってた」


 ミリアは城門の流れを見る。


 赤、青、黒の札が、人の流れを作っている。


 まるで詰まった川に、細い水路を通したみたいだった。


「でも、あれも戦い方なのかもしれないわね」


 若い役人は首を傾げる。


「戦い方?」


「人が壊れる前に、流れを変える」


 自分で言って、ミリアは少しだけ変な顔をした。


 昨日、レオンが言っていた。


 人を壊れる前に、配置し直す仕事。


 よくわからない変な仕事だと思った。


 今も、よくわからない。


 だが少なくとも、城門は動いた。


 その日の午後。


 レオンはようやく起き上がれるようになった。


 まだ体は重い。


 だが、歩けないほどではない。


 ミリアは、彼を役場の一室に案内した。


「ここが役場」


 部屋の扉を開けた瞬間、レオンは足を止めた。


 書類。


 書類。


 書類。


 机の上、棚の中、床の隅、窓際。


 どこを見ても書類が積まれている。


 役人たちは全員、目の下に隈を作っている。


 誰かが「この申請書、どこに回すんですか」と叫び、別の誰かが「わからないからとりあえず第三棚へ」と返している。


 第三棚は、すでに崩れかけていた。


 奥の机では、年配の役人が書類を抱えたまま眠っている。


 隣では、若い役人が判子を探している。


「判子がない!」


「昨日もなかった!」


「じゃあ昨日からない!」


「誰か探して!」


「探す担当は誰ですか!」


「探す担当を決める書類はどこですか!」


 ミリアは気まずそうに咳払いした。


「まあ……忙しい時期だから」


 レオンは静かに言った。


「燃やした方が早そうですね」


「いきなり過激ね!?」


「冗談です」


「冗談に聞こえなかったわ」


「七割ほど冗談です」


「三割本気じゃない」


 レオンは役場の中を見渡した。


 そして、ゆっくりと眉をひそめる。


「この町は、敵に攻められる前に、内側から倒れます」


 ミリアの表情が変わった。


「ずいぶん失礼なことを言うのね」


「事実です」


「みんな頑張ってるわ」


「はい。頑張っています」


 レオンは役人たちを見た。


 誰も怠けていない。


 誰も遊んでいない。


 むしろ全員が、限界まで手を動かしている。


 だからこそ危ない。


「頑張らないと回らない組織は、もう壊れています」


 ミリアは反論しようとして、言葉を止めた。


 役場の奥で、また書類の山が崩れた。


 ばさばさと紙が床に散らばる。


 若い役人が、乾いた笑いを漏らした。


「あはは……今日はまだ一回目です」


 ミリアは口を閉じた。


 レオンは、近くの机に置かれていた書類を一枚取った。


「これは?」


「商業許可の申請書」


「こちらは」


「農地使用の変更届」


「これは」


「冒険者ギルドからの依頼確認票」


「なぜ同じ棚に?」


「空いていたから」


「空いていたから」


 レオンはその言葉を繰り返した。


 昨日の魔王軍でも、同じ理由で吸血鬼が昼の砂漠へ向かわされた。


 空いていたから。


 便利な言葉だ。


 たいてい、破滅の入り口に置かれている。


「まず、書類を三つに分けてください」


「また三つ?」


 ミリアが言う。


「流れが違うものを同じ場所に置くと、必ず詰まります」


 レオンは机の上を指した。


「商業。農地。冒険者。今すぐ棚を分ける。次に、今日中に処理するもの、明日でいいもの、今週中でいいものを分ける」


「全部急ぎよ」


「全部急ぎなら、何も急ぎではありません」


 ミリアが黙った。


 役人たちも、手を止めてこちらを見る。


 レオンは続けた。


「今すぐ必要なものだけが急ぎです。期限が違うものを同じ重さで扱うから、全員が潰れます」


 年配の役人が、険しい顔で口を開いた。


「よそ者に何がわかる」


 役場の空気がぴりついた。


「領民を待たせれば、明日ここに怒鳴り込んでくる。商人は商売が止まったと怒る。農民は畑に入れないと怒る。冒険者は報酬が遅いと机を叩く。結局、全部今日やるしかない」


 別の役人も頷いた。


「休めと言われても、休んだ分だけ明日に積まれるだけです」


「そうだ。休めるなら、とっくに休んでる」


 レオンは彼らを見た。


 怒っている。


 苛立っている。


 けれど、それは怠けたいからではない。


 責任感が強すぎるから、休むことを裏切りのように感じている。


 レオンは、少しだけ目を伏せた。


 その目を、よく知っていた。


「待たせることと、見捨てることは違います」


 年配の役人が眉をひそめる。


「違う?」


「いつ処理されるかわからないから怒るんです。三日後に処理すると伝えれば、三日待てる人は待ちます。今日必要な人だけを今日処理してください」


「理屈ではそうだろう。だが、現場はそんな綺麗に動かない」


「動かないのではありません」


 レオンは静かに言った。


「動かせるだけの余裕を、あなたたちが自分で捨てているんです。だからまず、その余裕を取り戻すための応急処置をします」


 年配の役人は言葉を詰まらせた。


 レオンは、壁に貼られた予定表を見た。


 予定表と言うより、黒い文字の塊だった。


 判読するだけで疲れる。


「窓口を一本化してください」


 若い役人が声を上げる。


「一本化? でも、商業と農地と冒険者で担当が違います」


「受付だけ一本にするんです。判断は奥で担当に回す。来た人に、最初から担当者を探させないでください」


「でも、それだと受付が大変に」


「だから受付の後ろに振り分け係を置きます」


「誰が」


「今、判子を探していた方」


 若い役人が固まった。


「私ですか」


「あなたです」


「なぜ私が」


「声が大きい。人に聞くのを恥ずかしがらない。探し物が下手なので、判子を探すより人を振り分ける方が向いています」


「褒められてますか?」


「配置適性です」


「褒められてはいませんね?」


「適材適所です」


 周囲から小さな笑いが漏れた。


 ミリアも、少しだけ口元を緩める。


 レオンは続ける。


「次に、休憩を取ってください」


 その瞬間、役場中の空気が凍った。


 年配の役人が、低い声で言う。


「無理です」


「十分で構いません」


「無理です」


「今の処理速度なら、十分休んだ方が結果的に早い」


「そんな綺麗事で書類が減るなら苦労しません」


「減りません。だから、減らすために頭を戻してください」


「頭を戻す?」


「今、皆さんは疲れすぎて、判断が遅くなっています。判子が鍋の下にあることにも気づけないくらいに」


 若い役人が慌てて鍋をどかした。


「あった!」


 役場が一瞬だけ静まり返る。


 年配の役人は、顔を赤くした。


「それでも、休むわけにはいかん」


「なぜですか」


「誰かが休めば、誰かにしわ寄せがいく」


「全員で休めばいい」


「馬鹿を言うな!」


 年配の役人が声を荒げた。


「その間、領民はどうする!」


 レオンは答えようとした。


 だが、その前にミリアが口を開いた。


「全員、手を止めなさい」


 役場中の視線が、ミリアに集まった。


「ミリア様?」


「十分だけ座って。水を飲んで。お茶があるなら飲んで」


「しかし」


「これは私の命令です」


 ミリアの声は強かった。


「文句は私が受ける。怒鳴り込まれても私が前に立つ。だから今は座りなさい」


 誰もすぐには動かなかった。


 長い沈黙が落ちる。


 やがて、若い役人が恐る恐る椅子に座った。


 一人が座ると、もう一人が座った。


 年配の役人は最後まで立っていたが、ミリアに睨まれて、渋々腰を下ろした。


 湯呑みが配られる。


 誰かが水を飲む。


 誰かが深く息を吐く。


 数分後。


 若い役人が、ぽつりと言った。


「……頭が、少し軽いです」


 別の役人が肩を回す。


「指の震えが止まった」


 年配の役人は何も言わなかった。


 ただ、湯呑みを両手で持ったまま、長く目を閉じていた。


 やがて、低い声で呟く。


「座ってお茶を飲む時間があるなんてな」


 その声は、冗談のようで、冗談ではなかった。


 ミリアはそれを聞いて、表情を曇らせた。


 レオンは何も言わなかった。


 言わなくても、十分だった。


 その日の夕方。


 役場の床に散らばっていた書類は、ようやく三つの山に分けられていた。


 商業。


 農地。


 冒険者。


 さらに、それぞれに赤、青、白の札がついている。


 赤は今日。


 青は明日。


 白は今週中。


 それだけで仕事が終わるわけではない。


 むしろ、仕分けただけで全員がへとへとだった。


 机の上には、まだ未処理の書類が山ほど残っている。


 窓口の一本化も、初日は混乱した。


 受付係は何度も聞き返し、振り分け係は三回ほど農地書類を冒険者棚へ入れかけた。


 それでも。


 全員が、自分が今、何の書類を触っているのかをわかっていた。


 今日やるべきものと、明日でいいものの違いが見えていた。


 それだけで、役場の空気は少し軽くなっていた。


「商業の赤、今日中です!」


「農地の青、第二棚へ!」


「冒険者の白は、明日の午後にまとめます!」


「判子は鍋の下に戻すな!」


「二度としません!」


 疲れている。


 だが、さっきまでのような絶望ではない。


 ミリアは、その光景を黙って見ていた。


「……変な仕事ね」


 彼女は言った。


 隣に立つレオンは、首を傾げる。


「そうでしょうか」


「変よ。剣も抜かない。魔法も使わない。誰かを叱り飛ばすわけでもない。ただ紙を分けて、人を動かしただけ」


「はい」


「それだけで、みんな少し息をしてる」


 レオンは役場を見た。


 疲れた顔は残っている。


 問題は山ほどある。


 根本的には何も解決していない。


 それでも、倒れる寸前だった人たちが、今は自分の仕事の場所を見失っていない。


 それだけで十分な時もある。


「今日は、応急処置です」


「応急処置でこれ?」


「はい」


「本格的にやったらどうなるの」


「嫌がられます」


「でしょうね」


 ミリアは小さく笑った。


 その時、役場の入口から怒鳴り声が聞こえた。


「おい! 薬草採取の依頼、どうなってんだ!」


 冒険者らしき若い男たちが三人、役場に入ってきた。


 革鎧。


 安物の剣。


 まだ少年の顔が残っている。


 その後ろから、冒険者ギルドの職員が慌てて追いかけてきた。


「待ってください! 今、依頼票の確認中で」


「確認って何だよ。初心者向けの薬草採取だろ?」


「そうですが、北の森の状況が」


「薬草摘むだけだろ。早くしろよ」


 レオンの視線が、依頼票に向いた。


 北の森。


 薬草採取。


 初心者向け。


 日付は今日。


 レオンは、依頼票の端に書かれた備考を見る。


『北の森、水場付近に群生』


 次に、窓の外を見る。


 南から湿った風。


 気温。


 季節。


 役場の掲示板に貼られていた害虫駆除の告知。


 昨日の雨。


 森の地図。


「その依頼は、今日は出さない方がいいです」


 レオンが言った。


 冒険者たちが振り返る。


「あ? 誰だよ、あんた」


「通りすがりの無職です」


 ミリアが額を押さえた。


「言い方」


 冒険者の一人が鼻で笑う。


「無職に止められる筋合いはねえよ」


「北の森には、今日から毒蛾が出ます」


「毒蛾?」


「はい。昨日の雨と今日の湿った南風なら、水場付近に集まります。毒蛾が増えると、狼型の魔物が水場から移動します。薬草の群生地はその水場の近くです」


「何言ってんだ?」


 冒険者は笑った。


「薬草摘みに行くだけだぞ?」


「はい。だから危険です」


「初心者向けって書いてある」


「昨日までは」


「昨日まで?」


「今日から違います」


 ギルド職員が依頼票を見直す。


「ですが、この依頼は毎年この時期に」


「毎年、初心者が怪我をしていませんか」


 ギルド職員の顔が変わった。


「……なぜ、それを」


「依頼票の端が何度も修正されています。報酬も初心者向けにしては少し高い。危険があるのに、分類だけが昔のまま残っている依頼です」


 レオンは少しだけ間を置いた。


「以前、人間領の事故記録を集めたことがあります。この時期の北の森では、同じような軽傷報告が毎年出ていました」


 役場が静かになる。


 冒険者たちは、少しだけ不安そうに顔を見合わせた。


 だが、一番背の高い少年が強がるように言う。


「脅すなよ。俺たちだって冒険者だ」


「脅していません」


「じゃあ何だよ」


「止めています」


 レオンは依頼票を見た。


「行くなら、最低でも解毒薬と煙玉を持ってください。できれば、今日は別の依頼にした方がいい」


「そんな金ないんだよ」


「なら、なおさら行かない方がいいです。怪我をすると、もっと高くつきます」


 少年は言い返せなかった。


 ミリアがギルド職員を見る。


「この依頼、今日は止めて」


「しかし、ギルドの判断が」


「私が責任を取る」


 ギルド職員が迷った末に頷いた、その時だった。


 コツン、と役場の窓ガラスに何かがぶつかる音がした。


 全員が振り返る。


 夕闇の向こう。


 毒々しい翅を持った蛾が、窓ガラスに張り付いていた。


 一匹ではない。


 二匹。


 三匹。


 さらに奥の空にも、黒い小さな影がちらついている。


 ギルド職員が息を呑む。


「……毒蛾」


 冒険者たちも、言葉を失って窓を見つめた。


 もし、あのまま北の森に行っていたら。


 誰もその先を口にしなかった。


 レオンは淡々と言った。


「明日の朝まで増えます。森の入口に警告を出してください。水場周辺は二日封鎖。代わりに、南の丘の採取依頼を初心者向けに回すといいでしょう。あちらなら毒蛾は出ません」


 ミリアはしばらく黙っていた。


 そして、深く息を吐いた。


「レオンさん」


「はい」


「あなた、今日から役場で働いて」


「お断りします」


 即答だった。


 ミリアが固まる。


「早くない?」


「早い方が誤解が少ないので」


「どうして」


「昨日、職を失ったばかりです」


「だから再就職の話をしてるんだけど」


「再就職するには、心の準備が」


「そんなに繊細だったの?」


「自分でも意外です」


 ミリアはじっとレオンを見た。


 レオンは視線を逸らした。


 役場では、役人たちが少しずつ動き始めている。


 冒険者たちは、取り下げられた依頼票を見ながら黙っている。


 ギルド職員は、森の警告文を慌てて書いている。


 城門の混雑も、役場の書類も、薬草採取の依頼も。


 自分が口を出したことで、少しだけ変わってしまった。


 そして、それが嫌ではない。


 それが、少し怖かった。


「もう、そういう仕事はしないつもりでした」


 レオンは小さく言った。


 ミリアの表情が少し変わる。


「魔王軍で、嫌になった?」


「嫌になったというより」


 レオンは言葉を探した。


「……壊れる寸前の人たちを、これ以上見続けるのが、少し怖くなっただけです。そして最後には、自分がどこで壊れたのかすら分からなくなっていた」


 ミリアは黙った。


 茶化さなかった。


 レオンは続ける。


「それに、私は魔王軍の人間です。昨日まで」


「昨日まで、ね」


「この町で信用される立場ではありません」


「それはそう」


「はっきり言いますね」


「嘘をついても仕方ないでしょ」


 ミリアは腕を組んだ。


「でも、あなたが今日やったことは見た」


「応急処置です」


「応急処置で助かった人がいる」


「まだ助かったとは」


「熱のある兵士は倒れずに済んだ。冒険者の子たちは森に行かずに済んだ。役人たちは、自分が何をしてるのか少し見えるようになった」


 レオンは何も言わなかった。


「それでも、働きたくない?」


「……働きたくないわけではありません」


「じゃあ?」


「また、抱え込みそうで」


 その言葉は、レオン自身も思ったより弱く響いた。


 ミリアは少しだけ目を丸くした。


 そして、ふっと笑う。


「じゃあ、条件をつけましょう」


「条件?」


「一つ。あなたは、全部を一人で抱えない」


「……」


「二つ。勤務時間を決める」


「勤務時間」


「三つ。週に一日は必ず休む」


 レオンは眉をひそめた。


「週に一日?」


「不満?」


「いえ。多いなと」


「少ないわよ」


「そうでしょうか」


「そうよ」


 ミリアはきっぱりと言った。


「この町で働くなら、あなたにも休んでもらう。人を休ませる人が、自分だけ倒れるまで働くのはなし」


 レオンは、返事ができなかった。


 リリスの言葉を思い出す。


 あなた、自分の休みを一度も勤務表に入れていなかったでしょう。


 魔王城を出た夜。


 真っ白だった自分の予定。


 明日、何をすればいいのかわからなかった朝。


 レオンは、少しだけ視線を落とした。


「私は、まだこの町のことを何も知りません」


「なら、知ればいい」


「魔族領から来た混血です」


「怪しいわね」


「はい」


「だから、最初は仮採用」


「仮採用」


「肩書きは……そうね」


 ミリアは少し考えた。


「辺境都市臨時業務整理係」


「長いですね」


「あなたの前職より短いでしょ」


「魔王軍人事部長補佐よりは」


「じゃあ決まり」


 ミリアは手を差し出した。


「ようこそ、辺境都市アークライトへ。レオン・ハルバード」


 レオンは、その手を見た。


 白く、細い手。


 けれど、剣だこがある。


 書類をめくるだけの手ではない。


 現場を歩いている人間の手だった。


 レオンはゆっくりと、その手を握った。


「よろしくお願いします。ミリアさん」


「うん。それでいいわ」


 こうして、レオン・ハルバードは再就職した。


 魔王軍ではなく。


 人間の辺境都市で。


 剣ではなく、勤務表を持って。


 その日の夜。


 魔王城では、炎獄将軍ヴァルガが前線で倒れた。


 原因は、勇者ではない。


 過労だった。


 氷霜参謀イリスは、三十九件目の会議中に無言で机へ突っ伏した。


 影刃暗殺卿ナハトの部下たちは、退職届を魔王の枕元に短剣で刺した。


 夢魔宰相リリスの『魔王城・互助労働血盟』には、初日で百二十七名が署名した。


 翌朝。


 魔王ゼルギウスは、玉座の間で報告を聞いた。


「第一軍団、指揮停止」


「参謀局、判断停止」


「暗殺部隊、所在不明」


「夢魔外交局、血盟参加者増加中」


 魔王は、しばらく黙っていた。


 やがて、低い声で命じる。


「……レオンを連れ戻せ」


 側近の小悪魔が顔を上げた。


「しかし、どこへ」


「探せ」


「人間領には、町がいくつもあります」


 魔王の眉が動く。


 その時、影の中から声がした。


「……アークライト」


 玉座の間の隅。


 柱の影に、黒装束の暗殺者が片膝をついていた。


 ナハトの部下だった。


「ナハト様が、去り際にレオン様の足跡だけは追わせていました」


「なぜ報告しなかった」


「命令がありませんでした」


 魔王は奥歯を噛みしめた。


「奴は、どこにいる」


「人間領の辺境都市アークライト。城門前で倒れ、領主の娘に保護されています」


 小悪魔が、小さく息を呑んだ。


 魔王は玉座の肘掛けを握りしめる。


「使者を出せ」


「どのようにお伝えしますか」


 魔王はしばらく黙った。


 そして、不機嫌そうに言った。


「魔王軍には、まだ奴の仕事が残っている、と」


 小悪魔は、それ以上何も聞かなかった。


 ただ深く頭を下げ、玉座の間を退出していく。


 残された魔王は、二度と更新されない勤務表を見つめ続けた。

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