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人事担当が消えた魔王軍、初日から詰む

 レオン・ハルバードが魔王城を去った翌朝。


 魔王軍は、まだ余裕だった。


 少なくとも、魔王ゼルギウスはそう思っていた。


「人事担当一人が抜けた程度で、魔王軍が揺らぐものか」


 黒曜石の執務室で、魔王はそう言い切った。


 玉座の横には、昨日レオンが置いていった書類の山がある。


 今月の勤務表。


 四天王の限界予測。


 軍団別の離職危険度。


 吸血鬼部隊の昼勤禁止リスト。


 スライム部隊の分裂時勤怠管理規定。


 どれも分厚い。


 どれも細かい。


 どれも読む気がしない。


 魔王はその山を一瞥し、鼻を鳴らした。


「こんな紙切れに、魔王軍が支えられていたなど笑わせる」


 側近の小悪魔が、恐る恐る口を開いた。


「陛下。では、こちらの書類はどういたしましょう」


「倉庫にでも入れておけ」


「確認は」


「不要だ」


「ですが、表紙に『未確認の場合、午前中に吸血鬼部隊が燃えます』と書いてありますが」


「脅しだ」


 魔王は言った。


「レオンの最後の悪あがきだ。無視しろ」


「承知しました」


 小悪魔は深々と頭を下げた。


 その頃。


 魔王城、東棟三階。


 第三補給隊の事務室では、数名の魔族が命令控えを前に固まっていた。


「……これ、昨日発送した命令書だよな」


「そうですね」


「南方砂漠警備」


「はい」


「本日正午」


「はい」


「吸血鬼部隊」


「はい」


 沈黙。


 第三補給隊の副隊長は、ゆっくりと顔を上げた。


「吸血鬼は、飛べるな」


 部下が頷く。


「飛べますね」


「南方砂漠警備には、飛べる部隊が向いている」


「そうですね」


「だから、間違ってはいない」


「昼でなければ」


「……昼でなければ」


 その瞬間、事務室の扉が勢いよく開いた。


 吸血鬼部隊の副官が、真っ青な顔で立っていた。


 片手には命令書。


 もう片方の手には黒い日傘。


「第三補給隊」


「はい」


「これは、どういう意味だ」


 副隊長は、命令控えから目を逸らした。


「南方砂漠警備です」


「それは読めばわかる」


「本日正午です」


「そこが問題だ」


「飛行可能部隊なので」


「我々は日光で燃える」


「そこも、今ちょうど議題に」


「議題にするな。常識だ」


 吸血鬼の副官は命令書を机に叩きつけた。


「隊長からの伝言だ」


「何と」


「『我々を、干物にする気か?』」


 事務室の全員が黙った。


 午前十一時五十分。


 魔王城の正門前には、吸血鬼部隊三十二名が並んでいた。


 全員、黒い日傘を差している。


 黒外套を頭からかぶり、目元には遮光ゴーグル。


 腰には剣。


 背中には水筒。


 そして表情は、これから戦場に向かう兵士というより、これから天日干しにされる魚だった。


 通りかかったゴブリン兵が、ぽつりと言った。


「吸血鬼って、昼に出るんでしたっけ」


 別のゴブリン兵が首を振る。


「出ないから、ああなってるんじゃないか」


 吸血鬼部隊長は、城壁の上を見た。


 そこには魔王軍の旗がはためいている。


 忠誠。


 規律。


 命令。


 そういう言葉が頭をよぎった。


 しかし、太陽もよぎった。


「……出撃する」


 部隊長は震える声で言った。


「ただし、影から影へ移動する。絶対に直射日光を浴びるな」


 副官が周囲を見回す。


「隊長」


「何だ」


「南方砂漠に、影はありますか」


 部隊長は黙った。


 魔王軍が最初に揺らいだのは、その十分後だった。


 吸血鬼部隊三十二名が、城門を出て三百歩の地点で一斉に日陰へ撤退したのである。


 理由は明快だった。


 暑かった。


 その報告が魔王のもとへ届いた時、魔王は眉をひそめた。


「吸血鬼部隊が出撃を拒否しただと?」


「拒否ではありません。日陰で一時待機とのことです」


「同じことだ」


「隊長からの伝言です」


「何だ」


「『せめて夕方にしてください』とのことです」


 魔王はこめかみを押さえた。


「なぜ吸血鬼が昼に砂漠へ行くことになった」


 小悪魔の側近は、気まずそうに答える。


「昨日、第三補給隊が空欄を埋めたためです」


「誰が空欄にした」


「勤務表の更新が止まったためです」


 魔王の表情が固まった。


 ほんの一瞬だけ。


 だがすぐに、彼は声を荒げた。


「たかが一件だ。騒ぐな」


「はっ」


「別の部隊を送れ」


「承知しました」


 数分後。


 炎魔族の小隊が、北方雪山警備に割り当てられた。


 理由は単純だった。


 空いていたからである。


 炎魔族の隊長は、命令書を読んでから三秒沈黙した。


「雪山?」


 部下が頷く。


「雪山です」


「我々は炎魔族だぞ」


「はい」


「寒いところに行くと、火力が落ちる」


「はい」


「というか普通に寒い」


「はい」


「誰が決めた?」


「第四物資管理班です」


「なぜ物資管理班が人員配置をしている?」


「人事担当がいないので」


 炎魔族の隊長は、しばらく遠くを見つめた。


 その三時間後。


 北方雪山から報告が届いた。


『寒いので帰っていいですか』


 魔王は報告書を握りつぶした。


「次だ!」


 次に、水棲魔族が火山地帯へ派遣された。


 理由は、火山地帯にある溶岩湖を「湖」と分類した者がいたからだ。


 水棲魔族の隊長は、命令書を見て言った。


「湖ではある」


 部下が言う。


「溶岩ですが」


「湖ではある」


「溶岩ですが」


「……分類上は湖だ」


「溶岩ですが」


 水棲魔族たちは、火山地帯の入り口で引き返した。


 理由は、煮えるからだった。


 昼過ぎ。


 魔王軍の各部署には、報告書が山のように届いた。


『吸血鬼部隊、日陰で停止』


『炎魔族小隊、低体温症の疑い』


『水棲魔族、火山地帯への入場を拒否』


『スケルトン整備班、骨密度検査の担当者不在』


『ゴーレム輸送隊、関節メンテナンス表が見つからず停止』


『スライム部隊、勤怠記録が増殖』


 最後の報告書を読んだ小悪魔の側近は、首を傾げた。


「勤怠記録が増殖とは?」


 報告に来たインプが、疲れた顔で答える。


「出勤時に八体だったスライム部隊が、昼休み後に十九体になりました」


「増えたのか」


「増えました」


「それは戦力増強では?」


「誰が誰の分裂体かわからないため、出勤扱いにしていいのか不明です」


「本人確認は?」


「全員『私が本体です』と言っています」


 小悪魔は目を閉じた。


「規定は?」


「倉庫です」


「取ってこい」


「どの箱に入れたかわかりません」


「なぜだ」


「分類規則も倉庫です」


 小悪魔は、天井を見上げた。


 魔王軍は、まだ崩壊していない。


 だが、確実に滑り始めていた。


 同じ頃。


 炎獄将軍ヴァルガは、第一軍団の前線指揮所にいた。


 彼の前には、未処理の出撃要請が積まれている。


 吸血鬼部隊の代替。


 炎魔族小隊の撤退支援。


 水棲魔族の再配置。


 さらに、南東砦から救援要請。


 西の森では勇者軍の偵察隊が確認されている。


 副官が言う。


「将軍、どの部隊を出しますか」


 ヴァルガは拳を握った。


「俺が出る」


「またですか」


「俺が行けば早い」


「しかし将軍、三日前からまともに休んでおられません」


「問題ない」


「顔色が悪いです」


「問題ない」


「鎧の肩紐、ずれています」


 ヴァルガは一瞬だけ黙った。


 昨日、去り際のレオンに同じところを指摘されていた。


 三日寝ていない方が言う台詞ではありません。


 あの冷静な声が、一瞬だけ脳裏をよぎる。


 ヴァルガは乱暴に肩紐を直した。


「俺が倒れたら、誰が前線を支える」


「ですが」


「部下を行かせるくらいなら、俺が行く」


 その声は強かった。


 だが、強さの奥に、疲れが滲んでいた。


 副官は何も言えなかった。


 ヴァルガは大剣を背負い、指揮所を出る。


 外の空気は熱かった。


 戦場の匂いがする。


 いつもなら、それだけで体に火が入る。


 だが今日は、足が重い。


「問題ねえ」


 ヴァルガは自分に言い聞かせた。


「俺は、倒れねえ」


 その言葉は、意地ではなく、祈りに近かった。


 一方、氷霜参謀イリスは会議室にいた。


 第一会議室。


 第二会議室。


 第三会議室。


 そして、今は第七会議室。


 なぜ第七かというと、第一から第六まで別の会議で埋まっているからだ。


「では、吸血鬼部隊の代替案について会議を始めます」


 イリスが淡々と言う。


 魔族の幹部が手を上げた。


「その前に、そもそもなぜ吸血鬼部隊が昼の砂漠へ配置されたのかを検討すべきでは?」


 別の幹部が頷く。


「原因究明会議が必要ですな」


「では、この会議は原因究明会議に変更しますか」


「いや、代替案会議は必要です」


「では原因究明会議と代替案会議を分けましょう」


「そのための事前調整会議が必要です」


「では、事前調整会議の開催可否を決める会議を」


 イリスの指先が止まった。


 会議室が静かになる。


 彼女は無表情のまま、資料の端を見つめた。


「この会議は」


 そこで、扉が開いた。


 別の幹部が顔を出す。


「参謀殿、火山地帯派遣の件で緊急会議を」


 反対側の扉も開いた。


「雪山派遣の件で責任者会議を」


 さらに窓の外から、伝令用の蝙蝠が飛び込んでくる。


『スライム部隊の勤怠増殖に関する臨時会議を要請』


 イリスは静かに目を閉じた。


「……会議が、多いですね」


 誰も否定しなかった。


 その頃、影刃暗殺卿ナハトは、諜報局の地下室にいた。


 彼の前には、暗殺部隊の精鋭たちが並んでいる。


 全員、黒装束。


 全員、無言。


 空気は重い。


 ナハトも無言。


 いつも通りだった。


 彼は短く言った。


「処理しろ」


 部下たちは動かない。


 沈黙が落ちる。


 やがて、一人の暗殺者が手を上げた。


「対象は」


 ナハトは答える。


「東」


「東の何を」


「森」


「森にいる誰を」


「敵」


「殺害ですか、拘束ですか、監視ですか、情報抜きですか」


 ナハトは少し考えた。


「適切に」


 部下たちの気配が、明らかに沈んだ。


 いつもなら、ナハトの短い命令の後に送られてくるはずの補足伝達書が、今日は待てど暮らせど届かない。


 暗殺者の一人が、小さく息を吐いた。


「卿」


「何だ」


「このままでは、任務の成否以前に、我々が何をすべきかわかりません」


 ナハトの影が揺れる。


「任務は任務だ」


「はい」


「遂行しろ」


「はい」


 暗殺者たちは一礼した。


 忠誠はある。


 技術もある。


 だが、納得はない。


 地下室を出た暗殺者たちは、無言で廊下を進んだ。


 そのうち一人が、懐から羊皮紙を取り出す。


 退職届。


 別の一人も取り出す。


 また一人。


 また一人。


 提出先は決まっていた。


 魔王の執務室ではない。


 魔王の枕元だ。


 暗殺部隊らしく、誰にも気づかれずに置く。


 可能であれば、短剣で刺して。


 夢魔宰相リリスの部屋には、朝から行列ができていた。


 兵士。


 幹部。


 補給担当。


 捕虜管理官。


 泣きそうなゴブリン。


 怒っているミノタウロス。


 日傘を持った吸血鬼。


 溶岩湖を見て帰ってきた水棲魔族。


 リリスは笑顔で一人ずつ話を聞いていた。


「ええ、大変だったわね」


「あなたは悪くないわ」


「まず深呼吸しましょう」


「上司を殴る前に、紙に書きましょう」


「退職届は二部作って。控えは手元に残してね」


 彼女は夢魔だ。


 相手の感情を読むのが得意で、言葉を選ぶのも上手い。


 だから、誰もが彼女に相談に来る。


 だから、彼女が壊れる。


 昼過ぎ。


 ついに魔王本人がやってきた。


「リリス」


「はい、陛下」


 リリスは完璧な笑顔で振り返った。


「兵士どもが騒がしい。忠誠心が足りんのではないか」


「陛下」


「何だ」


「私は夢魔であって、無料カウンセラーではありません」


 部屋の空気が凍った。


 魔王は眉をひそめる。


「何を言う。部下の不満を聞くのも宰相の仕事だろう」


「限度があります」


「忠誠があれば乗り越えられる」


 その瞬間。


 リリスの笑顔が消えた。


 彼女は机の引き出しを開け、まっさらな羊皮紙を取り出した。


 魔王が怪訝そうに見る。


「何をしている」


「陛下に逆らわず、かつ合法的に全員で出撃を拒むための誓約書を作っております」


「何?」


 リリスは、美しい筆跡で題名を書いた。


『魔王城・互助労働血盟』


 魔王が固まった。


「……何だ、それは」


「忠誠心だけでは睡眠時間が増えないという現実を、全兵士で共有する同盟です」


「やめろ」


「検討します」


「今すぐやめろ」


「前向きに検討します」


 リリスは微笑んだ。


 今度の笑顔は、少しだけ本物だった。


 午後。


 魔王城の各所で、問題はさらに広がった。


 ゴブリン部隊の給与支払いが止まった。


 正確には、給与確定データが、魔王の承認待ちで止まっていた。


 表紙には、赤字でこう書かれていた。


『本日中に承認しない場合、ゴブリン部隊への支払いが遅延します』


 だが、その書類は倉庫にある。


 箱の中だ。


 どの箱かは、誰も知らない。


 ゴブリン兵たちは食堂前に集まっていた。


「給料は?」


「まだらしい」


「いつ?」


「わからないらしい」


「わからない?」


「承認者がわからないらしい」


「誰がわからないんだ」


「みんなだ」


 ざわめきが広がる。


 ゴブリンは魔王軍の主力だ。


 数が多い。


 小回りが利く。


 前線でも補給でも雑務でも働く。


 そして、扱いが雑にされがちだった。


 小さなゴブリン兵が、ぽつりと言った。


「こんなこと、今までなかったのに」


 誰も否定しなかった。


 夕方。


 魔王城の報告机には、書類が積み上がっていた。


 吸血鬼部隊、出撃不能。


 炎魔族小隊、雪山より撤退。


 水棲魔族、火山地帯派遣拒否。


 スライム部隊、勤怠確認不能。


 ゴブリン部隊、給与未承認により士気低下。


 ゴーレム輸送隊、関節整備未実施により停止。


 暗殺部隊、任務説明不足により出撃保留。


 夢魔外交局、互助労働血盟の設立準備を開始。


 魔王ゼルギウスは、報告書を見下ろした。


「……初日だぞ」


 誰も答えなかった。


 小悪魔の側近は、そっと視線を逸らした。


 魔王は拳を握る。


「まだだ」


 低い声だった。


「この程度、混乱のうちに入らん。各部署に伝えろ。気合いで乗り切れ」


「はっ」


「四天王を呼べ」


「はっ」


 その時、扉が開いた。


 入ってきたのは、氷霜参謀イリスだった。


 抱えている資料は、朝の三倍に増えている。


 彼女の目の下には、さらに濃い影が落ちていた。


「陛下」


「何だ」


「会議が、三十七件に増えました」


「減らせ」


「減らすための会議が必要です」


「なぜだ」


「誰も、減らす権限を持っていません」


 魔王は口を開きかけ、閉じた。


 イリスは淡々と続ける。


「人事部長補佐は持っていました」


 その言葉が落ちた瞬間、執務室の空気がわずかに変わった。


 魔王の目が鋭くなる。


「奴の話はするな」


「失礼しました」


 イリスは頭を下げた。


 だが、顔色は悪い。


 立っているだけで限界に見えた。


「戻れ。会議を処理しろ」


「承知しました」


 イリスは踵を返す。


 その背中が、ほんの少し揺れた。


 誰も止めなかった。


 止め方を、誰も知らなかった。


 その頃。


 レオン・ハルバードは、魔族領と人間領の境にある荒野を歩いていた。


 荷物は少ない。


 着替えが少し。


 筆記具。


 数冊の手帳。


 財布。


 それだけだった。


 十年間働いた職場を出たにしては、あまりにも軽い荷物だった。


 魔王城を出てから、ほとんど休んでいない。


 寝るつもりだった。


 まずは寝る。


 そう決めたはずだった。


 だが、いざ自由になると、どこで寝ればいいのかわからなかった。


 宿に入る。


 部屋を借りる。


 横になる。


 簡単なことのはずなのに、頭が次の仕事を探してしまう。


 明日の勤務表は。


 ヴァルガの出撃は。


 イリスの会議は。


 ナハトの任務は。


 リリスの相談窓口は。


 もう、自分の仕事ではない。


 そう言い聞かせるたびに、胸の中が空白になる。


 荒野の風が、外套を揺らした。


 遠くに、人間領の辺境都市が見える。


 白い城壁。


 小さな塔。


 煙突から上がる煙。


 レオンは足を止めた。


 人間の町。


 久しぶりだった。


 人間の世界にも、いい記憶は多くない。


 混血の角を隠して歩いたこと。


 魔族の血を理由に石を投げられたこと。


 人間でも魔族でもないと笑われたこと。


 それでも、レオンはその町へ向かうしかなかった。


 魔王領には戻れない。


 魔王城には戻らない。


 では、どこへ行くのか。


 わからない。


 わからないまま歩いた。


 城門の前には、何人もの人が並んでいた。


 商人。


 農民。


 冒険者。


 疲れた顔の兵士。


 泣いている子どもを抱えた母親。


 門番が大声で叫んでいる。


「次! 身分証を出せ!」


 列は遅々として進まない。


 門番は一人。


 受付台は二つあるのに、片方は閉じている。


 後ろの倉庫には、未処理の荷物が積まれている。


 兵士の靴は泥だらけ。


 革紐が緩み、目の下には隈。


 レオンは思わず呟いた。


「……ここも、人が足りていないな」


 門番が顔を上げる。


「あ? 何か言ったか」


「いえ」


 レオンは首を振った。


「身分証は」


「ありません」


「出身は」


「魔族領です」


 列がざわついた。


 門番の手が槍に伸びる。


「魔族か」


「半分は」


「半分?」


「人間と魔族の混血です」


「怪しいな」


「自覚はあります」


 門番は眉をひそめた。


「目的は」


「宿を探しています」


「それだけか」


「できれば、寝たいです」


 門番は少しだけ怪訝な顔をした。


「何日寝てない」


 レオンは答えようとした。


 だが、そこで言葉が止まる。


 最後に寝たのはいつだったか。


 魔王城を出る前日。


 いや、その前は会議資料を作っていた。


 その前は第一軍団の配置修正。


 その前は夢魔外交局の相談記録。


 その前は。


 その前は。


 記録していない。


 記録していないものは、わからない。


「……最後に寝た日を、記録していません」


「は?」


 門番が目を丸くする。


 レオンは一歩踏み出そうとした。


 視界が揺れた。


 白い城壁が、ぐにゃりと曲がる。


 足元の石畳が遠くなる。


 誰かが叫んだ。


「おい、大丈夫か!」


 大丈夫です。


 そう言おうとした。


 だが、声が出なかった。


 倒れる直前、レオンは思った。


 ああ。


 これは、労務管理上、非常によくない。


 次に目を開けた時、見知らぬ天井があった。


 白い布。


 木の梁。


 窓から差し込む夕陽。


 そして、覗き込むようにこちらを見ている少女。


 金に近い茶色の髪。


 気の強そうな青い目。


 年齢は十七か十八。


 服装から見て、ただの町娘ではない。


 彼女はほっとしたように息を吐いた。


「起きた」


 レオンは体を起こそうとした。


 だが、起き上がれなかった。


「無理しないで。あなた、城門の前で倒れたのよ」


「城門……」


「そう。門番が慌てて役場に知らせに来たの。魔族領から来た混血の男が倒れたって」


「それは、ご迷惑を」


「迷惑というか、普通に事件よ」


「申し訳ありません」


「謝る元気があるなら寝てなさい」


 彼女は腕を組んだ。


「私はミリア・アークライト。この辺境都市の領主の娘」


「レオン・ハルバードです」


「出身は?」


「魔王軍です」


 ミリアの目が細くなる。


「魔王軍」


「昨日までですが」


「昨日まで?」


「解雇されました」


「魔王軍って、クビとかあるの?」


「あります」


「変なところだけ人間っぽいのね」


「制度だけは」


 ミリアは少し黙った。


 そして、呆れたように言う。


「それで、最後に寝た日を記録していないって?」


「はい」


「何それ。大丈夫じゃない人の発言よ」


「自覚はあります」


「自覚があるなら寝なさい」


「ですが」


「ですが?」


「明日の予定を確認しないと」


「あなた、クビになったんでしょう?」


「はい」


「じゃあ明日の予定は?」


 レオンは答えようとした。


 何も出てこなかった。


 明日の予定。


 勤務表。


 会議。


 相談対応。


 出撃調整。


 何もない。


 真っ白だ。


 ミリアは、そんなレオンの顔を見て、少しだけ眉をひそめた。


「……本当に倒れるまで働いてたんだ」


「倒れたので、そうかもしれません」


「他人事みたいに言わない」


「すみません」


「謝らなくていいから寝て」


「しかし」


「これは領主の娘としての命令です」


「私はこの町の所属ではありませんが」


「じゃあ、行き倒れとして従いなさい」


 レオンはしばらく考えた。


 そして、ゆっくり頷いた。


「承知しました」


「返事だけは立派ね」


 ミリアは呆れたように息を吐いた。


 部屋を出る前に、彼女は振り返る。


「レオンさん」


「はい」


「あなた、何の仕事をしていたの?」


 レオンは少し迷った。


 魔王軍人事部長補佐。


 そう答えてもいい。


 だが、今はもう違う。


 それでも、それ以外に自分を表す言葉が見つからなかった。


「人を」


 レオンは言った。


「壊れる前に、配置し直す仕事です」


 ミリアは目を瞬いた。


 そして、微妙な顔をした。


「……よくわからない変な仕事ね」


「よく言われます」


「でしょうね」


 ミリアは扉に手をかける。


「とにかく、今日は寝なさい。怪しい人だけど、死にかけてる人を外に放り出すほど、この町は冷たくないから」


「ありがとうございます」


「礼は、起きてからでいいわ」


 レオンは返事をしようとした。


 だが、その前に睡魔が来た。


 十年分の疲労が、遅れて体に落ちてきたようだった。


 意識が沈む。


 最後に聞こえたのは、ミリアの呆れた声だった。


「本当に限界だったのね」


 その夜。


 魔王城では、吸血鬼部隊が日傘の追加支給を求めていた。


 炎魔族は毛布を要求していた。


 水棲魔族は火山地帯を湖に分類した担当者の処分を求めていた。


 ゴブリン部隊は給与の支払いを求めていた。


 スライム部隊は、自分が本体だと全員が主張していた。


 イリスは三十八件目の会議に出席していた。


 ヴァルガは前線に向かっていた。


 ナハトの部下たちは、退職届を短剣に結びつけていた。


 リリスは、魔王城・互助労働血盟の参加者名簿を作っていた。


 そして魔王ゼルギウスは、玉座で一人呟いた。


「……なぜ、こうなった」


 誰も答えなかった。


 答えを知っている人事担当は、もう魔王城にはいなかった。

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