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魔王軍、人事担当をクビにする

「レオン。お前を魔王軍から解雇する」


 魔王ゼルギウスがそう告げた時、俺はまず、四天王の顔色を見た。


 炎獄将軍ヴァルガは、三日寝ていない。


 目の下には濃い隈があり、鎧の肩紐が片方だけずれている。


 氷霜参謀イリスは、会議資料を抱えたまま右手を小さく震わせていた。


 指先の血色が悪い。


 影刃暗殺卿ナハトは、いつものように無言だった。


 両手は影の中に沈んでいる。


 ただ、その影の奥から、かすかに羊皮紙が擦れる音がした。


 気配を消す達人であるナハトが、紙の音を消せていない。


 おそらく、部下たちから預かった書類だ。


 退職届。


 しかも一枚ではない。


 夢魔宰相リリスは、笑っていた。


 完璧な笑顔だった。


 完璧すぎて、目が死んでいた。


 なるほど。


 俺をクビにするには、最悪の日だった。


「聞いているのか、レオン・ハルバード」


 魔王ゼルギウスが玉座から俺を見下ろす。


 巨大な黒角。漆黒の外套。城の天井を震わせるほどの魔力。


 人間領では、魔王ゼルギウスの名を聞いただけで子どもが泣くという。


 それは誇張ではない。


 陛下は、本当に強い。


 この場にいる誰よりも強い。


 剣を抜く必要すらない。魔力をわずかに放つだけで、会議室の空気が鉛のように重くなる。


 俺の背中にも、冷たい汗が流れていた。


 膝が震えそうになる。


 それでも俺は、震えを隠すように、手元の書類を整えた。


 感情を出せば、崩れる。


 十年間仕えた主から「不要だ」と告げられた事実を、正面から受け止めれば、たぶん立っていられない。


 だから俺は、事務的に振る舞う。


 羽ペンを握る時と同じ顔で。


「聞いております。陛下」


 俺は一礼した。


「確認いたします。私は本日付で、魔王軍人事部長補佐の任を解かれる、という理解でよろしいでしょうか」


「そうだ」


「退職理由は自己都合でしょうか。会社都合でしょうか」


「何を言っている」


「失礼しました。解雇通知書の分類が必要ですので」


 魔王の眉間に深い皺が寄る。


「最後まで書類か」


「仕事ですので」


「その仕事が不要だと言っているのだ」


 魔王の声が、会議室に低く響いた。


 魔王城最上階、黒曜石の会議室。


 壁には歴代魔王の肖像画が並び、中央には巨大な円卓が置かれている。


 かつて世界征服の作戦が練られた場所だ。


 そしてここ数年は、だいたい人手不足と補給不足と休暇申請の却下について揉める場所になっている。


「魔王軍に必要なのは剣と魔法だ」


 魔王は言った。


「戦える者だ。敵を焼き払い、城を落とし、勇者を討つ者だ。お前のように、勤務表だの休暇届だの相談記録だのを抱えて歩く者ではない」


 リリスの笑顔が一瞬だけ引きつった。


 イリスの指先の震えが少し強くなった。


 ヴァルガは何か言いかけて、歯を食いしばった。


 ナハトは無言のまま、影の中の紙音を押し殺した。


「それにな」


 魔王は続けた。


「お前一人に支払っている俸給と、人事部に割いている予算。それを前線の武器、結界石、回復薬に回した方が合理的だ」


 合理的。


 俺は、その言葉を頭の中で一度だけ転がした。


 見えているものだけで計算すれば、たしかにそうなる。


 壊れる寸前の者は、数字になるまで見えない。


 俺は、机の上に持っていた書類の束を置いた。


「では、引き継ぎを行います」


「不要だ」


「必要です」


「不要だと言っている」


「陛下。私は本日まで、魔王軍全体の人員配置、四天王の出撃調整、種族別勤務制限、負傷兵の復帰判断、各部隊の離職危険度、相談窓口、給与支払い確認、補給部門との調整、外交局の日程管理、暗殺部隊の任務翻訳、第一軍団の休養割り当てを担当しておりました」


「だから何だ」


「引き継がないと、明日から止まります」


 魔王は鼻で笑った。


「止まるものか。人事担当一人が抜けた程度で、魔王軍が止まるなら、その程度の軍だったということだ」


 その言葉に、四天王の表情が少しだけ変わった。


 ヴァルガの拳が震える。


 イリスが唇を噛む。


 リリスは笑顔のまま、目だけを伏せる。


 ナハトの影が、床に黒く広がった。


 俺は、机の上の書類を一つずつ並べた。


「こちらが今月の勤務表です」


 分厚い羊皮紙の束。


「こちらが四天王の限界予測です」


 四冊。


「こちらが軍団別の離職危険度です」


 赤い付箋が大量に貼られている。


「こちらが吸血鬼部隊の昼勤禁止リストです」


「昼勤禁止リスト?」


 魔王が顔をしかめる。


「吸血鬼は日光を浴びると燃えます」


「知っている」


「先月、第三補給隊が間違えて吸血鬼部隊を昼の砂漠警備に入れました」


「なぜそんなことが起きる」


「勤務表を読まないからです」


 魔王が黙った。


 俺は次の書類を置く。


「こちらが炎魔族の寒冷地派遣制限。こちらが水棲魔族の火山勤務禁止規定。こちらがゴーレムの関節メンテナンス予定表。こちらがスライム部隊の分裂時勤怠管理規定です」


「待て」


 魔王が手を上げた。


「スライム部隊の分裂時勤怠管理規定とは何だ」


「スライムが勤務中に分裂した場合、分裂前の個体と分裂後の個体を同一労働力として扱うか、別個体として扱うかの規定です。以前、出勤したスライムが勤務中に三体に分裂し、退勤時に五体になっていたため、残業代計算で揉めました」


 ヴァルガが小さく咳き込んだ。


 笑いをこらえたのだろう。


 だが、すぐに顔を伏せた。


「……下らん」


 魔王が吐き捨てる。


「やはり下らん。戦場に出れば、細かいことなど吹き飛ぶ」


「吹き飛ばないから、私が処理していました」


「お前は自分を高く見積もりすぎだ」


「いいえ」


 俺は首を振った。


「私は、自分を高く見積もったことはありません」


 実際、俺は強くない。


 剣は少し使えるが、ヴァルガには遠く及ばない。


 魔法も使えるが、イリスの足元にも及ばない。


 暗殺技術などないし、夢魔のように人心を操る力もない。


 魔王軍において、俺はいつも後方にいた。


 戦場ではなく、会議室にいた。


 剣ではなく、羽ペンを持っていた。


 魔法陣ではなく、勤務表と向き合っていた。


 だから魔王は、俺の仕事を知らない。


 知らないから、こう言える。


「魔王軍に、人事など不要だ」


 会議室が静まり返った。


「承知しました」


 俺は机の上の書類を整えた。


「本日付で退職いたします」


 魔王は満足げに顎を引いた。


「ようやく理解したか」


「はい」


 俺は、最後の一枚を机に置いた。


「こちら、退職に伴う業務停止予測です」


「また紙か」


「はい。紙です」


 俺は淡々と読み上げる。


「まず、今夜中に第一軍団の勤務表が更新されなくなります。これにより、明日の早朝、第三補給隊から吸血鬼部隊へ、昼の砂漠警備の出撃命令が届く可能性があります」


「そんな馬鹿なことが起きるか」


「起きます。第三補給隊の副隊長は、吸血鬼と昼行性蝙蝠族の区別がついていません」


 リリスが小さく「ついていませんね」と呟いた。


「三日以内に、炎獄第一軍団が停止します」


 ヴァルガが顔を上げる。


「俺のところが?」


「はい。将軍が穴埋めに出撃し続けるためです」


「俺は倒れん」


「三日寝ていない方が言う台詞ではありません」


「……倒れねえ」


 ヴァルガは低く言った。


 意地ではなく、祈りのような声だった。


「俺が倒れたら、前線は誰が支える。俺が行くしかねえだろ」


 その言葉に、俺は何も返せなかった。


「三日以内に、氷霜参謀局も停止します」


 イリスの肩がぴくりと動く。


「会議数が制御不能になります。イリス様が処理できますが、処理できてしまうせいで仕事が集まり、最終的に倒れます」


「……処理しなければ、作戦が止まります」


「はい」


「なら、処理します」


 イリスは小さく言った。


 それは覚悟ではなく、思考停止に近かった。


「一週間以内に、影刃暗殺部隊は消えます」


 ナハトが俺を見る。


 俺は続けた。


「ナハト様の命令は短すぎます。私が翻訳しなければ、部下に意図が伝わりません」


 ナハトは低く言う。


「伝わる」


「伝わっていません」


「……伝える時間がない」


「時間を作る必要があります」


「任務がある」


 短い返答だった。


 だが、その中に疲れが滲んでいた。


「十日以内に、夢魔外交局は労働組合を作ります」


 リリスが微笑んだ。


「まあ」


「相談業務がリリス様一人に集中しているためです。感情労働の限界です」


「そうね。限界ね」


 リリスは魔王を見た。


「ちなみに陛下、私は昨日、兵士二十七名、幹部六名、捕虜三名、陛下ご本人の愚痴を聞いております」


「私は愚痴など言っていない」


「『勇者がしつこい』は愚痴です」


 魔王が咳払いした。


「くだらん」


 彼は俺の書類を見下ろす。


「そんな予測で我を脅すつもりか」


「脅しではありません」


 俺は言った。


「予測です」


 魔王の目が細くなる。


 空気が重くなった。


 魔力が会議室に満ちる。


 喉が詰まる。


 背中に汗が伝う。


 指先が冷える。


 目の前にいるのは、世界を半分焼き払える存在だ。


 俺はただの人事担当で、手元にあるのは剣ではなく書類だけ。


 それでも、俺はその書類を離さなかった。


 現実を数字にしたもの。


 誰かの悲鳴を記録に変えたもの。


 壊れる前の兆候を、必死で拾い集めたもの。


 今の俺が魔王の前に差し出せる武器は、それだけだった。


「レオン」


 魔王は低い声で言った。


「お前は、いつからそこまで思い上がるようになった」


「思い上がってはいません」


「ならば何だ」


「陛下が見ていないものを、見ていただけです」


 魔王の表情が変わった。


 怒りだ。


「我が何も見ていないと言うのか」


「少なくとも、四天王の顔色は見ておられません」


 ヴァルガが息を呑んだ。


 イリスが目を伏せた。


 リリスの笑顔が消えた。


 ナハトは動かない。


 魔王の魔力が膨れ上がる。


「出ていけ」


 低い声だった。


「二度と、魔王城に戻るな」


「承知しました」


 俺は深く一礼した。


「十年間、お世話になりました」


 その言葉に、ほんの一瞬だけ、魔王の目が揺れた。


 気のせいかもしれない。


 昔の陛下なら、ここで何かを言ったかもしれない。


 俺が魔王軍に入った頃のゼルギウス陛下は、部下の名前を覚えていた。


 ゴブリン兵の家族構成まで覚えていた。


 負傷兵の見舞いにも行った。


 戦争が長引き、領土が増え、敵が増え、責任が増えた。


 それと一緒に、陛下は人の顔を見なくなった。


 数字を見るようになった。


 勝敗を見るようになった。


 忠誠という言葉で、疲労をごまかすようになった。


 俺は、それを止められなかった。


 だから、もう出ていく。


 会議室の扉へ向かう。


 背中に、四天王たちの視線を感じた。


 誰も声をかけない。


 かけられない。


 魔王の前で、解雇された人事担当に情を見せる余裕など、この組織にはもう残っていなかった。


「レオン」


 扉の前で、魔王が言った。


 俺は振り返らない。


「お前がいなくとも、魔王軍は勝つ」


「そう願っています」


「願うだと?」


「はい」


 俺は扉に手をかけた。


「私は、魔王軍が嫌いで十年働いたわけではありませんので」


 それだけ言って、俺は会議室を出た。


 廊下に出た瞬間、息が漏れた。


 思ったより、体に力が入っていたらしい。


 膝が少し震えていた。


 怖かった。


 悔しかった。


 寂しかった。


 けれど、会議室の中では顔に出せなかった。


 出せば、あの人たちがさらに傷つく。


 出せば、魔王陛下に縋ってしまう。


 だから俺は、最後まで人事担当の顔でいた。


 魔王城の廊下は長い。


 黒い石壁に、青白い魔導灯が並んでいる。


 十年前、初めてここを歩いた時、俺は緊張で足が震えていた。


 人間と魔族の混血。


 人間の村では忌み嫌われた。


 魔族の世界でも、最初は信用されなかった。


 そんな俺を拾ったのが、若き日の魔王ゼルギウスだった。


「お前は、人間も魔族も見てきたのだろう」


 あの頃の陛下は、そう言った。


「ならば、両方が生きられる軍を作る手伝いをしろ」


 俺は、その言葉を信じた。


 だから十年、働いた。


 勤務表を作った。


 相談を聞いた。


 退職届を止めた。


 泣いているゴブリン兵を食堂まで連れて行った。


 出撃前に震える新人兵の配置を変えた。


 強がるヴァルガを休ませようとした。


 倒れそうなイリスの会議を三つ潰した。


 ナハトの部下に、彼が本当は感謝していることを伝えた。


 リリスの休日に相談者が来ないよう、仮眠室の前で見張った。


 戦えない俺にも、できることがあると思っていた。


 俺は混血だから知っていた。


 人間の世界でも、兵士や冒険者たちが同じように使い潰されていることを。


 魔族も人間も、壊れ方は同じだった。


 だからいつか、両方を変えたいと思っていた。


 思っていただけで、俺は今日、クビになった。


 城門まで来ると、守衛のオーク兵が俺を見た。


「レオンさん?」


「本日付で退職しました」


「えっ」


 オーク兵の顔色が変わる。


「じゃ、じゃあ来週の俺の育児休暇申請って……」


「通してあります。第二倉庫の棚、左から三番目の箱に承認済み書類があります」


「さすがです!」


「ただし、復帰後の夜勤は二週間免除です。子どもが生まれた直後に夜勤を入れると家庭が崩れます」


「ありがとうございます!」


 オーク兵は深々と頭を下げた。


 その隣で、スケルトン兵が手を上げる。


「あの、私の骨密度検査は……」


「来月三日です。忘れないでください」


「死後も健康診断があるとは思いませんでした」


「死後だからこそ必要です」


 俺はそう言って、城門を出た。


 背後で、重い門が閉まる。


 魔王城。


 十年働いた職場。


 俺の人生のほとんどが詰まった場所。


 そこから追い出されたというのに、不思議と涙は出なかった。


 ただ、肩が軽かった。


 異常なほど軽かった。


 そして同時に、胸の中が空っぽになった。


 明日の勤務表を作らなくていい。


 早朝会議の資料を作らなくていい。


 魔王陛下の思いつき作戦を、現場が死なない形に翻訳しなくていい。


 ヴァルガの出撃を止めようとしなくていい。


 イリスの会議を減らそうとしなくていい。


 ナハトの命令を補足しなくていい。


 リリスの相談者を追い返さなくていい。


 では、俺は明日、何をすればいいのだろう。


 その問いが浮かんだ瞬間、足が止まった。


 十年間、他人の予定ばかり埋めてきた。


 自分の予定だけが、真っ白だった。


 リリスに言われた言葉を思い出す。


 あなた、自分の休みを一度も勤務表に入れていなかったでしょう。


 まったく、その通りだった。


「ああ」


 俺は空を見上げた。


 魔族領の空は、いつも薄暗い。


 黒い雲の隙間から、かすかに赤い月が見える。


 笑えばいいのか、泣けばいいのか、わからなかった。


 だから、いつものように予定を立てることにした。


「まずは寝るか」


 その夜。


 魔王軍第一軍団の勤務表は、更新されなかった。


 夜が明けると同時に、破滅の歯車が回り出す。


 そして翌朝。


 第三補給隊から、吸血鬼部隊三十二名へ命令書が届いた。


『本日正午、南方砂漠警備に出撃せよ』


 吸血鬼部隊長は、命令書を三度読んだ。


 窓の外を見れば、すでに太陽が昇り始めている。


 それから、真っ青な顔で呟いた。


「……我々を、干物にする気か?」

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