彼らは殺した
ああ、まただ。またやってしまった。
「ねえ。なんなのこれ」
甲高い女性の声であるのに、唸る様に低い周波数を帯びたその声は一瞬にして俺の頭の中を真っ白にさせる。
母が持っているそれは前回より4点ほど下がったテスト結果だった。
「ごめんなさい。」
その言葉を母は許さない。言う暇を与えてはくれない。
「なんでできないの!携帯!?部活!?またあの不良とつるんでるんでしょ!だからできないのよ!そんなにお母さん困らせて楽しいの!?」
あの不良というのは俺のクラスメイト達。あれを不良というのなら8割の学生が不良だろ。
勿論そんな意見反論が通ったことはない。
ただ俺はこの母親に対して頭を下げて、どうか感情を飲み込んでもらうしかない。
「ねぇいじめられてるの?そうでしょ?そうなんでしょ?そうじゃなきゃこんなことにはならないわよね!」
これが一番苦しい。勝手に被害者にされて、勝手に哀れまれる。必死に否定しようものならより疑いは深まる。肯定しても当然より深まるし、学校にも迷惑をかける。だから俺はわずかな呼吸の隙間を狙っていつもの定型文を叫ぶしかない。
「ごめんなさい!ごめんなさい!全部俺が悪いんです!俺のせいで母さんにつらい思いさせてごめん!俺が怠けたばっかりに!本当にごめん!」
これを一時間かそこら続けて、気づいていると自分は箸を持って、食卓に座っていた。さっきまでの形相が嘘のように母は笑顔で食卓をかこっている。
食卓に彩られたソレらは本来食欲をそそる鮮やかなものだが、今日に限ってなぜか色味を感じられなかった。いつもは何ともなかったのに。今日の食事はまるで砂を咀嚼しているようでとても食べられたものではない。
ふと、隣に目をやると父が無表情で作業の様に食材を口に運び、ロボットの様に母に定型文を唱えて機嫌をとる。
それはまさしく今の俺だ。いや、俺はまさしく今の父だ。
今日のことを思い起こして、いつもより力を入れて勉学に臨む。
そのはずが、なぜか全く分からない。頭も手も動かない。動かせない。
でも母がいつ見に来るかもしれない。そう思うとようやく手が動いた。
ガタガタ。といって。それっきり、たった一文字もまともに書けずに。その日は一晩中机の上に座して日の出を迎えた。
「行ってきます。」
母親にそういつも通り、何事もなかったかのように言う。
「はーい!今日も頑張ってね!」
母親は何事もなかったかのように俺にそう言うとそそくさと仕事へ向かっていった。
いやよかった。何かと過剰に心配する母親が何も言ってこないなら、徹夜明けのように、衰弱してるようには見えないってことだ。
体調を悪そうにしていればまた何かとヒスってくるかもしれない。
そう胸をなでおろしてぼんやりといつもの通学路を通る。
まぶしい朝日、車のエンジン音、主婦の無駄話。
どうでもいいようなそんなものすべてにイラつき、不快感を覚える。
「よろしくお願いしまーす!」
そんなふうにぼーっと歩いていたせいかティッシュのつもりでもらったソレは新興宗教のチラシだった。
「うげ、変なもん取っちまった。」
かといって、ポイ捨てできるほど俺の良心は堕ちてない。……取り敢えずゴミ箱に突っ込むように鞄へしまう。
校門を目の前にすると落ち着く。早朝の人の少ない校内。わずかに聞こえる朝練の声を聴いて、ああ、ようやく逃げてこれた。ようやく安心できるって。
いつものようにそれをくぐって、いつものように靴をしまう。
上履きを放り投げて足を突っ込んで、ふてぶてしさを取り繕って歩き出す。
教室につくとムカつくやつがいつも通り誰よりも早く席についていた。
ぺらぺらと何かを読んですました顔をしている。
のうのうと生きやがって。
成績は赤点すれすれ。
運動もできない。
何にもできない。
そんなこいつが俺は大嫌いだ。
努力もしてこなかった人間がなんでそんなすました顔をしてそこに座ってる。
こいつが最底辺高校に行って、赤点とって単位を落として留年してるんだったらいい。
だが、なんでこの高校へ来てる?俺とお前が何でおんなじ高校なんだよ。
「……あ、鳴川クン。」
そんな俺の心情も知らないでこいつは唯一話かける俺を友達だと勘違いしてやがる。
「おい!お前風呂入ったのかぁ?」
そんな目でみんなよ。そんな目で。
「鳴川クンって。いつも楽しい?」
――なんだ?それは。
「まぁお前と比べたらな!お前陰キャだもんな!」
そんな目で見るな。ソレは哀れむ目だろうが!
「何か辛くない?いつもと変だよ。」
「……なんだよ。なんもねぇよ。」
「無理しないで何があったか話してごらんよ。僕は君の友達だろ?」
「……なんもねぇって!気ィ悪いわ!なんでそう思うんだよ!」
「だって、少し手が震えて目の焦点があってない。頬も少しこけて、体調が悪そう。
なんもないって即答せずに少し考えてた。それは何かあるってことの裏返しでしょ?
……今日は一段と熱いのにどうして長袖なの?
目の下が真っ黒だね。いつもはそんなことないのに。
足の向きが外側だ。心理学じゃ逃げたいってことの現れだって。だから……どうしたのかなって。」
「……」
気が付くとそいつは机と椅子と一緒にぐしゃっとぐずれている。
何してるんだ俺。
「……探偵気取りかよ気持ちわりぃ何勘違いしてんだよ。」
……。なんで俺こいつにこんなこと言ってるんだ?なんで俺こいつ殴ってるんだ?
俺が……。いじめ?俺が?加害者?
気が付くと駅前にいた。時計は午前10時を回っている。
何をしているんだ俺は。今日は学校だろ?なぜかここに居る理由が思い出せない。
……いや思い出したくないだけだ。記憶喪失のようなフリを心の底からやっているだけだ。
そうだ。ただ俺は逃げてきた。逃げてきただけだ。
何から?学校から?アイツから?勉学から?
どこへ逃げる?母親?父親?10代の友達?
俺はその時になってようやく気づいちまった。
ああ、詰んでるじゃんか。
母親とか学校とか、今までそういった具体的なものから焦燥と不安として睨まれていた。でも今は何が原因かわからない。
そうか。もう全部か。全部が俺を睨んでるんだ。
不安と焦燥感に駆られて俺はどうしていいかわからず走り出した。ただ走り出して、気づくとやはり家についてた。
誰もいない家。18時まで安全な家。
鞄を放り投げて、部屋を見渡す。
乱れたシーツ、開きっぱなしの雑誌。
机へ目をやる。敷き詰められた参考書。タイマー。スマホをしまう小さい金庫。
壁へ目をやる。掲げられた目標。だれかの格言。志望校。
……志望校?誰の?俺の?
違う。俺はここへ行きたくない。
俺は何になりたかった?何がしたい?
これはだれの人生だ?誰の人生で、誰の苦しみを背負ってるんだ?
自分の中で崩れていく。前提、意味、未来。
そうか。俺はもうだめなんだな。
ドアの上からぶら下がっているネクタイを見て改めて思い知らされる。
やり残したこと?周りへの影響?そんなものを考えるだけの脳みそはもう昨日で使い切ってる。
「ごめん父さん。母さん。期待に添えなくて、愛せるような息子じゃなくて。」
そう最後につぶやくように言う。思ってもないことを。誰も聞いていないのに。
そして俺は輪っかの向こう側を深くのぞき込んで……。
――――――。
……失敗した。首の痛みが、ぼやける視界が、鼓動がやめてくれと叫んでいる。
つぶれたのどが空気を遮って、膨らみきらず、何度もせき込んで、せき込んで。
そしてようやく開いた気道にダムが決壊するが如く空気が流れ込んでくる。
吸って、せき込んで、吸って、また咳き込んで。
そして一歩遅れて凄まじい恐怖が全身を這いずり回る。
鼓動はより早く、呼吸はより浅く、手は震え、涙が止まらない。
ゴミ箱に嘔吐して、すると少し詰まってまたむせかえって。呼吸が止められるたびに恐怖する。
いやだ、死にたくない。死にたくなんかないんだ!
どうすればいい?どこへ行けばいい?親に?先生に?友達に?
ダメだダメだダメだダメだ!
でも、助けてくれ。だれでもいい。誰でもいいから助けてくれ……!
すると走馬灯のように、いや実際走馬灯だろう。頭の中で今朝の宗教のチラシ配りを思い出す。
……そういえばあの宗教。キリスト教だったよな?なら安心だよな?助けてくれるよな?赦してくれるよな?
自分に言い聞かせて、どこかあった不信感を拭って鞄を広げる。
ぼやける視界とまだはっきりしない意識でもらった紙を広げるとその紙の最後のほうに駅からの行き方の乗った地図があった。
ちょうど近所だ。
もう何も考えられなくなって、俺は藁にも縋る思いであの紙に書いてあった教会へ駆け込む。
扉は開かれていた。奥にはあの時の女がいて、その奥にもう一人。その女は十字架に祈りをささげているように見えた。
「たすっっ。……っけて」
のどがつぶれてうまく声が出ない。
しかし、その声に祈りをささげていた女は気づいたようで。
「大丈夫ですか?」
女はそう心配そうに駆け寄って俺を介抱してくれた。
長い椅子のようなところに座らせられ、その隣にその女は座した。
肩をなで、優しい笑顔で、それでも寄り添うような表情で俺を落ち着かせる。
今朝チラシを配っていたもう一人の女から、一分もしないうちに飲み物が出された。
正直のどがつぶれて飲めるような状態ではなかった。
しかし、ここで拒絶されたくない。その一心で少し無理をして咳き込みながらも飲み干す。
少し落ち着いたようだ。
しばらく女が俺をなだめながら俺の話を聞き出す。
嗚咽を漏らしながら大分雑に話したが女は俺の言うことを静かに聞いていた。そして最後に俺は女に泣きすがる。
「も゛う、俺っ。もうどうしたらいいか……!」
しばらく女はそうして俺の話を優しく聞いてくれた。こんなしゃがれてかすかすな声でも聴いてくれた。
すると女は優しい声で抱きしめながら囁く。
「――。」
は?何を言っているんだこの女は。――?それはつまりそういうことだぞ!
キリスト教ってそういうのは禁忌だろうが。
「――。――――」
何を……。そうか……。
「――――――――――――――――――」
彼女の言葉は、なんて恐ろしいんだろうか。って思っていた。
でもどうしてかな。美しい。いや恐ろしさの本質は美しいんだ。
馬■を言うな!やっ■■■ルトじゃねぇか!ここ■ら逃げ■
矛盾がない。
感情もそれを肯定する。
何が恐ろしい?何がダメ?……ダメじゃない。
いいんだ。そうだ、いいんだ。
「――――――――。」
彼女のその天使のような微笑みは……。いや天使の「ような」じゃない。
彼女は天使だ。天使が舞い降りた!俺はもう苦しまなくていい。
俺は教会を飛び出し走っていく。どこか体が軽くて多幸感に包まれている。
それはきっと彼女が与えてくださった。俺はもう苦しまなくていい!
その輪っかがもう違って見える。それは天国への扉だ。それは永遠の苦しみからの解放だ。
すこし怖い?それは試練だ!
彼女は言ってくれた!
「自分の決断を否定しないで」とそう言ってくれた!
俺は自分の命という呪いを自分で制するんだ!
俺はもう!
……
――――――――――――――――――――――――――
助手の淹れた紅茶を啜りながら助手が思い出したように話し始める。
「警察が母親をマークしていました。当初はやはり自殺という見立てで進めようと思っていたらしいですが、1つ不審な点がありまして。」
「不審な点?」
「それはどうやら二度首吊り、もしくは絞首しているようでした。色々と調べてみると一度目の行動から二度目の行動まで少し時間が空いてたみたいでして。」
「それは単に一度失敗したからもう一度……。といった具合ではないのかな?」
「最終的にはその結論に至ったそうですが?というのも自殺衝動というのは波のようなもので、連続して行うというのは考えにくいらしく。」
「なるほど、だから彼女を尾行していたのか……。彼女が自殺に対して懐疑的で、私たちに200万ほど出して調査した事実。勿論それ以外にもアリバイや詳しい鑑識の結果彼女はめでたく無罪といった具合かな。」
「ええ……。」
助手は頷きながらそうつぶやく。十二分に納得しているようだった。
その一方私は何か少し引っかかっている。この時系列、この推理と論理に、ほんのわずかな空白がある様に、そう思えてならなかった。
それは彼の捜査結果を聞いたからそう思い込んでいるだけ……か。
「……また箱を潰してしまってなければいいな。」
そうつぶやいて、この事件は終わった。




