Case 02「伝える」第十三節
時刻はもう3時を回っている。それなのに私の頭は驚くほど爽快で、本来の活動時間が嘘のようだ。
だが本質的には、注意の散漫と、それを肯定する快楽でしかない。
当然と言えば当然だ。どんな超人にも、天才にも、体力には限りがある。
精神論でどうにかできるものでもなく、ただ灰皿に吸い殻が積み上がっていき、いつの間にか変わっていたペットボトルコーヒーのラベルを見つめている。
すると、ふと無意識に口が動いた。
「不気味がっていたよなぁ、警部」
被害者の逃走、所作、警察の動き。いろいろと頭の中で再現して動かし、意味を見出していく中で、それが引っかかって仕方ない。
推理の上でネックになっているというわけじゃない。ただ、ノイズとして流れ続けているのだ。
「ええ。あの顔は」
助手は一瞥だけして、その後、目線をパソコンから離さずに答えた。
「礼儀正しくしたつもりだった。意図せずとも隙はいくらでも見せた。……自己開示が足りない?」
本来、心の内にとどめておくべき内省は、愚痴となって助手へと向かっていく。
「警部という職業柄、そういうものには敏感なんだと思いますよ。今までの民間の依頼者相手ならそれでよかったんでしょうが、長年その道にいるベテラン相手には限界があるんだと」
「……ごめん。もっと簡潔に」
疲労感と疲労とは必ずしも一致しないもので、爽快なはずの頭に、どうにも言葉がうまく入らなかった。
すると助手はまた私を見て、一息置いて話し続ける。
「演技の通じない相手ってことです。むしろ逆効果かと」
「演技だなんて人聞きの悪い。社交、礼節、利他性の強調」
人が場面に応じて演じているというのは、改めて述べるほどでもない。
近代ドイツ哲学やユング。果ては監獄実験。だからこそ、この違和感を「演技の通じない相手」の一言で表すのは、あまりに不愉快だ。
そんな不満を分かりやすく浮かべて、窓の外を見つめる。
しかし助手は窓に映って、それでもなお述べ続けた。
「0か100じゃないんですよ、天知さん。本心を垂れ流せってわけじゃありません。かといって本心を隠し、偽り切れというわけでもありません。その塩梅が警部にとっては……」
そこまで言って、助手は視線を落とす。下に? いや、私の灰皿へ。
随分と歯切れの悪いところで区切るもので、気になって窓に背を向けると、また助手は口を開く。
「……少し、寝ましょうか。僕がしっかり見ておきますから。天知さんは、きっと明日のほうが頭を使うでしょう?」
その助言を無視するほどに、私は鈍っていない。
こういう時の客観的な意見というのは、実に貴重なのだ。
助手は目線を灰皿から私へ戻して、私の目をじっと見つめる。
それがどうにも不快? で、そらせずにはいられなかった。
「うん。何かあったら……なくとも8時には起こしておくれ」
目をベレー帽で覆って、椅子にもたれかかった。
目を瞑ると、やはりいろいろと思考は巡っていたが、いつの間にかそれは消えていた。
しばらくして、助手はいつもよりも力強く私を揺すって起こす。
時計を見てまず、7時だということで、私は一気に目が覚めた。
未だぼんやりしつつも、眠気というものは完全にどこかへ行ってしまって、眩しい光に目を細めながら助手のほうへ向く。
「天知さん。見つけたかもしれません」
助手はノートパソコンを私に向けて、少し早口で述べ始める。
「この女性です。荷物の多さ、視線の動き、そして何よりもルートです」
「ルート?」
聞き返しながら、私は脱げてしまった片方の靴を探して座席の下を覗き込む。
「一つ目南のカメラ、二つ目東のカメラ、そして三つ目の北のカメラ、すべてに映っています。つまり、来た道を戻っていると……。また公共交通機関の配置的にも……」
その最後の言葉は、あまりよく聞こえなかった。なにせ外は、意外にも子供たちの声なんかの雑音でうるさかったからだ。
ようやくはまった靴を踏みしめて、アイマスクとなっていたベレー帽を右手で握り締め、私は車から降りる。
「どちらへ」
唐突な行動に驚いた助手が何かを発するが、扉が閉まる音と重なって聞こえなかった。
駆け足、駆け足。昨日の今日で、また走る。
目の前の十字路めがけて走っている。
あの曲がり角を女が曲がるのは、先ほど見た最終位置、歩く速度、カメラの遅延からして、あと5秒。
……少し早いかもしれない。ゆっくりと足を緩めていく。緩めて、緩めて。そして曲がるその瞬間、精一杯地面を蹴って。
「あー! ごめんなさい!」
倒れ込んだ女にそう言って、手を差し伸べた。
「いいえ、こちらこそ……」
目線、しぐさ、抑揚。そのすべてを見逃さないよう、無意識にそこへ神経を張り巡らせ……いや、違う。
心理じゃない。人物像じゃない。知りたいのは物的証拠だ。
意識を無理やり、身につけているもの一つ一つへと移す。彼女を助けるふりをしながら、観察し続ける。
地面へ叩きつけられた鞄からは書類が雪崩れ、そこからあらゆるものが散らばっていた。
それを拾ってまとめながら情報を頭に入れていく。日付は昨日、一昨日。プレゼン資料のようだ。食品関係?
また、名前もいくつか確認できた。複数あったが、女性名らしきものは一つ。「三門 彩」。
「すみません、すみません。」
そう言いながら拾い続ける。女も同じように謝りながら拾っていく。視線の端に映る女の目線は散らばった荷物よりも私へと向けられていた。
……だからといって観察をやめないし、最も拾う動作と切り離せないのだから気にせず続けていく。
ファイルを拾い上げると500mlの水が2本、カロリーメイト、それにお弁当の包み?
これは、食事? 随分と多い。
待て、カロリーメイトは監禁されていた部屋にゴミが落ちていたような……。いや、思い出すのは後だ。今は必死にインプットしろ。
集めた書類、ファイルを女へ手渡すときに手を見る。
右手の薬指に指輪。しかし、左の薬指にはめていた痕。靴は随分と傷ついている。スーツの右の袖に、うっすらと土埃らしき汚れ。
わずかに見えた手のひらは、少し荒れている。荒れている、というよりは、マメができている?
「ほんとにごめんなさい。けがとか、ないですか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございました。」
そう女は視線を荷物に固定して足早に去っていった。
車へ戻ると、助手はただ見つめて、次の言葉を待っている。
「浅海さんに連絡を入れておいてくれ。昼過ぎに行くと」
「構いませんが……山本警部のほうがよいのでは? 浅海さんより幾分も交流がありますし、むしろ浅海さんとは初対面といっていいほどで……」
「昨日の今日で、警部という立場の人間がどれほどの重労働にさらされているか、想像に難くないだろう? それに昨日も言ったが、あまり深掘りされたくない。浅海さんなら、いろいろと緩いだろうさ。そして何よりも……君はもう少し、周りからどう見られているか気にしたほうがいいと思うね」
わざとらしくにやけ顔を浮かべて、そうからかう。私も決してそれに詳しいわけではないが、あのわずかな会話で、少なからず好印象を持たれていたのは見て取れる。
何より、客観的にこいつは見てくれがいい。ストーカー事件を解決したと思ったら、こちらが被害者に、依頼者が加害者になっていた――なんてこともあったくらいには。
が、どうにも助手にはピンと来ていないようで、それはそれは見事なおとぼけ顔を披露していた。
……ああ、そうだ。こいつはこういうタイプだった。こんなものだから、助手をハニートラップに用いるのを断念したんだったな。
「ま、警部への配慮だよ」
そう言って助手を見ると、少し呆れた顔をして微笑んでいた。




