Case 02「伝える」第十節
へえ?逃げるんだ。
正直全く想定していなかった行動に、驚きと好奇心があふれ出す。
……いや、想定はしていなかったがどこか納得できる。それはなぜかは、まだ直感の域を出ず、言語化はできていない。
それはそうと、もちろん逃がすつもりはない。この建物の構造は把握している。
逃げるには私たちの入ってきた出入口しかない。助手を置いてきて正解だった。
「浅海! 追うぞ!」
警部は男を追って駆け出す。
よろめきながらも、浅海と呼ばれていた新人は何とか立ち上がり、警部の後ろに続こうとしていた。
それを見て私は急いで無線で助手に話しかける。
「男が一人降りてくる、確保してくれ。」
「—し、被害者を拘束する——は……」
鉄筋コンクリートのビル内ではどうにもノイズがひどいものだ。
ザザッとノイズが入ったり、あるいは途切れたりで上手く音を拾えない。
「は?」
若干焦りながら聞き返す。
「——法的根—は?」
助手は改めて答える。若干の焦りを見せる私と比べて助手は冷静にゆっくりと話す。
「法的根拠?それはあとで説明する。大丈夫、何とかするさ。」
そう言って助手をなだめた。
雑ななだめ方だが助手は分からなくても命令を遂行できる能力がある。
しかし、思考停止ではない。その二つを兼ね備え、共存させている助手はこういう時に本当に助かる。
「くそっ、待て!」
奥で響く警部の声。
気が付くと私の足は駆け出していた。だが、もっとも、駆け出す合理性などない。
足は遅いし、仮に追いついたところでむしろ私の身が危ない。
それでも足は理性に反して動き続ける。
「くっそ!俺はなんもしてねぇよ!こんな、こんな事していいのかよ!」
遠くから聞こえるその声で、彼が捕まったことを知り、安堵する。
しかし、階段を下る足はその重力に逆らえず落ちていき、気づけば私はすべての階段を下りきって助手と浅海の前へと放り出された。
そして波のように押し寄せる動悸と酸欠で視界が暗く、胸が痛くなっていき、直立を保てなくなった。
ただ、前方から助手と新人――浅海だったか。その二人のやり取りが聞こえてくるので、残った意識でそちらへ耳を澄ませる。
「ご協力感謝します。」
「いえ、追い込んでくださったお陰です。」
「ですが、この場合あなたは暴行罪が成立するのかしら……?」
「……。」
助手は黙って私に目をやる。私に説明を求めているんだな。
雑に指示を出したのは私だし当然か。
絶え間ない息継ぎの隙間を狙って言葉を紡いでいく。
「はぁ、はぁ、ま、まって。あ、あとで説明するから……。呼吸させて……。」
しかし、脳はただひたすらに呼吸と酸素を求めてそれどころではなかった。
しばらくして、ようやく話せそうになって、私は浅海に話す。
「あなた……浅海さんかな?あなたが突き飛ばされているのを伝えたから、現行犯人の逮捕に準じた協力として成立するはずですよ。ね?警部。」
私は立ち上がって、スカートについた土埃をはたきながら、最後の一言と共に警部へと目線を向けると。
「え?あ……うんそうだな。」
警部はずいぶんと嫌そうに?他人事のようにそう言った。
「さて、警部。人命は助かりました。そして何やら単純な監禁事件ではないようですね?さあどうします?」
私はつい得意げになって、礼儀のメッキがところどころ剥げてしまい、かえってわざとらしく言ってしまう。
「はぁ。ま、その通りだ。契約を締結しよう。」
あきらめたように、しかし信頼を含んで警部はそう言った。
「ええ、是非とも。ではお時間ある時にお呼びください。」
そう私は軽く会釈し、助手に一瞥して合図し、共に車へ戻っていく。
警部に声が届かないところまで来ると助手は小声で尋ねる。
「違和感があるのです。拘束も正直身動き一つ取れないとまではいきません。割と自由があったように思えます。階数も3階なので、極論逃げようとすれば逃げられます。」
「そりゃあ、君は3階から降りられるだろうが、普通の人なら……」
だが助手の言うとおりだ。三階程度なら骨折覚悟で降りるという選択肢はある。拘束も決して強いものではない。
全く身動きが取れなければそもそも鳩なんて捕まえられないのだから。
そしてドローンを見た時の彼の反応を思い返す。
口をパクパクとしていたのは声を発せないほど衰弱していた、とそう考えられるはずだった。
しかしそれは彼の必死の逃走と叫びによって否定される。
助けを求めたはずの男が、助けに来た人間から逃げた。なぜ?
……彼はあの状況に何らかの葛藤があったと考えるべきかもしれない。
「全く。やはり私もまだまだだな。」
そう言ってジッポーを取り出してカキンと爽快な音と共に煙草に火をつける。
いつもとは違う銘柄。あまり好みではない味。
その箱を眺めながら、ふと思う。
一体いつからだろう。煙草の味が分かるようになったのは。
否、香りも、熱も、喉を刺す刺激も。
すべてまとめてしまって「味」と呼ぶようになったのは。
味と言った瞬間、分かった気にはなれる。
けれど、その言葉からこぼれ落ちたものを、私は幾度意識しただろうか?
結局、この事件も同じなのだ。
先入観、知識、常識、経験、学習。
それらは分かりやすくしてくれるが、同時に、枠に収まらないものを見えなくする。
私は一体何を見落としている?
私は彼を、何に分類していた?
被害者。監禁された人間。助けを求めた人間。
……。
そうやって煙草の煙を目で追って、思慮にふけっていると、助手の嫌そうな顔が目に入る。
愛煙家の、そして体力を使わない私と違って、煙草は助手にとって害、不快以外の何物でもない。
「一本だけだって。」
そう笑顔で許しを請うと。
「いえ、歩き煙草。」
全くの別角度から咎められてぐうの音も出ない。
助手は嫌そうな顔をしながらも辺りを見渡し警戒し、また小声で私に問う。
「それで、どうです?何かわかったのでしょう?」
「あまり買いかぶらないでよ。絞り込んで、推理しかできていない。」
ため息とともに煙を吐いて返す。
すると助手は困った顔をしながらまた問う。
「それをお聞きしたかったんですけどね……まあいいです。それで、次は何をしましょう?決まっているのでしょう?」
先ほども然り、助手の深く聞かない所は利点でもあり、欠点でもあるが、相変わらず話が早い。
私は煙草を携帯灰皿に押し込んで答えた。
「そうだね……。朝食を買ってきてくれ。」
時刻は23時を過ぎたころだった。




